春の奔流 |
数週間前(4月1日)、香椎のGさんのお母さんのルーツ、苅田片島にある国崎八幡、宇原神社の集落と同じ名前の集落に仲間の亀ちゃんが偶然、導かれました。(猪群山に登山した日)森、森中集落です。そして、香椎のGさんは6月頃、国東へ移住の流れ。昨日、実は国東へ来ていました(会えなかったんだけど)
朽網のメッセンジャー、moriさんも、一昨日、来てくれていました。(またまた、会えなかったんだけど)笑
そして(4月3日)猪群山登山の翌々日、その森、森中郷へ。払田という、来縄郷(都甲)の古い土地を車でドライブしました。貴船神社、妙見神社をお参りしていると、地元の方が声かけしてくれ、このすぐそばに智恩寺があることを印象づけられました。そしてその払田の交差点の向こうに奈良の春日神社と直結している春日神社があります。
そして私たちが住む都甲方面へ向かうと、都甲八幡、由原八幡があり…その先には金宗陰跡、龍王社、牛頭神社、厳島神社、そして屋山の長安寺へと繫がっています。大叔父の話によると、都甲八幡の周辺が主人の曾祖父の方の流れ。長安寺の方が曾祖母の血筋の流れらしい…と言うことでした。「こうちゃんのおじいちゃんの方が武士で、おばあちゃんがたの方は神社に繫がり深い、と思う」そんなことを大叔父は話していました。
いろいろな余韻、胸に感じながら、私たちは自分たちの拠点づくりに集中していたところ。
一昨日は北九州でグループワーク。そして昨日は地元の牛頭神社のおこもり初体験。神社清掃、寄り合いを経て、心で集落の方々と繫がり合いました。先輩方々に可愛がっていただいて、楽しそうに帰ってきた主人を見て、私も嬉しくなりました。そして昨日の夕方、にわかに雲行きが怪しくなり、突然の突風と雷雨。そのほんの少し前に子どもたちと都甲小学校裏の都甲川付近を散歩していたとき、急に心が暗くなり、どうしてという程、怒りが湧いてきました。そして、お腹も急降下。慌てて家に戻りました。そのすぐ後の雷と雨。何だか不思議。その浄化の雨と風の中で、いつしか怒りや不安は消えていきました。
もう少し言うなら、都甲川へ散歩に行く前に、古代史を解いており、先祖のルーツに繫がるある存在に行き当たっていたところでした。
そして…胸の中で、そうだ!と私と主人のルーツが合流したポイントでした。昨日は母が国東に来ることを決意した日でもあり…
ああ〜裏山は天満山。天満神といえば雷神さん。何だか、言葉に出来ないメッセージ。
あらたなページが開かれる予感した。
母の祖先のルーツ、相模原、佐藤と藤原のルーツが合致した。
母と主人がようやくひとつに溶け合った…というメッセージかな。
2012年 10月 26日のブログ/伊勢原…もうひとつのルーツへ
そして奈良と深く繫がっている。共振している、藤原秀郷、三上山…
うまく書けませんが。書いてみます。
昨日のおこもりの会で、たくさんの方々(お年寄りが大半)に知恵を授かり、我が家の庭の奥にある敷地をお貸しいただけける流れから、本格的に土地を耕す気持ちに。自然になりました(笑)あ〜そうなんだとハートで追いついたという感じ。
そして今日は道具をそろえたり朝から軽快に行動していました。途中、玉津の稲荷神社へと。気になっていた立派なお稲荷さんをお参り。神社の中には、豊受姫大神と書かれていました。
そして、ぼうぼうの草地をどうにかしないといけないため、草刈り機を購入しようかと迷いながらも、どんなものを買っていいかわからず、とりあえず家に戻ることに。今日は智恩寺にどうしても行きたいと思っていたので、途中、智恩寺のある払田の交差点を曲がりました。すぐに智恩寺は見つかりました。そして、立て札に従って道を進むと、緑の沢がある、清らかなエネルギーを感じ始めました。と同時に、荒れ果てた竹林が見えてきて、異次元へ迷い込んだように。
ここに漂う気配なのか、それとももっと深い部分に、彼の魂の中に、この場所とただならぬ縁あるものがいるのか。
それはわかりませんが。目に飛び込んできたのは、「藤原姓大伴氏発祥の地」と書かれた碑です。
あっそうか〜とこれで何もかもが理解出来ました。
ここに、導かれていた流れが何重にも。昨年1年間かけて。繋ぎ、繋ぎ、2012年最後にたどり着いた場所。
鹿島昇さんや松重さんの古代史を実証するべく、幻の千年王朝(宇佐、国東、豊前)である東表国(シュメール末裔)の光や、金管加耶(狗耶韓国)耶馬壱国、九州古代王朝ー(ガド、イッサカル、ゼブルン族の三位一体)の面影を追ってきた…奈良の典子ちゃんたちと歩調を合わせながら…ことを思い出しました。
大三輪と大神。緒方と大神。大神と藤原。大伴と大友。大伴と藤原。大神と宇佐。八幡神と仁聞菩薩、平家と源氏
複雑にかつ、巧妙に入り組んだ、日本古代史の秘密。
カルマの法則、多次元同時法則の理解がなければ、多神教であった古代史の秘密は解けないだろう。
そう、古代東表国王族中臣氏が九州王朝の滅亡とともに、茨城鹿島へと亡命。不比等により、奈良へ進出。(新羅と唐の占領下)不比等と津守氏の娘(宮子)の婚姻は、宿敵であったシメオン族(秦の始皇帝の後裔)とガド族(猿田彦)との融和を意味する。
また、遡ること。阿倍氏(海神族安曇族、津守氏、度会、壱岐氏らと同祖)の祖、安日彦(登美彦の兄)らの東北への亡命(神武東征に伴い)…東北夷族へと、奥州藤原氏の流れへと。繫がっていった流れも。
*ほとんど一般的には、藤原氏の祖は茨城や奈良と思われているだろう。東表国の存在が抜けている日本古代史では九州王朝の実在はほとんど皆無。
本当のルーツを隠しておかなければいけなかった…ことも封印。
今に解かれるための封印。
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いろいろと書きたいところですが、…智恩寺へと戻ります。
以前のブログで検索していただければ、いろいろ出てきます。
智恩寺境内で、思い思いに対話していると、平尾台在住の方(平尾台に移住)からお電話、受け取りました。何だかこれもメッセージ。注文の電話でしたが、このように言付かりました。「ちょうどよかった。今日、古代史などで有名な方が平尾台にお越しになり、寺院では自分の名前と住所を言うといいそうです」との事.普段、あまりこのように言われない方なので、不思議でしたが、素直に受け取りました。そして…言われた通りにしました。輝く新緑の光の中で(今日は初夏の日差し)霊達と交信しました。ここへは、すぐにまた仲間を連れてこなければならない…
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良薬山智恩寺を紹介します。
国東六郷満山霊場 第6番札所。
智恩寺は六郷満山山本山分の一にして奈良時代の建立と伝えられ、本尊薬師如来往古は、満山灌頂所で学僧寺として栄えた。
天正14年(1586年)島津軍大挙して豊後を侵す。
当時兵火の余波にこうむって、三間、四間の本堂ことごとく廃滅し伝来の本堂は井底に投じられたと云われている。
その後、寛永7年(1710年)当村鼎村庄屋林兵右衛門、組頭の善左衛門、亦左衛門をはじめ惣氏仔衆は廃絶することを憂い、善光寺より和尚を迎え法界の平等利益を祈願した。
修正鬼会は昭和二十九年を最後に中止され、以来、正月三日、長安寺住職の護摩修法をもって、請願成就満足するところとなる。六郷満山峰入書が残る行動は史実を語るものである。 昭和48年11月鼎地区氏子集により堂学を修理する。
薬師如来 日光菩薩 月光菩薩 十二神将などが安置されています。
大きな国東塔は南北朝時代前期につくられたという。
神社は六社権現社。
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新緑の木立のなか、胸がいっぱいになりながら、言葉少なに帰りました。
途中、地図というか。地名の看板が目に入り、ますます確信を得ました。
昨年、1年間ブログを読んでいただいた方なら、おわかりと思います。
(ご主人が豊後大野、緒方に近い/赤峰姓は…沖縄にも多い!)典子ちゃんグループ、三上山磁場調整。同時にエジプト、シュメールの古代地図(猪牟礼山)のメッセージ。
一昨日の茶話会に来ていたメンバーのお名前、出身地もずらり…
あらゆる次元でまたまた統合され、融合されています。
まだまだ続きます。
おまけ…主人に本当の笑顔が戻ってきました♪
智恩寺から戻り、心から嬉しそうな笑顔。
同郷の方(牛頭神社真下にお住まい)から、思わぬ流れで草刈り機をお借りしました。
余っているから、使ってていいと云われ…やった〜。願いが具現化。
神社をきれいにお掃除したからかな。さっそくいい事が!
さっそく、明日から取りかかれます。
ブルーベリーや野菜、ハーブを育てたい♪夢はふくらむ(笑)まだまだ甘くないぞ。
子どもたち、朝早く家を出、夕方まで、帰ってこない(笑)楽しくて仕方ない様子。夕方、学校近く、夕方、迎えに。子どもたちの声、先生達の声、響く。これは学園天国だね〜
古代史の秘密、続きます。
豊後大友〜引用資料で遡ります。