矢留(やどめ)…戦いのコードを完全に書き換える |
K田さんのメッセージを受け取り、返信したのは、矢留の清地神社。
胸の中に清々しいエネルギー注ぎ入れました。
矢留山の中腹に御鎮座しており、ここから109段…もの階段を昇ります。(階段の数はあとで調べたのですが、また先日虹を見た河童駅もここ矢留。目と鼻の先でした。)
はあはあ…階段を上りきると古い拝殿が見えてきます。わあ~素晴らしい。
ご祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、
稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、
五十猛命(いそたけるのみこと)の三柱
風のざわめきと鳥のさえずり…何だか胸がす~っとして。
自然と歌を歌いたくなりました。
2人で声を響かせながら、リズミカルに磁場調整。
階段を降りながら、K田さんの愛を噛み締めていました。…
そして仲間たちの顔を思い浮かべていました。
矢留(やどめ)ってどういう意味だろう…響きが気になりました。カーナビで矢留山とあり、思わず、引き返して来ました。
やどめ 矢止・・・矢を射ることを停止すること
そうか…たたかいをやめるということが、この地でのメッセージなんだね。
矢に関係する刃連の日田の地、武士(もののふ)の地、古戦場の磁場調整…仲間の事を思い浮かべていた…
古い戦いは終わり。叡智を駆使して、解決する時。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/newpage7.htmlさんより
【“矢留”という地名】
•字(上、下、南)矢留・・本源寺の西方に〝矢留〟という字が三ヶ所ある。旧表記で記す。祖父江町大字三丸渕字上矢留、同 下矢留、同 南矢留。
本源寺の寺記によると、往古、矢留村が改名されて丸渕村になったという(上記の“本源寺”の項、参照)。
•矢留山・・福岡県行橋市大字矢留。裏ノ谷池・松田池の西に矢留山がある。その北が大字矢留。矢留山の麓に清地神社(祭神:素盞鳴命、稲田姫命、五十猛命)がある。
•矢留大神宮(福岡県柳川市)・・境内に六騎神社があり、〝六騎・矢留大神宮〟と表記されるらしい。インター・ネット上で関説文を読んでも部外者にはややこしい。〝六騎〟とは昔、壇ノ浦で敗退した平家一族(難波義長、加藤藤内、是永多七、浦川天ケ左衛門、鳴神藤助、若宮兵七)をいうのだそうである。言い伝えでは、承応年間(1222~1223)にこの六騎が百人程度の武装集団を率いてこの地に居住したという。〝矢留〟についても、極めて曖昧で〝六騎の武者が海賊からの矢を留めた〟からとか〝昔この地が地の果てで海賊を防ぐ要地であったころ、賊の矢が兜の鏡にあたって矢を留めた(矢留小学校校章の由来)〟から、といった説明がなされている。つまりはっきりとした由来は判らないらしい。ここには〝矢留の観音〟と呼ばれる観音様があり、本吉清水寺(福岡県山門郡瀬高町本吉)と京都清水寺の観音様と同木同作とされる。この地には北原白秋で有名な矢留小学校がある。。
•矢留町・・秋田市千秋にある。ここには秋田二十万石佐竹氏の久保田城(別名・矢留城)がある。言い伝えでは、慶長七年九月十七日の午後、佐竹義宣が手形の山に着いた時、土地の古老が彼に土地の由来を語ったのだという。曰く、〝矢留の森は永く三浦一族の故城であった。西北に川尻大明神がおわし、故に神明山と云う〟と。結局、その由来ははっきりしないらしい。
•矢留大明神・・岩手県東磐井郡の室根折壁に祭られている。言い伝えは次のようである(室根村ホームページによる。正確な表記は〝岩手県東磐井郡千厩町千厩字〟)。
源の義家がこの地に蝦夷征伐に攻めてきた時のこと。その時、釘子から源義家が射た矢が山を越え、浜横の留集落に落ちた。矢の越えた山をそれ以来「矢越山」と呼ぶようになった。そして、矢の留まったところを浜横の「留」といい、そこには「矢留大明神」が祀られている。
•矢留崎・・青森県北津軽郡鶴田町大字横萢字矢留崎。データなし
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キラキラと輝く祓川…川辺の緑、山々が輝いています。
そして遥か向こうのやはり、高城山、平尾台方面の山々がまるで
別次元の世界のように見えています。あの輝き、なんだろう…
犀川の駅を越えて、ずっと進んでいきます。
途中、迷いました。でも迷ったから、行き着けました。
トキのような、大きな鷺が案内してくれました。
橘八幡と鳥居にあります。
ここは、みやこ町犀川上高屋の橘八幡神社のようです。
古い鳥居をくぐると左手に大きな池、参道にそってあります。よく湖面が動いています。龍神さんのいる池、来れてよかったね…
この神社の雰囲気が好きでした。本殿にお参りした後、その奥の祠、そして背後の森…まるで引き込まれるよう。聖地の波動です。
少々、急いでいましたから、その理由を心の中でお話して、リズミカルに磁場調整させていただきました。すぐに風でサインを送ってくださって、素晴らしい.シルフ(風の精)のメッセージ。ご祭神や御由緒も書いていなかったのですが、ネットで見ても、今のところ、あまり詳しく出てきません(不思議)またきっと関連してわかってくることと思います。心ひかれる素敵な神社でした。
今日の大きな目的地は、木井馬場の木井神社です。
通りすがりの素敵なおばあちゃんに教えていただき、ちゃんと辿りつけました。
地図よりもかなり遠かった。こちらは天然記念物のイチイガシ(「神聖な木」の意=齋樫(いちかし)がなまったもの、「よく燃える木」の意=最(いち)火(び)樫(かし) からきたなど諸説あります。)で有名なようです。赤い橋を渡ると、大きな鳥居が見えてきました。
先週の金曜日に図書館に行き、借りてきました。金曜日のセッション後に、統合してブログにはあげています。
そして、どうしても来たくて、実際に訪れました。呼ばれている理由がたくさん…訪れてみて、始めてわかりました(いつもそうです)
実際に土地を訪れて、磁場調整し、もういちどハートの中で呼び覚まし、そして一晩眠ると、いろいろなメッセージが光の信号として届きます。
少し時間差が生じますが、既に知っている魂ーハイヤーセルフが必ず、いまに必要な、大事なものをしっかりと見せてくれます。
赤い橋…S宮さんが言ってたものね…
橋をわたり、鳥居をくぐると、かなり急な坂です。ぐ〜んと登って、車を停めます。車をいちど、停めてから、坂の途中の祠にもお参りしました。
わあ〜…何だか、この神社自体に物語を感じます。語りかけてくるものに耳を澄まします…
何かがある…そういう感じでしか、まだ光の信号を読み取れていませんでした。
お参りをすませ、神社の隅々に光を送り降ろしていると…
そうだ…ここは春日の神と繫がっていて、何か秘伝のようなものがあってそれを守っていたんじゃなかった?…
そして守っていたゆえに、秀吉や黒田氏に狙われた…
彼らは秘伝を決して譲らず、まつろわなかった…
本に書いてあったことが断片的に入って来ました。悔しく、大変な葛藤だっただろう。私の中に、いろいろな思いがわき起こってきました。
宇都宮城井氏とは、苅田やみやこ町のたくさんの寺社を大変手厚く保護した存在だとも書かれていた…
(金曜日のグループワーク後に書いています。)まるで光の欠片を集めるように手探りで感じていました。
あっそうだ。昨日の夢の中の意識。光…。京都のN子ちゃんチームとの連携。
九州と奈良の封印解除。同時シンクロ。
昨日、お風呂の中で浮かんだ。明日の磁場調整で一気に光り上げ。
奈良の春日四神…(土地神はガド族系巨勢神)
常陸国からの勧請
九州古代王朝の流れ…ガド族、東表国王族中臣氏からの流れ
宇佐、国東、大分…
(仇敵)ガド族とシメオン族との結合(不比等と宮子)
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家に戻って解読しています。
訪れた聖地の波動で、今に解かれるメッセージ繋いでゆく。
以下は、本で知り得た豊前宇都宮氏についての要点
◎宇都宮氏ー平安時代、藤原道兼の4代の孫、藤原宗円(冬継)より起こる
◎宇都宮、二光山神社の座主(日光東照宮とは別で、それ以前にあった宮)
◎崇神天皇の子、垂仁の兄。豊城入彦命を祀る
◎宇都宮氏には伝統の「艾蓬(よもぎ)の射法(豊治の射法)(ざほうともいう)」という弓の射法があった。
後年、中津において、黒田孝高に謀殺された宇都宮鎮房のひ孫、春房(左近)が徳川家康、秀忠に家の再興を願いでた折の由緒書きに次のように示されている…
「艾蓬(よもぎ)の射法(豊治の射法)(ざほうともいう)」は、遠祖天種子命、天児屋根命の霊徳を受け継ぎ、神武天皇に授け奉って以来、代々の天皇、この法を修め給う。
就中(なかんずく)神功皇后の御時、三韓の群夷背くに依って、本朝の法を副(そ)え退治なされし時、神勅に依って霊木竹を取り、高良神命(竹内の宿禰)及武雷神(たけみかづちのかみ)の作りし弓を天一号と号す。
之を用いて異国を悉(ことごとく)く制し討ち給い御代安全也。此の天一弓は応神天皇に授け給い、而して日本之武神(ひのもとのぶじん)八幡大神と仰ぎ奉り候は、是の射法の御徳也。支蓬の射法は、武雷神より伝来以後、代々之れを承け継ぎ、粟田関白道兼公に到り、嫡子中納言兼隆に伝授され専(もっぱ)之を敬う。長和二年二月七日、三条院の宣示を賜い、常陸、上総(かずさ)大守に任じ、東十三箇国之管領と為り、猶連綿として仕え、五代之孫宇都宮大和守信房之を継ぎ、当氏之武門に伝う。と誇らしげに述べている。いささか誇張した面も少なくないようである。が、宇都宮氏の性格を知る上で参考になると思われるので、ここに謁げてみた。
以上でも判るように、これは宇都宮氏一予相伝の秘法で、桑の弓、蓬(よもぎ)の矢を用いて、乱を防ぎ、邪を払い、男子の前途を祝い、また戦勝を祈願する俵式であった。豊臣秀吉も、朝鮮出兵の時に、神功皇后の故事にあやかろうとして字都宮の遺臣を探し出してやらせようとした。しかし一子相伝の秘法であるため誰もその詳細を知らず、それでも秀吉のたっての要望で、止むなく聞き伝えを元にこの秘法の真似事を行なったという。秀吉はこの時、この名家を滅したことを悔やんだと伝えられている。宗円が前九年、後三年の役に行なったという凶徒謙服の祈願も、この秘法によるものであったと思われる。
後に宇都宮氏が、仲津郡城井庄の神楽山城から、築城郡伝法寺庄の本庄城に移ってから後も、神楽山城を故城と称して尊崇し、世継の決まった度に、神楽城山でこの「艾蓬の射法」を行なったという。また、木井神社の祭祀は常に怠りなく、一家の大事には、必ず参詣して祈りを捧げたという。これはこの射法が、宇都宮家にとっては、武門の誇りであると共に深い精神的な支柱となっていた事を示すものであろう。
封印は叡智と愛で解く!へ続きます!