光のレターその378/(新潟の翡翠) |
お店が、閉まったことにまだ実感がわきません・・。
2月7日のコンサートがあるからでしょうか。
さて、メッセージレターにありました。
新潟の翡翠について調べています。
その前に、主人に聞いたところ「有名だよ」との答え。
とっても、有名みたいですね・・知らなかった。
歴史も随分と古く、全国に散らばっているようで、とても興味深いです。
たぶんKさんですよね。教えていただいてありがとうございます。
東日本を繋いでいかなくてはと思いつつ、どこから手をつけていいのやら・・良いきっかけとなりました。
キリストの名前八幡太郎で、繋がったのですが、
長野に行った○○のお土産に、七味とうがらしがありました。
「八幡屋磯五郎」というメーカーだったのですが、
原料の調達先である「旧鬼無里村周辺の西山地方」の、
鬼無里村(きなさむら)が気になりました。
調べてみると、紅葉伝説というのがありました。
能や、歌舞伎になっているようです。
ウィキペディアより
<あらすじ>
937年のこと、会津には子供に恵まれなかった夫婦、伴笹丸(とものささまる)と菊世(きくよ)がいた。2人が第六天の魔王に祈った甲斐があり、女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、その時すでに呉葉の家族も逃亡していた。呉葉と両親は京に上った。ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていたが、源経基の御台所の目にとまり、腰元となりやがて局となった。紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、紅葉は水無瀬(みなせ・鬼無里の古名)に辿り着いた。経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。経基に因んで息子に経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山(荒倉山)に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参ること17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。
引用終わり〜
このことにより、水無瀬村から鬼無里村となったようです。
鬼無里村のページには、
ウィキペディアより
一般には主人公の「紅葉」は妖術を操り、討伐される「鬼女」であるが、鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、村民に恵みを与える「貴女」として描かれる。
会津生まれの少女「呉葉」は美貌と才覚に恵まれ、953年(天暦6年)に16歳で都に上る。呉葉は「紅葉」と名を変え、源経基(清和源氏の祖)の局となり懐妊するが、956年(天暦6年)に19歳で信濃[26]へ配流されてしまう。一般には、紅葉が経基の正室に呪いをかけた咎によるものとされるが、鬼無里では逆に紅葉は正室の嫉妬による讒言の被害者である。
引用終わり〜
鬼女ではなく、貴女だという言葉にほっとします。
まさに、二元性の統合をしなさいということでしょうか。
これを調べているとき、中学校の授業で足利家をやっているという話から、調べいたら、
源経基は、足利尊氏の祖先でした。
そして、源経基の4代のちに、義家がいますが、この方「八幡太郎」と呼ばれていました。
岩清水八幡宮で元服したからだそうです。
なぜ、これらを熱心に調べていたのか不思議だったのですが、
ここで繋がりました。
また、余談ですが、
○○が生まれる前、両親が
第六天魔王に祈ったとあります。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/momiji_shrine/momiji_01.html#4
第六天魔王とは他化自在天(タケジザイテン)とも呼ばれ、起源はヒンドゥー教のシヴァ神ともいうが、いずれ仏教における欲望と快楽を司る悪魔である。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/momiji_shrine/momiji_06.html#1
。「第六天さま」と呼ばれる神社が各地にあって、祭神は面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)とされている。この両神は日本神話における天地創造の神で、イザナギ・イザナミ両神の一代前に当たるのだが、最初の神から数えて六番目にあたる天の神である。それゆえに第六天と習合された。つまり後世の付会による。神仏習合が広まった中世と、神仏分離が行われた明治期になされたものであろう。そうした祭神が当てられる前から、確実に第六天信仰は存在した。
(中略)信州は第六天信仰が最も集中している場所であり、特に諏訪地方では各集落ごとに第六天を祀る碑がある。中には、第六天を「御社宮司(ミシャグチ)」と規定しているものもあるのである。
引用終わり〜
諏訪が出てきますね〜。
おもだるのみことは、八所宮にも、いらっしゃいました。
また、源経基は、「六孫王」とも名乗ったそうです。
(正確には、諸説あるようですが)
六というのが、偶然でしょうか、不思議です。
ちなみに、源経基のほうには、紅葉の記述はありません。
そのことに、非常に複雑な思いを感じました。
これを書きながら、平維茂について調べていたら、
墓所とされる場所が、阿賀野川沿いであることから、
また、深く調べてみる必要があるようです。
(主人の実家は、阿賀野川沿いです)
なので、次回持ち越しとなります。
また、八幡太郎、八戸太郎も気になります。
体調の悪いときに、長いメールで失礼しました。
7日、楽しみにしています。
イシスme