中臣藤原物部麿は藤原不比等か |
中臣藤原物部麿は藤原不比等か
中臣藤原物部麿とはだれか? 宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として 著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せない。
ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。その間のいきさつは岩間によれば次のとおりである。
まず大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになった。そのとき船史恵尺が火中から「国記」だけを辛う じて取り出したことについて、岩間本によれば、蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議さ れたとき、田辺武居(甲斐国造)という人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した。(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
彼は、幼少時より父の鎌足のブレーンの一人である百済系帰化人の田辺史大隅に養育された。彼の「不比等」という名も「史」からのものといわれている。つまり彼は、幼少時から、この史官のもとで育てられていただけに「歴史」に強かった。
中臣藤原物部麿を案内した田辺武居は田辺史大隅であろう。史官の彼がそのもっとも信頼する弟子である不比等を連れて富士山麓に出掛けたということは十分 に可能である。このベテラン史官にとってはその古記録を「作正」し、かつ「宇津須」ことなどいわば朝飯まえの仕事だろう。しかも不比等の父の鎌足には、お 世話になっているし、それにまた鎌足だけが、彼が奏した富士山麓の古記録の件について理解してくれたということもある。壬申の乱後の不比等の栄達と、記紀 編修の仕掛人としての不比等のイメージから、謎の「中臣藤原物部麿」の正体こそ、この藤原不比等であると結論できる。藤原不比等はこの後、古事記、日本書 紀の編集に携わる。
徐福と大和王権の関わり(4)
6.富士古文献と徐福・孝元天皇の関係
(佐治芳彦著「謎の宮下文書」より引用)
秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴き、その深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
ほぼ紀元前200年ころまでに成立したものということになり、日本最古の史書ということになる。しかし膨大な伝承のすべてを徐福一代で筆録したとは考えられない。漢字をよく知る徐福の子孫なり従者がその作業を継承したものと考えられる。
徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はそ の勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本によれば、収録されている「暦代記」他数篇は、孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを 「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
孝元天皇は、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝 霊、孝元、開化の各天皇、物部系か?)のいわば後期の天皇であるとみられている。「竹内文書」は孝元天皇の孫の武内宿祢に由来する。
7.富士古文献(宮下文書)の改定から古事記・日本書紀へ
歴代神官を助けて先住民系の人々が護ってきた宮下文書にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇十(671)年の8月に起こった。
朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたという。
ちなみに、この「中臣藤原物部麿」が「作正宇津須」ところの文書は、建久三(1192)年8月、宮下源太夫義仁が「謹書」したときの原本とされている。上 質の和紙に上質の筆墨を用いて記した文書なら保存さえよければ、五、六百年はもつ。しかし徐福の時代から天智十年までは九百年近く経過しているから、相当 傷んでいたと思われる。ただ、問題は「作正」にあり、「作正」とは現代語でいえば「改訂」にほかならない。
その改訂の時期には、天智天皇は病床にあった。後継者として本命だった大海人皇子(皇太弟)は、天智の本心が大友皇子(天智の実子)にあることを知ってい たから、病床の天智から皇位継承の意を告げられたとき、一身上の危機を悟り、天皇病気平癒のための「出家修道」の名目で吉野に去ったのが十月である。中臣 藤原物部麿という謎の人物が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇津須」という行為に出たのは、このようなきわめて微妙な時期であった。
この時点では中巨鎌足こと藤原鎌足はすでにいない(669年死亡)。鎌足を欠いたことによって、天智と皇大弟(大海人皇子)とのあいだの緊張は極度に高 まっており、大海人皇子の打った布石の1つが腹心の中臣藤原物部麿の富士山麓派遣だった。そして、その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、こ の時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。 皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるためにも、新しく史書を作ることが 必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要である。もしその文書が白目分の即位にとって不利なものだったらそれを改訂すれば よい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始したようだ。
徐福と大和王権の関わり(2)
3.徐福集団の日本列島での広がり
徐福一行は、秦始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求めて、大船団を組んで渡海し、日本列島に到着したと思われる。徐福一行は、九州に上陸し、佐賀に 第一の拠点を築いたあと、本体は人数を絞りながら、瀬戸内海を渡り、 太平洋側にでて、紀伊熊野に上陸した。紀伊半島は、徐福集団の第二の拠点であろう。 彼らは紀伊熊野を拠点に探索を進め、三河湾に入り、東三河に第三の拠点を築いたあと、遠州から駿河を経て、富士山麓に最終拠点を築いたと考えられる。彼ら の中には、伊豆半島に上陸したり、伊豆諸島の八丈島に拠点を築いた小グループもいたであろう。
九州からの発進に際して、日本海側に進行したグループもある。彼らは、出雲や丹後半島で上陸し、拠点作りを行った上、秋田男鹿半島や青森の小泊に定着して、それぞれの地で徐福伝承を残した。更に、一部は北海道小樽フゴッペ遺跡などにも足跡を残したものと思われる。
富士山麓に住みついた、徐福集団の主流は、富士南西麓に拠点を築いたが、当時、日本の古代王朝が存在した北麓に移動したと思われる。ここで、日本の高天原 の世を築くが、その子孫は富士山麓での、しばしば噴火する環境を嫌って、西の三河や東の相模に移動して行ったと思われる。そして関東から、東北地方にも広 がって行ったことが考えられる。
神奈川県の丹沢山系や秦野に、徐福一行が霊薬を求めて来訪し、定着帰化したという伝承があり、藤沢市には、徐福の子孫・秦氏が福岡氏を名乗って住んでいたと彫られた墓碑が存在する。
4.古史古伝と徐福
日本の古史古伝としては、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「物部文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記(うえつふみ)」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」、「カタカムナ文献」、「契丹古伝」などがある。1)
この中、近世に成立したとされる「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」と近代に満州で発見された「契丹古伝」を除く諸文献は、「古事記」以前の書と呼ばれているが、残りの文献にも、「古事記」以前の内容が含まれている。
古史古伝に記されている歴史は、「記紀(古事記・日本書紀)」が伝えるものと大きく異なっている場合がある。そこには、宇宙創成の時代から、神々が地球に 降臨する時代、アマテラスやスサノオといった神々が地球全土を統治していた時代、ウガヤフキアエズの50-73代にわたる長い、前天皇の時代の話がある。
「秋田物部文書」は、三河の物部氏が関与しており、ニギハヤヒ命は東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。「物部文書」が注目され るのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたことを、「九鬼文書」に記されていたからで ある。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武列天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘 匿していた「神代の万国史」の一部(竹内文書)である。 「物部文書」が公開されたのは昭和59年である。天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、 東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。 また「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
物部氏が、徐福一行であることが事実であれば、「物部文書」も当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。
伊勢津彦の孫
伊勢津彦は、その後、関東に現れます。
下野の国造としての伊勢津彦があり、その第三世が、相模の初代国造となったということが、相模の古代史資料に現れます。
相模の原点となる山が、相模の「大山」です。
この山の頂上「阿夫利神社」近くには4000年前の祭祀遺跡が発見されています。
その山の麓・伊勢原に「ヨセフの墓」と称される古墳があります。「シンケイ塚」と呼ばれています。
なぜ、古代イスラエルの伝承があるのかと不思議に思っていましたが、相模の国造が、伊勢津彦の孫であったとすれば、すべて理解できます。
伊勢原というのも不思議な名前ですね。「イセ(イエス)の原」の意味に取れるのですから。壬申の乱で天武勢に敗れた大友皇子の墓もあります。
(※阿夫利神社、過去のエピソードで7,8回登場しています!ブログ内で検索してみてください!)
井祭明神
井祭明神の読み方は、古い本に載っていたもので確認していません。「いまつりみょうじん」と呼んでいました。「いさいみょうじん」かも知れません。
豊川市の豊川西岸の近くに、豊津という地名がありますので、「サイ」が、タミル語で豊(トヨ)という言葉に符号するなら面白いですね。それが鳴り(なり)と符号するなら、いなり(稲荷)明神となります。いなりはINARI→INRIとなり、キリストになります。
聖書でイエスは、サマリアの女性に、井戸の水を飲ませてくれと頼んだとき、涸れることのない泉のことを話し、それが自分であると示唆しています。
井明神、井祭明神は、まさにイエスキリストを表しているのではないでしょうか。
それで、豊津近辺に、「天照大神」の誕生伝説があるのと関係が出てきます。
富士古文献の成立背景(10)
1.富士古文献では、徐福が富士に渡来したのが、孝霊天皇の世とされているが、これこそ「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み 「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたという、改正対象となったのではないだろうか。
また、竹内文書等古史古伝とは切っても切れない関係にある古代の伝説的な英雄・竹内宿弥は孝元天皇(孝霊天皇の子)の曽孫と伝えられている。
2.宮下家は、応神天皇の御子・大山守皇子の子孫であり、富士王朝の再興を願って、ヤマト王朝と対立したこともあるが、ヤマトタケルの妃であったミヤズヒメとその子を守ったため、取り立てられる。
富士山北麓は、古代にはサガミに属していた。相模は東三河からの入植者によって開拓されたとされ、徐福一行の子孫の活躍した地と考えられる。
この状況は、邪馬台国と狗奴国の歴史関係と繋がりがあるように感じられる。
3.富士古文献は、宮下家に保管された古文書である。しかし、大本教の出口王仁三郎が神典として重要視した。
大本数においては、富士は天教山とされ、地教山は皆神山であり、徐福一行の事跡と重なる。霊界物語に現われる大本神話との共通性は明らかであり、とくに 『霊界物語』「大祥地瑞」の冒頭は、富士古文書において宇宙初発の神とされる天之峯大神を「主の大神」とし、富士古文書の神統譜を大石凝真素美の言霊学で 説明する形になっている。
富士古文献の成立背景(8)
10.鎌倉写本の成立
地質学者の調査によれば、富士山は約70万年前の小御岳火山の噴火にはじまる。有史時代では天応元(781)年から宝永四(1707)年までの一千年間に十数回噴火したことが確認されている。
桓武天皇の延暦十九(800)年の大噴火は被害が激甚だった。日本後紀によれば東海道足柄を通っていた道路が閉塞し、箱根方面に新道を開かなければならなくなったという。
このとき太神宮は七廟のうち四廟まで焼失し、多くの神宝が失われた。翌延暦二十年、二十六代大宮司は、配下の禰宜や祝などをひきつれて、辛うじて災害から 守り通した古文書や宝物を持参して、相模国(神奈川県)高座郡早乙郷の大山守皇子の旧領に移った。彼はその地に社祠を建て、七廟のうちから寒川神社を勧請 し、その宝蔵に古文書、宝物類を納めた。
平城天皇の大同元(806)年、勅を奉じて坂上田村麻呂が焼失した4廟を再建、二十七代大宮司をよびもどした。以来、富士山麓の神宮を「山宮」、相模の寒川神社を「里宮」と称することになったという。
なお、古文書は依然、里宮(寒川神社)に保管されていた。
二条天皇の永暦二(1161)年、宮下文書保存の最大の功績者ともいうべき宮下源太夫義仁が第四十九代大宮司に就任した。義仁は源頼朝の挙兵以来、彼の創業を援けた相模の豪族三浦氏(三浦党)の嫡流である。彼は人品を見込まれて、大宮司職を嗣いで、自分が居住する山宮から、しばしば里宮に赴き、十数年か かって里宮に保管されている古文書を筆写した。その子の義国もこの筆写を継続した。そして、この写本は山宮に納められ社宝とされた。
富士山はその後、永正八(1511)年の吉田口の溶岩噴出まで428年間、火山活動を停止している。
一方、火山には安全なはずの寒川神社(里宮)は、思わぬ災害に見舞われた。弘安五(1282)年5月、馬入川が汎濫して里宮の宝蔵に保存してあった古文 書がことごとく流出するという不幸な出来事が起こったのである。そのとき、寒川神社の宮司官下記大夫明吉はこの古文書を濁流から救出しようとして、その父 の佐太夫国明とともに溺死する。
明吉の遺児里吉丸は、母の実家である富士の山吉に引き取られ、大吉司吉下源太夫昭成の嫡男義春に養育されることとなった。そして里吉丸は大宮司職を嗣 ぎ、五十六代大宮司義高となった。ここにおいて里宮の古文書継承者と山宮の古文書(複写)継承者とが一つに帰し、以後もっぱらこの義仁父子の筆写した古文 書(宮下文書)を継承することとなった。現在の保管者宮下義孝氏は、第七十八代の大宮司にあたる。