戸畑、飛幡へと。原点回帰。 |
戸脇神社でのワークでは…赤いドラゴンー地龍がSさんに観じられました。
赤い土…赤い馬、赤い龍…この日のキーワード。
皆さん心を合わせ、藤原さんのかけ声の元、地底からの愛の炎を3回、吹き上げて解放。私には赤いフェニックスの飛翔する姿、龍が解放されると鳳凰が飛翔する…私は赤いピラミッドの形が2つ見えました。すぐにS宮さんに報告しました。解放ワークはうまく行ったと思いました。この神社は藤原さんには龍つながりで、とくに心に残っているようで戻ってきても、新次元の光で、newグリッドへと再点火出来た!と、とても喜んでいました。私には、赤と黄色が入り交じったイメージでした。
ここでは、有名な神社の神主さんらが集まって、火祭りをし、神楽をされる神社だということ、Sさんから聞いていました。
神社裏の赤土の山に埋もれるように、八幡神社と書かれた額が置かれていました。
以下はhttp://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/wa-kosiki.htm#9より以前の神社風景
現在の写真とは別の場所のように感じられます。
戸脇神社
祭神 天手力雄大神
(相殿神)
応神天皇
高淤加美神
市杵島姫神
大歳神
猿田彦
由緒 万治3年(1660年)、山鹿村狩尾神社より移し祭るとあり、「万治」「天和3年」「宝暦10年」「明治4年」「明治23年」の5枚の棟札が残っていると言われています。文化13年(1816年)の寄進年が、彫られた鳥居があります。本殿裏の崖の上に、庚申塚が祀られていました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
さて、一行は最後の神社、飛幡神社へと向かいます。
この神社へは、あらゆる方々から行くように促されました。Sさんのセッションの後に飛び込んできたKYさんがこちらの神主さんは非常に宇宙人的な人だから、是非会ってくださいね。とわざわざ言いに来られました。その前々日にK田さん、K西さんがこちらを訪れて、メッセージレターを送ってくれています。神主さんにも会われたようです。そして亀ちゃん、イシスさんも、それぞれメッセージを伝えてくれていました。S宮さん、1歳まで戸畑で育ち、ここが氏神様だそう。さきほどの戸脇神社と同じ、波田野さんというお名前が神主さんのようです。名誉神主さんは数年前に亡くなられたとイシスさんが新聞の記事を見せてくれました。麻生氏、香月氏に関係の深い、中間在住のSさんも、こちらに多いにご縁があるようでした。
そして私も、ここは小学生、中学生時代のまさに遊び場、通学路でした。到津の西南女学院まで通学する時にも、この周辺を歩いていました。このあたりに仲良しさんがいて、よくあそんでいたものです。横に浅生グラウンドがあって、兄が野球をしていたので、この神社で遊びながら過ごしていました。神社というのは知っていたけど、生活の中にあまりにもとけ込んでいた存在、場所だったように思います。
主人は、といえば…この神社の真ん前に、実母の妹である叔母が住んでいます。幼い頃よく遊びに来ていたとの事。よくメッセージをたずさえて来てくれる皿倉のKちゃんのお父さんの兄弟が、伯母さんのご主人にあたり、血のつながりはないですが、親戚であります。
久しぶりの神社です。何だか嬉しくて、ハートの周波数マックス(笑)すべての原点とまでは言いませんが、このタイムラインを統合する必要があったのですね…そういえば浅生通りで毎日、バスに乗ってましたね!
ご祭神を見て、驚きました。道祖神 名護屋大明神。
飛幡八幡宮の歴史
建久年間(1190年 - 1199年)、筑前の宇都宮氏(麻生氏)の祖である宇都宮重業が、出身地の宇都宮から氏神の八幡神を勧請し、花尾城の鬼門にあたる枝光村宮田山に祀ったのに始まる。後に戸畑村に遷され、戸畑・中原両村の産土神とされた。江戸時代には藩主黒田家の祈願所とされた。1920年(大正9年)に現在地の浅生に遷座した。1931年(昭和6年)に県社に列した。1995年(平成7年)、それまでの「戸畑八幡神社」から「飛幡八幡宮」に社名を変更した。
関連ブログ
2012/5/17のブログへ葛城と勝山、勝田、かつき…
2012/7/16のブログへ◎大切な引用 雷大臣
2012/12/7のブログへ豊前宇都宮氏(城井氏の)滅亡と鶴姫
2012/12/11のブログへ豊前宇都宮氏滅亡の時
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先ほどの北九州点描さんからの抜粋より
江川(えがわ)は、北九州市若松区と八幡西区の境界の洞海湾奥と、遠賀郡芦屋町の遠賀川河口を結ぶ河川です。江川の東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川の河口に合流し、遠賀川は響灘に注ぎます。そのため川の流れは、二つの海の潮の干満に影響されます。
江川は、古くから舟運に使われました。神功皇后が洞海湾から江川を通って、芦屋に着いたことが伝えられています。時代は下って、豊臣秀吉も神功皇后に倣っ て、肥前名護屋に行く際、江川を通って芦屋に着いています。古代、都から大宰府に下る際、陸路も使いましたが、洞海(くきのうみ)を渡り、江川を通って島 門(しまど、現在の遠賀町島津)に上陸して大宰府を目指しました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
http://ja.wikipedia.org/wiki/より
名護屋崎、牧山古墳の古墳群において、約1,400年前の人骨、鏡、銀鏡、土器の副葬品が発見されている。日本書紀では戸畑は「名護屋」として登場している。
戸畑(とばた)の地名が確認できる最古の資料は、1396年(応永3年)の麻生氏の所領目録「惣諸浦塩浜其外所々目録(そうしょうらしおはまそのほかしょしょもくろく)」において、「戸畑浦」として登場しているものである。一方、奈良時代に記された万葉集には「飛幡(とばた)の浦」として、筑前風土記には、「鳥旗(とりはた)」として登場している。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
うわああ〜本当にヤバい。私は牧山小学校に通ってたんだ〜
ということは、本当にこちらが最初に名護屋の起源だったんだろうか。
1.戸畑の昔http://kitaqare.d.dooo.jp/gosi03.htm
日本書紀には名籠屋大済(なごやおおわたり)と記されています。現在は埋め立てられている名護屋崎です。古代から戸畑は鳥旗、飛幡、戸端と書かれています。これは岬の端という意味だそうです。
牧山は牧場があった所で、源平合戦の宇治川先陣争いで、梶原景季が乗った名馬磨墨(するすみ)はここの産と言い伝えられています。
律令下戸畑は筑前国遠賀郡に属していました。
中世においては、戸畑は花尾城主麻生氏の所領地でした。
江戸時代になると、筑前国は黒田氏の所領となりました。境川が筑前国と豊前国の国境でした。江戸時代は洞海湾は新田開発が盛んに行われましたが、戸畑では、汐井崎の干拓が行われました。
花尾城主麻生氏の所領地…藤原さんの母方が八幡鳴水に実家があり、河頭山、花尾城には12月に訪れたばかり。そのお母さんの妹さんが飛幡神社の前に住んでおられるのも何だか意味深。麻生氏の本拠、木屋瀬、香月にも以前、訪れています。
それぞれ、以下のページに書いています。
2012/12/17のブログへ祖父の愛、母の故郷…願いを繋ぐアンカーとして
2012/5/17のブログへ葛城の山か…八幡の金剛山、若武者たち
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://uyclub.atukan.com/uyclub/sinbun.frame/sinbun-78gou/newpage2.htmlより
故郷(戸畑)
万葉集に「ほととぎす飛幡の浦に敷く波のしばしば君を見むよしもかも」。
通説ではこの飛幡、または大宰府管内誌にいう鳥旗に地名のいわれを求めている。筑前続風土記拾遺では「戸畑は門端の義ならん」。洞海湾=水面(ミナト)の渡口で端っこにあるからだという。港があったから、泊場(ハテバ)、それがトバタに転化とも。いずれも苦しいこじつけである。
さて八幡=ヤハタが、秦系一族の多く住んでいた八(多数の意)秦であるとすれば、トバタのバタも秦氏の居住圏に連環する秦と考えて不思議はない。トは戸、門、入り口である。
すなわち、洞海湾の頚部を扼するトバタは、港湾へのとぐちであると同時に、ハタ居住地へのトグチでもあった。タハタがトバタに転化したのである。
万葉の歌がのべる、しばしば君を見むよしもかもとは、遥か海峡を隔てた母国への切々たる望郷の情かも知れないのだ。
銀座(ぎんざ)
若戸大橋のたもと、洞海湾の一面。元は築地町という立派な町名があった。なぜこういうつまらぬ町名に変えたのか不思議だ。
築地は字義通り、土地を築いた所、埋立地。東京の魚河岸、築地も同じ新開地である。
トバタの築地は天明年間に始まり、1880年(明治13)戸畑村人民総代が連署、汐井崎海面。3.079坪を埋め立て、村の基本財産に組み入れると決議、着工した。その後も埋め立てが続き現状になったが、築地の地名は明治の造成工事以来のもの。
それを安価な銀座などとしているが、銀座らしい町並みは別になく戦前、遊郭があったときは多少賑わったが、今はわびしい裏町。汐井崎は明治町が消えて汐井町の名になっている。
名護屋(なごや)
昭和一桁前半の人なら小倉北区日明から戸畑区中原を経て、鹿児島本線の外側に浜辺と松原が続いていたことを覚えている。海水浴場でもあった。今は昔の面影を知るよしもなく、埋立地の工業地帯になっている。
名護屋岬も、新日鉄戸畑製鉄所の構内に取り込まれわずか古墳に名を留めるだけ、1936年(昭和11年)戸畑製鉄所ストリップ工場の建設現場から発見された古墳を名護屋岬古墳と呼ぶ。
岬は同製鉄所第一、第二圧延工場あたりから突き出し「白砂青松相連なり、大瀬戸の蒼海に臨む、筑豊の連山は遥かに翠色を呈し**湾口を出入りする真帆、片帆白鳳の浮遊するがごとく、恰も一幅の活画なり」と大正4年発行の「小倉鉄道案内」にあり、その風景が姿を消したのはそんなに遠い
昔ではない。「なごや」は「魚(な)小屋」魚の回遊の見張り小屋のことで、全国に多い。また和やかな地の意も。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
他の名護屋(なごや)の地名見てみましょう…
•佐賀県唐津市鎮西町名護屋。肥前国名護屋城がある。
•大分県佐伯市蒲江町名護屋。旧蒲江町名護屋。
1955年(昭和30年)3月31日までは名護屋村であった。
•愛知県名古屋市が江戸時代まで「名古屋」とともに地名の「なごや」に当てられた漢字のひとつ。現在は「名古屋」に統一されている。尾張国名古屋城がある。
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
また…宗像や松浦については、日本とユダヤのハーモニーのサイトにも、詳しく書かれています。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
http://www.gisiwajinden.com/newpage20.html
名籠屋大濟(なごやのおおわたり)は、北九州市戸畑区大字中原の名護屋岬です。
東の門と西の門は、下の地図の通りです。
没利島は、洞海湾の入り口にある六連島です。柴島は、洞海湾のなかにありましたが、今は埋め立てられて残っていません。
逆見海は、今は逆水池となって、若松区の最北端に地名だけが跡を残しています。
熊鰐は、魚と塩の産地という名目で、響灘を献上したのです。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
どんどん、思い出されます…
そうそう、私が小学生のころ、牧山小学校の資料室で掃除をしていると、エルサルバドルの人からの手紙というのを見つけたんです。
何かそのことがとても心に残っていて。牧山小学校の皆さん元気ですか…と手紙に綴られていました。詳しいことは覚えていないのだけど、
エルサルバドルってどこだろう…とハートに何かが強く響いたのを子どもながらに覚えています。
エルサルバドルって、漢字では救世主国(もしくは薩爾瓦多)と表記されるんですね。
エルサルバドルの歴史
紀元前にこの地には、モンゴロイド系の先住民、すなわち今日で言う所のインディヘナ(インディオ)が暮らしていた。先古典期中期には、オルメカ文明の影響を受け、チャルチュアパなどに祭祀センターが築かれた。1世紀にイロパンゴ火山の噴火にともない、先住民はグアテマラのペテン低地など低地マヤ地域に避難したと考えられている。先古典期後期のウスルタン式土器や石碑を刻む伝統も伝播した。6世紀末、ロマ・カルデラ火山の噴火に伴い埋まった集落ホヤ・デ・セレンは保存状態が良好であったため、世界遺産に登録されている。10世紀頃にはマヤ系民族の小王国がいくつか成立し、そのうちピピル族はクスカトランを首都にして16世紀までに統一王国を建設しつつあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
北九州を離れる直前に、この戸畑へ、原点回帰…の流れを作ってくださった、皆さんすべてに感謝、そして天の采配に感謝。
まだまだ感じてみたいと思います。