次なる統合の重要グリッド。赤坂延命寺、手向山… |
その前に…京都のN子ちゃんから力強い光のメッセージレターが届いていたので、朝からスイッチが入りまくりました!
彼女たちのグループとはかなり、深い魂のご縁であるように思います。
また今朝は、N子ちゃんの友人にH美ちゃんからもメッセージレターが。
素直にセッション後の変化、戸惑いを受け入れているようでした。
さすがに今週は人々の抵抗が表出しているようです。
それを経て、同様のメッセージをくださっていた数名の方々にアドバイスしました。(じぶんの経験からも、十分理解できます)
抵抗がものすごく出ている今…その事自体が次元上昇そのものを感じている証拠です。(面白いものです)やってきました…という感じです。
すでにシフトは始まっていますし、これからますます、それぞれのリアリティが…それぞれ周波数に細分化されていきます。
ごまかして感じないようにしている…よりも。よっぽど感じているんだ…ということを、感じるから、苦しいんだ…それはエゴの死(未浄化の自分自身)でもあるのだ…
その自分自身を受け入れて…高みにひきあげて…と自分たちもそうだから…皆さんの今と同じ
自分自身が苦しくないようにスライドして、痛みをさけて逃げるよりも。よっぽど正常。そこを貫いて進みゆく時なのです。
それがアセンション。
無痛分娩がいいか…しっかり出産の痛みをあじわった方がいいか?
このようにどんどん、自分自身の願いを浮き彫りにさせられる今です。
(願いの次元に進む為の)自分自身の内側にただただ素直に。
向合うことも出来るし、ごまかし続けことも出来る…何をどう選択するか、そこが大切。
皆さん、トリックにご用心。巧みな自我の…無意識のトリックです。
また…人々をわからなく、気づきにくくさせているものの、仕組みにも用心。
変化変容の起こりやすい今の波に軽やかに乗るか、まだまだ今はゆっくり…と自我の声を尊重し、…やがてくる速い流れ(急行列車)に無理矢理飛び乗るか…自由だといいます。
いずれしても…かつてないほど大きく変ってゆく時です。
なにも起きていない…は、よほど抵抗が強い…のかも、知れないですね。
ここ数日でもたくさんの動きがありました…ここに来て新しい出会い。いいえ、ここから本当に始まるんだ…そうわかりました。
トラークルでも、ありがとう、またね…と、初めましてこんにちは…が同時に起きています。
R•アートもトラークルでは、こちらの意志で終了しました。
これまでたくさんの出会いがあり…魂の絵を通じて、多くの気づきを与えられました。ナオミンゴさんには、ただただ感謝しています。
いま、トラークルの流れは…すでにハイヤーセルフとの内なる共同創造に入っています。
これまでを踏まえて、さらにそれぞれを進みゆく時ですね。本当にありがとうございました。
仲間の方々も…今この時期に、こんな人と出会いました〜…と新しいグループソウルの方々との出会いを楽しんでいるようです。
ハートの真ん中から、いろいろな方々に惜しみなく、叡智の光を放ってゆく今です。それが新しい愛のウエーブへと流れ伝播します。
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話は今朝へと遡ります…
赤坂延命寺に着きました。周辺の地名が延命寺のようです。
由緒正しいお寺…とわかります。そして、延命寺前から、寒気がしてきました。息も苦しい…
ここではのほほんととしてられないわ…そう感じました。私の中から、いつも本気になると出てくる存在が、内側でマントラを唱えはじめました。
霊力を引き出してくれるような…そんなお寺です。以下は延命寺の略史です。
桓武帝の延暦廿一年(802年)僧最澄の入唐に際し、九州に下り、諸方の霊跡を巡拝して公開の安全を祈願した。その途中、豊前国下毛郡の亀山八幡大菩薩の庵に参籠し、一夜悪夢に感じ、寺を参加に建て大菩薩の尊像を安置した。これが延命寺の起源である。
菩薩の霊験あらたかで、参詣の人々の絶えることはなかったが、その後九百年の歳月を重ね老廃した。宝永元年(1704年)小笠原二代藩主忠雄公御帰依の 名僧霊済法印大いにこれを嘆き、今一度名刹の昔に復興したいと、再興を忠雄公に願い出て、正徳元年(1711年)城外の赤坂山上に大伽藍を創建し、延命寺 をここに移し、更に足立不老山下より東照大権現宮をも写し、延命寺の住職は代々東照宮の別当も兼務することとした。延命寺は小倉城の鎮城の東北鬼門に当た り、山号を東北山と名し、藩主より三百石の寺領を賜る。この時、忠雄公の御生母で深く仏法に帰依されたいた永貞院大姉が父君福島正則公の追善供養よ為、場 内に諸宗の名僧を召見し、千僧会を供養し、随喜感嘆の余り、延命寺の境内に千体地蔵法華塔を建立された。その後、延命寺は青連院宮の御配下に移され、九州 竃払い座頭の総支配地になった。また、赤坂山上の眺望は霞がたなびき、眼下には白帆が往来し、領内第一の絶景で、忘言、臨海の二亭を築かれ、小笠原蔵人の 別野を営む処となった。この壮大な古刹名場も、慶応二年(1866年)の豊長の変に兵火にかかり、悉く灰塵に帰した。その後、明治初年(1868年)黄檗 宗の僧田中芝玉和尚が、菜園城にあった妙行寺を引き移し小庵を立て、不老庵と名し、隠遁の居と豊長の変の陣没兵士の霊を慰めた、芝玉和尚の没後、黄檗宗四 十三代管長鷲峰紫石和尚が管長を退任後、灰塵に帰した旧跡を惜しみ、明治四四年(1911年)消失を逃れた赤坂山上の観音堂に残存する小仏像を現在地(上 富野四)に移し、大正三年(1914年)延命山観音寺を創建し開祖となった。その後、寺号を元の名の東北山延命寺に改め現在に至っている。宗派は黄檗宗 (禅宗)である。
境内には…榊姫の巌もありました…
榊姫は平重盛の二男資盛の娘で「榊内侍」と呼ばれ、安徳帝に仕えた。寿永二年(1183年)資盛は越中国砺波山で、木曾義仲に敗れ討ち死にした。以来榊 姫は都を追われた平家一門とともに九州に落ち、太宰府、遠賀郡山鹿城(芦屋町)、豊前柳ヶ浦(門司区)大里へと帝を供奉してきたが、不幸にも帯下の難病に かかり、老女と共に長浜の海女の粗末な家に伏す身となり、「私は死後榊に宿り帯下に悩む人々を救わん」と言い残して世を去り、長浜の東の高浜に葬られた。 その後は、「帯下の病に悩む人、榊姫に祈願すれば霊験あらたかなりと聞く」。
榊姫神社があったところは、私鉄の小倉鉄道が大正二年から高浜海岸を埋め立て、石炭積出の貯炭場と石炭積込場にするための工事を始め、大正三年工事を請 け負った小林徳一郎が、榊姫の霊を弔うため、敷地内の岩石にて記念巌をつくり、延命寺に寄進した。境内の記念巌の表には「榊姫記念巌」、裏には「大正三年 十月 小林徳一郎にこれを建てる」と刻まれている。
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何となくいろいろな時代の戦いが混在している…ことが伝わってきます。
長州戦争…がにわかに、浮上してきました。北九州内ー企救は、ゲリラ戦の様相にて、私たちの住むエリアも、ここ赤坂も激戦地区だったようです。
あらゆる戦いにて、傷ついた痕跡が、いたるところにいま、浮上している…
次元上昇というのは、そうした現象をまざまざと見せられます。過去生の個人的な経験とリンクしている場合もあるでしょう。
そしてそれがグループのミッションと繫がっています。何処から入っても繫がる…という現象を幾度となく起こるシンクロで見ています。
先日、訪れた菜園場にあった妙行寺とも関係していますし、小倉城の鎮城の東北鬼門に当た るとも書かれており、重要な寺だったことがわかります。
先日、愛宕神社、菜園場に関する史実ほかをブログに掲載したところ、京都のN子ちゃんから、すぐに反応があり、実はご両親がこの周辺にいらした時にお腹のなかにいました…とありました。
彼女からの光の要請も強く感じて…
そして訪れたこの地域の要所…すべてが連動していることもわかりました。
また今朝、この後に訪れた手向山、広寿山 福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)では…数日前に藤原さんが見たビジョンと合致しました。
船つき場、灯籠が回る、加藤…
今日は2人きりだったのですが、鮮やかなビジョンが見えました、紫色の大きな光がどんどん広がり、お寺全体を包むように感じられました。
最初の寒気も、息苦しさも、いつのまにか、無くなっていました。
守護されている様々な存在への感謝がわき起こり、こちらを後にしました…
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その後、同じ黄檗宗 (禅宗)の広寿山 福聚寺(こうじゅさんふくじゅじ)へ行く流れでしたが、藤原さんが道を一つ誤り手向山公園へと。そこでスイッチが入りました。小倉城へと繫がってから、見え隠れしている存在が…宮本武蔵、宮本伊織、佐々木小次郎…でした。
そして、ここを通ることが幾度かある中で、いつも仲間のTさんにゆかり深い土地であることを思い出していました。
それでは、ちょっとあがってみましょう…
と、その前に、この地域の周辺から感じてみましょう。
このところお世話になることの多い、北九州点描さんから。
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/tenk05.htm赤坂
赤坂は、北は関門海峡の西の出入口の海で、南は富野山地が迫り、東は宮本武蔵の石碑がある手向山(たむけや ま)、西は延命寺川(えんめいじがわ)が流れています。東側で門司区と隣接し、山塊が海に迫っている地形でした。南側を通る鳥越峠の土の色が赤かったの で、赤坂の地名が付いたといわれています。
門司と小倉を結ぶ交通の要地にあったため、歴史上も南北朝時代から戦場として登場します。室町時代には、すでに赤間関(現在の下関市)と門司・赤坂・小倉との間に渡船がありました。
江戸時代から1889(明治22)年までは企救郡赤坂村でした。幕末には、ここは第二次長州征討戦小倉口での激戦地になりました。
尊王攘夷派によって再び藩の実権が握られた長州藩を、幕府は四方向から攻撃しました。これが1866(慶応2)年6月の第二次長州征討戦です。6月7日大 島口の戦いで始まり、順次芸州口、石州口、そして小倉口の戦いが始まりました。他の三方向の戦いは、短期間で長州藩の大勝で終りました。しかし、小倉口の 戦いは、6月17日未明に始まり、長州藩の攻勢に幕府軍は後退します。8月1日小倉藩は小倉城を自焼して、田川郡香春に撤退します。この後、小倉藩は単独 で、企救郡に進出して来た長州藩との間でゲリラ戦を繰り広げます。1867(慶応3)年1月22日小倉藩と長州藩との間で止戦協定が締結されました。この 小倉藩と長州藩との戦いを小倉戦争、豊長戦争と呼びます。
1889(明治22)年5ヶ村が合併して足立村になり、1927(昭和2)年小倉市に併合されました。
引用以上//
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この戦いも、古代王朝から重なっている流れではないかなと思います。
私自身、あるひとつのことに気づいています。
それはまたいつかの機会に書きますね。
南北朝の戦いにおいても…尊王攘夷運動にしても。
戦いそのものも…自分自身の血脈や霊統の中にある、深い願いに繫がっているのだと。
そこをハートでしっかり理解することですべてが完結する今だから…
時間をかけて学んだ、古代史や伝承、神話…あらゆることが自分のオリジナルの周波数に繫がってゆきます。
さて、手向山公園です。やはり素通りできません。再び上記より引用
手向山公園 小倉北区赤坂4丁目 [2009/04/25]
手向(たむけ)山は小倉北区の北東部にある標高70m程度の小山です。宮本武蔵と 佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島をはるか遠くに望むこの山頂に、武蔵の養子の宮本伊織は武蔵顕彰碑を建てました。1887(明治20)年手向山が要塞地 区になったため、顕彰碑は延命寺山に移されましたが、戦後再び顕彰碑は手向山山頂に戻されました。戦後、手向山一帯は公園として整備されました。また同時 に、1612(慶長17)年4月13日の巌流島の決闘を記念して、毎年その日に近い日曜日に武蔵・小次郎まつりが行われています。
引用以上//
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もう、書くのも全然、気が乗らない、面白くないような、戦いの痕跡ばかりが残っています。
ハートが響かないところは、どうしても通過します。後々、響いてくるものもありますが。
心響くのは宮本武蔵、佐々木小次郎の真実…巌流島の戦いの真実です。
また島原の乱に、小倉藩が深くかかわっているという真実も。
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又、引用へ
4.5mの巨石の武蔵顕彰碑は、宮本武蔵の養子伊織が建てました。「小倉碑文」とも呼ばれ、千百余字の漢文が刻まれた石碑です。
小倉藩筆頭家老までなった宮本伊織は、拝領した手向山に、武蔵没9年後の1654(承応3)年に、熊本より遺骨を移し、骨壷・銅鏡・古文書を埋葬し、その上に武蔵顕彰碑を建てたといわれています。
1887(明治20)年手向山が要塞地区になったため、顕彰碑は延命寺山に移されましたが、戦後再び顕彰碑は手向山山頂に戻されました。延命寺山は手向山 の西の丘陵地で、かって延命寺がありましたが、明治維新前夜の第二次長州征討戦小倉口の戦いで焼失し、大正時代、延命寺山の西側に再建されました。
1612(慶長17)年、武蔵は豊前小倉に来て、旧知の家老長岡佐渡を訪ねます。当時剣の達人で、小倉藩 (当時藩主は細川忠興)に召抱えられていた佐々木小次郎との試合の仲介を頼みます。許された試合は4月13日船島で行われました。小次郎は船島に藩の舟で 渡りますが、武蔵は下関より船島に向かいます。決闘は武蔵が木剣で小次郎を一撃で倒します。死んだ小次郎18歳、武蔵29歳といわれています。船島は小次 郎の号巌流に因んで巌流島と呼ばれるようになります。
小次郎碑には「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」の碑文が刻まれています。村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、1951(昭和26)年建てられました。
引用以上//
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ちょうど、展望台にあがって、広がる景色を見ていたところ、
亀○さんから電話がありました!何か、精一杯伝えてきます。感じてるサインです!
のちほど、伝えたいことあるから、サロンにお子さんの髪を切りに行きます…という電話でした、それでは又後ほど〜と電話を終えました。
ここで、スピリットに点火した!そういうフイーリングがありました。力強い内面からの衝動を感じたことを覚えています。
その後、家に戻り、続々と新発見があり、鳥肌が立ちました〜重複して何度も見せてくれているものがあります。祈り、理解し、ただただ光へ還すだけ。
前回、この時代の切支丹大名を知った時、佐々木小次郎も切支丹だったのでは…といういくつかのブログに行き当たり、薄々感じてはいました。
この流れで、新しい人物像と出会い直しています。見てみましょう。
http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=39192
求天記 宮本武蔵正伝
著者:加藤 廣
佐 々木小次郎と巌流島での戦いから物語は進行する。吉川英治の宮本武蔵は物語として面白い読み物ですが、この本は少し毛色が違っています。佐々木小次郎が切支丹、妻は細川ガラシャ夫人(明智光秀の娘)の侍女でこちらも切支丹。徳川幕府の切支丹禁止対策に苦慮した細川家が、剣法指南役の佐々木小次郎を亡き者に したいが為に宮本武蔵と戦わせる。武蔵には剣法指南役に召し抱えるという餌を与えて、巌流島で戦わせる。佐々木小次郎は真剣での戦いは嫌っていた。でも真 剣で勝負ということになった。
しかし宮本武蔵は物干し竿と言われる長剣と戦うには船の櫂で作った木刀で戦った。木刀での一撃だったので、 佐々木小次郎は怪我のみだったが細川家の侍達に殺されてしまった。というストーリー。
引用以上//
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http://www.y-shoko.com/ask/kojiro.html
佐々木小次郎の墓
阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称す。ここには、慶長年間あるいはそれ以前からか、真言宗・正法寺という古寺があった。
巌流島の決闘(慶長17年4月13日)で敗れた佐々木小次郎の妻ユキは、キリシタンの信者であった。当時懐妊中のユキは、小次郎の遺髪を抱き、折柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めた。
ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたという。この庵は正法寺が太用事に移った跡地に、ユキ尼が小さい庵を建てたともいわれている。
わが子に対する因果応報の絆を断ち切るために、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したとの言い伝えである。小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、今も佐々木姓を名乗る家が地区内の数件あり、末裔かとも言われている。
小次郎の墓の上の段には、六面石憧一基があり、妻ユキが信じていたバテレン墓と思われる。その隣には栗屋元吉公の墓があったが、昭和53年に太用寺の境内に移す。
引用以上//
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信憑性が高そうです。
巌流島 での戦いの真実…当時、佐々木小次郎が 剣術師範として仕えていた細川家では、亡きガラシャ夫人の影響もあってキリシタン信者が多くいた。ところが、徳川の開幕以降、年々厳しくなるキリシタン禁 令に苦慮していた。中でも佐々木小次郎は夫婦ともども熱心な信者で、彼がキリシタンに加担すれば幕府への面目丸つぶれになる、そこで、 名高い武蔵を招聘し、小次郎と決闘させ、結果の如何にかかわらず、小次郎を密殺しようと企てるのである。よって、無人島の巌流島での無観客・無加勢試合が 設定されたのでは、とも言われている。(引用終わり)
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真実はわからないけれど…佐々木小次郎が切支丹と深いつながりがあることだけはあきらかであるように感じられます。小次郎の妻が細川ガラシャ夫人(明智光秀の娘)の侍女でこちらも切支丹だったというのは、少々、驚きました。
次なる統合の重要グリッド…須賀神社、広寿山 福聚寺へと続きます!