ダヴィンチもカタラン人だった? |
特にブルガリア舞踏団。釘付けになってしまいました。これはなんか、懐かしいような。
特異な磁場のせいか、クラクラ…何かがヨミガエルようなそんなフイーリング。
チラシには…ブルガリア周辺の位置、トラキア文明とあり。
(私は個人的にイシスmeさんやS宮さんを思い出してしまいました)
ブルガリア舞踏はジプシーの音色、東西のいろいろな要素がたくさん受け取れます。
日本の陰陽師を思わせるような動きもあり。皆でなんかヤバいね、といい合い感動していました。
その前からボゴミール…ときており。調べてみるとあらら…やはり。
1.6 異端カタリ派(仏:les cathares 英:the Cathar )
南仏の歴史を知るには、どうしても異端カタリ派についての若干の知識が必要になります。
単に宗教の問題に止まらず、この問題が引き金になって南仏はフランス王国に吸収されてしまうことになるからです。
(ラングドッグとはLe Languedoc、オック語:Lengadòc。オック語が話される地方を意味するが、
ほぼ東西をローヌ河とガロンヌ河に挟まれ、北は中央大地、南はピレネー山脈で区切られる地域に相当する)
カタリ派とは、11世紀初頭から西欧に広まるキリスト教の異端思想である。その起源は、ブルガリアに興ったボゴミル派のようで、ラングドック地方に根付いたのは1160年頃らしい。
なぜラングドッグなのか? おそらく、此の地方では徹底的な修道院改革が欠如していた事が、精神的な空白を生み出していたのであろう。
「吠え方すら知らない唖の犬」(インノケンティウス3世)といわれたラングドッグの修道士たちは、カタリ派の「完徳者」たちが証明して見せた熱烈な宗教心や完全な解脱に対抗出来るような価値あるものを何も持っていなかった。この完徳者たちは、菜食主義者で、自らに断食、手仕事、絶対的な貞潔を課して、模範的な生活を送り、民衆に感銘を与えた。
カタリ派は、領主を筆頭に、あらゆる社会階層から加入者を獲得した。特に織物業を営む地方の商人、職人、無産階級は特に受容しやすかった。又特に初期においては、教会の財産を渇望する世俗的封建制と結びついた。
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古代トラキアに関してはhttp://poyoland.jugem.jp/?eid=619に詳しく書いています。
2004年、ブルガリア共和国「バラの谷」と呼ばれる谷で世界を驚かせる歴史的な発掘が ありました。
世界最古の黄金文明と言われる「トラキアの黄金文明」です。(約7000年前)
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ミトラ教をはじめ、R・シュタイナー、ヒマラヤ聖者、ゾロアスター教、マニ教、キリスト教カタリ派、法華経…
古代秘技参入は繋がりあっています。
そして…94年に訪れたバルセロナのモンセラート。
藤原さんの絵描きの友人の妻がカタラン人とフランス人とのハーフのファビアンヌ。
イギリスを強制退去後、ピレネー山脈を自転車で走り、バルセロナへ至り、
数日後、運命の出会いを果たした…占星術師ファビアンヌと私はその後、日本で何度も会い、
手紙を交換し、98年の結婚式にも来日、出席してくれました。
それ以前の91年、はじめてイギリス、フランスを旅した時、絵描きの親友のサダが下宿するロンドン郊外、ウッドフォードグリーン。そして1か月滞在した後、フランスパリ、南仏へ。
ゴッホの地を目指して南仏のサンレミドプロヴァンスに行ったのですが、
期せずしてノストラダムスの生家を訪れ、その近くに宿泊したホテルで怖い夢を観ました。
藤原さんが牢獄に入っている夢です。
このノストラダムスとは一体誰の転生なのでしょう。
1999年まではノストラダムスの予言なるものが一世風靡しました。
また私たちが訪れた場所は、アルル、アヴィニヨン、ニースなど、
西地中海に進出したギリシア人が、オリーブ・ブドウの果樹栽培とワイン作りや
金属器・陶器の技術を伝えたことによって、繁栄した地域です。地中海の海底には、
ワインを入れて運んだ「アンフォラ壷(Amphore)」が数多く沈んでいるそうです。
貿易港として栄えたニース(Nikaia)アンティーブ(Antipolis)マルセイユ(Massalia)アルル(Arelate)…
ほとんど訪れています。
また…レオナルドダヴィンチが実はカタラン人だった…という記事がありました。
そして私たちも訪れたモンセラート。
そしてその日中にスペインからフランスに車で越境したのですが、南仏はすごい洪水、
雨の中を小さなおんぼろシトロエンで走り続けました。
ちっとも怖くなかった20代…
90年代は3度、フランスを訪れています。