金の蛾〜藤松〜藤と松〜九州王朝紋 |
五社稲荷上空では、30秒間だけ、五芒星が描かれました。
中原観音、豊川稲荷神社では、灯籠にも前回と同様、蛾のような形の紋様(蝶ではない)があり、調べていますがわからず。中原観音寺に直接聞こうとアクセスしているところです。
でもよく見ると、松の紋様なのかな。形は似ています。(後でまとめて書きます。)
瀧の観音では、こんな紋様。(こちらではおでこのスクリーンに同様のビジョンが見えました。)
その場所の霊的エネルギーを観じとって、ご神紋はつくられたのだと思います。
夢で見た、金の蛾は…松の紋様にも似ています。そこから連想するのは…そう。
これは九州王朝の紋だそうです。
これまでに見たのは宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)…どこでも竹内宿禰の名が見え隠れします。
そして壱岐神社も。そう、考えると、ハートに閃きを感じながら繋いだ神社の多くが、九州王朝に強く関係している場所周辺だったように思えます。
そこで、こんなブログを見つけました。愛知豊川市にお住まいの方のブログのようです。最近、立て続けに、思いがけず豊川稲荷に行き当たります。それが何故なのか、うすうす感じてはいましたが、一昨日あたりから、くっきりとしてきました。
三階松に隠された暗号http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2308.html(一部抜粋しています)
家紋は 随時変化・創作されて変遷・多様化していくものであり、現在、2万近くの家紋が確認されているといいます。
また家紋を幾つも所有することは自由だった。関 西では女家紋というのもあります。家紋は最初公家の間で広まったが鎌倉時代以後、武家の間に爆発的に普及した出自を示しながら他との識別を図るマークが起 源。その後の江戸時代には家の格式を他人に示したりする為のものとして機能したという。ただし、豊臣秀吉の「五三の桐」紋が下層庶民に好まれ使われた例も あるように必ずしも家格を示すものでもない例もある。現在では創作家紋を作りオリジナルの我が家のマークとしている人もいる。
まぁ、武家や公家専用の紋ではないのですが、それなりに不思議な紋ではある。敢えて分類すると「神紋」となるでしょうか。
北野天満宮の社紋には「丸」はないのですが「左三階松」です。その云われは一夜に千本の松が生えたところから来ていると前記事で書きましたね。
三階松は 菅原氏流の五条氏、前田氏、源氏流の中川氏、岡山氏、平氏流の宮村氏、藤原氏流の松田氏、松村氏、天野氏、中根氏、石原氏、前田氏、内田氏、在原氏流の牟 礼(むれ)氏、綾氏(讃岐国阿野郡)がいる。また讃岐藤氏の大野、羽床、新居、福家、香西、飯田がそれぞれの三階松の替り紋を使用しているという。
※ 註 これ以外にも、桓武平氏が落人になった際に「三階松」を多く採用したというが、清盛の伊勢平氏を指して特に「平家」と呼ぶが、平家は家人も「平」姓を 名乗っていたことから、多くの出自を持つ連合体だと思われる。四国の讃州藤氏(綾氏)の一族が三階松を使っているので、瀬戸内の海人系に関係する家紋だと 睨んでいる。また大宰府では日宋貿易の要の地であり、大宰府の天満宮と平家の関わりは平家が滅びる迄蜜月が続いたという。また南朝は航海の神・住吉大社を 掌握して海人族は南朝方に付いたと思われ、ここに平家-海人族-住吉-天満宮(菅原道真)-南朝-吉野-熊野の霊的ラインが形成されるのです。
松の木は 常緑で樹齢も長いことから、古来より神や祖霊が宿る聖木とされたことから「松=神殿」と考えてもよさそうです。
しかも住吉大社の社殿の配置は手前から奥方 向にかけて縦長の「住吉造」と云われる神社建築史上最古の特殊な様式の3つの正殿が並んでいますが、
この形態が「三階松」という縦方向に並ぶ意匠として表 されているのではないかと睨んでいる。
※註 縦方向に並ぶのは大阪の住吉大社のみ
住吉大社の祭神は下記の四柱。
第一本宮(底筒男命そこつつのおのみこと)
第二本宮(中筒男命なかつつのおのみこと)
第三本宮(表筒男命うわつつのおのみこと)
第四本宮(息長足姫命=神功皇后)
中でも底筒・中筒・表筒の三神を「住吉三神」と呼ぶ。
この名称、どうも船の構造を示しているようにも見える(笑)。
ただ、神名の「ツツ」は トムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などの星の神を示す言葉であり、表筒男命・中筒男命・底筒男命はオリオン座の三つ星(御手洗星)のことだと考えらているのです。確かに、3つの正殿は一直線に並んでおらず、第一正殿と第三正殿を結んだ線よりも反れている。そして第四正 殿を加えても、それらはオリオン座の星の配置と全く同じになる。
御手洗(みたらし)星=オリオン座の三ツ星
これが「三階松」の意匠に込められた秘密の正体。
これが「左三階松」「右三階松」等のアンシンメトリーにしなくてはならなかった理由でしょう。東から昇る時が「右三階松」で西に沈み時が「左三階松」でしょうか。
更に云うと、松が縦配置となっているのは聖書記述にある天使が上り下り来する「天国への階段」(ヤコブの梯子)をも暗喩していて、「丸に左三階松」の「○」は天国を示しているのかもしれませんね(ニタリ)。
また「三階松」が水軍の家紋と呼ばれる理由は、このように航海術には欠かせない三ツ星を家紋に採用しているからです。ただし、ある理由によってそれは表沙汰に出来ずに「星」を「松」でカモフラージュしていた。その理由は後述します。
つまり、三階松は妙見信仰(星信仰)と密接にリンクしている。
住吉(古くは「すみのえ」と読み「澄んだ江」を意味)と吉野と熊野と住吉は密接な関係があって、修験道、海人族、木地師(サンカ)、被差別民のネットワークを掌中 に出来るからであり、これが南朝が吉野に御所を置いていた理由である。当然、住吉大社は南朝側に付いたが、勝った足利幕府によって神領地を劇的に減らされ てしまったという。
実際、住吉大社宮司家の津守氏邸宅は南朝の 御所(住吉行宮)として提供してもいた。語り部によるとこの津守氏は「先住民エブス人=恵比寿=津守氏(久米=武士の意味)等を従える」とあり、アイヌ人 (縄文人、エドム人)と同様な中東からの渡来人であった。 また、エブスはエルサレムの別名であり、紀元前11世紀にダビデ王がエルサレムを征服する以前にはエルサレムはエブス人の本拠地だったのです。また、エブ ス人もオッフル人も紅海とアラビア海の海人民族でり、七福神のエビスは狩衣姿で右手に釣り竿を持ち左脇に鯛を抱える姿をしていますが、これはモロ海洋民族 を表している。
※註 「まつろわぬ民」の代表の土蜘蛛・夷・国栖もエブス人だった。
津守とは「津(港)」を「守る」という意味で、元々の名は摂津国住吉郡の豪族・田蓑(たみの)氏。新羅征伐から帰還した神功皇后を出迎えた時、住吉三神の神功があったことから、田蓑宿禰に住吉三神を祀るように言い津守の姓を与えたのが始まりだという。
これ故、「三階松」はエブス人のような海人族と深い関係がある!?
※ 註 八戸の「南部煎餅」はユダヤの種無し(未発酵)パン「マッツオォ」に似ているが、この煎餅の両面に模様が型付けになっているが、以前には、松ヶ枝が三段乃至五段付けてあって(三階松?)、その裏面には何とユダヤ章がついていたという。南朝の天皇(長慶天皇)は頻繁にこの煎餅を赤松に作らせたという。ちなみに赤松氏の家紋は「三階松」。
確かエブス人はエルサレムの先住民であり、現エジプト人でもあるが、何しろエジプトにはオリオン座の三ツ星を模したギザのピラミッドがあるのです。三階松と同じモチーフを使っているのです。
あと三階松で有名な神社は、九州の宮地嶽神社(福岡県福津市)ですが、黄金色の正殿屋根が眩しい1600年前に創建された古社です。ここでは三階松の焼印を押した饅頭がありますが、残念ながら「右三階 松」になっています。半島の海沿いにあることからこの神社もまた水軍に深く関係している。しかも主祭神は三韓征伐した神功皇后であり、三韓征伐の前にこの 地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりだというのです。
■宮地嶽神社(みやじだけ)
http://www.miyajidake.or.jp/
三階松紋は、その他にも宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・松崎天満宮(小郡市)・壱岐神社(福岡市)で使用されています。九州に広範囲に広がっている為、一説には九州王朝の紋だという人もいますが、果たしてどうでしょうか?
少なくとも三韓征伐に深く関わった水軍の紋であることは動かしがたい感じがします。「三階松」にはオリオンの三ツ星以外にも三韓(高句麗・新羅・百済)という意味を持たせていたのかもしれませんね。
※ 註 三韓征伐には、神功皇后、竹内宿禰、仲哀天皇が揃ったといいますが、語り部によると神功皇后は倭隋と荒田別がモデルであり、竹内宿禰は倭明=用明天皇 がモデル、また仲哀天皇は倭済がモデルだという。神功皇后は身重な状態で戦いに挑み、帰国後、応神天皇を産んだと記紀は述べるが、これは倭隋と荒田別の合 意によって百済王家の王子を婿養子に迎え、倭武(百済昆伎)を誕生させたということ。
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古 代製鉄では、砂鉄と松(現代のコークスに当たる)が原料であった。山でも海岸でも松林の近くに製鉄所があったといっても過言ではなかろう。「松」の紋章は 古代製鉄に係わりの深い氏族が考えられる。この「鉄」から作られた武器や甲冑を「厳物作り」とか「物の具」とか言う。「物」である。これらを身にまとい、 太刀や弓矢を用いた戦闘集団を武士と呼ぶ。武士は古くは「もののふ」であり、万葉集などではあきらかに「物之部」と書かれている。すなわち「物部」であ る。
即ち、武家に多い「木瓜」(松 ぼっくり)紋は武器を使う人たちであり、「松」紋はそれらを作った製鉄技術集団であるとも読めるのです。つまり「松」の結実が「松ぼっくり」なのですね。 三韓征伐には多くの鉄製武器が必要であり、また船舶にも多くの鉄器が使用されたが、製鉄に関しては古代最大の製鉄所遺跡が九州にあり、それは鉄器を発明し たヒッタイト、あるいはその技術を伝承した民族(エブス人?)の渡来があったと睨んでいる。それがオリオン座の三ツ星を崇める海人族だったのでしょう。
話は少し変わりますが、、、
前記事で北野天満宮示現の宮が吉野にあることに触れましたが、実は、北野・吉野・熊野でオリオン座の三ツ星(三階松)を形成しているのです。これが北野の地に一夜にして千本の松が生えなければならない理由であり、社紋に左三階松を採用している理由でもあると睨んでいる。
蔵王権現の 三体の像は、一般には釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の顕現だと説明されていますが、これは神仏習合時代を乗り越えていく時の方便であり、実際には吉野修験 道は道教思想が根本にあり、深夜に深山を縦走する行がある修験道は方位を知る為には必ず妙見信仰にならざるを得ないのですが、このうち北極星信仰が明治期 には「北辰妙見菩薩」として復活するも明治政府により封印されたという歴史がある。このように吉野自体が妙見信仰の地であったことから、三体の蔵王権現は オリオンの三ツ星を暗喩しているというのは、充分説得力のある話なのです。
※ 註 天智朝までは「天の川祭祀」が行なわれていたといいますが、その後、禁止され、妙見信仰は天皇にのみ許された信仰となっていった。この北極星信仰を含む妙見信仰の危険性は北極星を天帝とみなし祭祀者と合一する神事があり、これを元に多くの天帝候補者が出てくる為、権力者にとっては非常に都合が悪ったわけです。日本において中国のような「易姓革命」が起きなかったのは、この妙見信仰を徹底的に封じたからに他なりません。
古代の政体「三王朝(三輪)制」も、アカバ湾での航海を生業としたエドム人(アイヌ)の発案であり、オリオンの三ツ星をモチーフにした可能性が非常に高い。実際、蔵王権現の頭の位置は正しくオリオンの三ツ星配置と同じで、「三階松」と同様、巧妙に妙見信仰をカモフラージュしていると睨む。
その後、日本は中央集権の律令国家へと進んでいき、天子交替を孕む妙見信仰を禁じ、太陽信仰へと宗教改革をしていった。それを強力に推し進めたのが、持統天皇と藤原不比等ですね。
ついでに、ぶっちゃけて云うと新約聖書のイエス誕生譚に登場する「東方の三博士」も、父と子と聖霊が一体のものである「三位一体」もオリオンの三ツ星がモチーフ。キリスト教も本来の原始キリスト教の妙見信仰から太陽信仰へと巧妙に歪曲されていったのだす~ぅ。
(以上、引用終わり)
戸の上を繋げたら、藤松が浮上、藤と松…んんん、またまた繫がってきましたね。
まだまだ続きます!