光の十字架 愛宕神社 |
最初の茶話会で流れを説明した後、出かけました。
場所は、愛宕神社、愛宕公園、菜園場、日明一本松古墳です。
参加された方々も、ここ数日、日明が気になってましたetc…
この流れで愛宕神社というのに合致しておられるようでした。
…そして菜園場周辺にも縁の多い方がいらして。
また愛宕神社と繋がり強い、到津八幡神社周辺で、昨日、わたしたちからのメッセージ受けました、という方もいました。
みんなとても感じ合っているようでした。
また光のメッセージレターでは、京都の仲間、そして香椎のGさんも、日々、連動していることを確認し合いました。香椎のGさん、愛宕神社で磁場調整中にこちらがメール受信しました。光のメッセージレターでもご紹介していますが、あまりのシンクロにドキドキします。
N子ちゃんは少し前に京都の愛宕神社、Gさんは福岡の愛宕神社へ、訪れていました。
ここでも書ききれないほどのシンクロ…
今日は仲間と重要なミッションを喜びとともに終えて帰りました。
今日は朝から、風が冷たく、やや曇り空…
何となく、厳しそうな空…
茶話会の途中に昨日、朽網へ用事があって行っていたイシスmeさんが、メールを受信し、急いで来てくれました。
私は朽網。何でだろう…とちょっと首をかしげながら。
そして皆さんと流れや場所を確認しあっていたところ、携帯で昨日撮ったばかりの朽網の貴船神社のご由緒を見せてくれました。…
社殿は、寛永3年(1626年)に細川忠利によって建立されたものと云われています…
あっ。それで昨日ブログにて引用した文章を再び調べてみました…細川忠興の子であり、小倉の殉教者一家のうちのひとり、小笠原玄也と幼少を共にした…とありました。
それで、今日の光のミッション、注意深くメッセージを感じ取ってみると…
そこにはいくつもの…深い愛の物語が秘められていました。
◎細川忠興とその妻、ガラシャ夫人(珠)との夫婦の物語
◎ガラシャ夫人の人生(明智光秀の娘として過ごした幽閉されていた少女時代)
◎ガラシャ夫人の自由への希求、精神的目覚め
◎ガラシャ亡き後の忠興の精神的葛藤そしてキリシタンとの深い繋がり
◎戦国時代…キリスト教の茶の湯への影(千利休とキリシタン大名)
◎細川忠興と深い絆で結ばれた家臣たちーそしてその家族の愛の物語
◎迫りくる迫害の嵐…喜びとともに逝った人々、残された人々の苦悩、葛藤
細川藩で仕え、死に至るまで忠実に主に従い通した4人のクリスチャン…1619年10月15日、小倉で殉教したディエゴ加賀山隼人(はやと)。
同日、豊後の日出(ひじ)(現在の大分県日出町)で殉教した、加賀山隼人のいとこに当たるバルタザル加賀山半左衛門。そして、ガラシャの介錯(かいしゃく)をし、切腹をした細川家の家老、小笠原少斎の三男で、1636年、熊本で殉教した小笠原玄也と、その妻、加賀山みや(加賀山隼人の娘)です。彼らの足跡を辿りながら…
加賀山隼人の屋敷は、小倉城下二の丸筆頭(旧小倉北区役所)にあり、知行は1万石でした。
「千尋より深きおもいの海はあれど もらししそむべき言の葉ぞなき」と小倉城の落成祝の歌会で慶長12(1607)年に詠むほど、歌にも優れた 豊前キリシタンの中心人物でした。
*屋敷跡は、現リバーウオークのようです。
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12時に出発しました…
菜園場は、私が中学、高校生の頃、通っていた西南女学院にも近く、車で行く時には必ず、そこを通っていきました。菜園場って何だろうって思っていました。
まずは、その周辺を車でグルグル…愛宕神社への登り口を探します。周辺には小倉高校があって…というか、真裏にあたります。
初めてここを訪れる人ばかり、大型車はやや登りにくい坂道になります。(一度、入り口を見逃して、また再度チャレンジしました。)
愛宕神社横の不動明王堂からお参りする流れです。
赤い火のエネルギーを感じました。
気づいてみると、かなりお日様が照らしはじめ、明るくなっています。
風がときおり、強く吹きます。
ゆっくりとそれぞれで感じ合います。古い祠跡などがあります。ひとつひとつ、お参りします。
ハートが喜び、重苦しさはありません。やや前頭がツーンとする感じではあります。
愛宕神社拝殿、造りが少々、変わっているように感じられます。
そのあたりに何か感じるものがありました…供養塔の向こうに丘があって、大きなお墓が見えていますが、あれは何でしょうか。あとで行ってみることに。
ここでは、緑色のエネルギーをおでこで感じました。とても感じています。また、その横に、稲荷神社があります。
ここのお稲荷さんはとても好きだな…と感じました。藤原さんもそのように感じたそうです。あたり一帯、柔らかい雰囲気でした。
仲間の方々もひとりひとり、感じられ方が違って…いろいろなセンサーが作動しています。
粟島神社もありました、まるでマリアさまに見える…とどなたかが、言われていました。
愛宕神社の階段をおりて、今度は菜園場の方へ。
説明書きをみながら、昔の光景を思い浮かべます。
日明も海に近いことから、この周辺は今と昔では全く異なる光景だったことでしょう…
亀○さんが、ずっとティンシャを響かせています…美しく深い音色。土地のエネルギーが変わってきます。
菜園場の近くに、寺跡があったと書かれています。探してみましたが、その跡はわかりませんでした。
ゆっくりと感じながら、再び石段をあがり、愛宕神社の拝殿横で、祈りをささげ、磁場調整。
空に光の輪が見えてきました。
11月1日…意味深い、太陽のメッセージをハート、そして第三の目に感じながら。
この愛宕山一帯に光の柱をたて、周囲をどんどん明るくしていくように…
風が数回、大きくざわざわと吹き上げてくれました…どんどん空が明るくなってゆくのが感じられます。
死をも恐れなかったかつてのライトワーカーたちの魂に…尊敬と感謝の祈りを捧げながら。
その後、気になる丘の方に歩いていってみました。金光教の墓地になっているようです。
この場所に金光教…
階段をあがっていくと、リバーウオークが見えています。それもメッセージのようで。
また小さな鳥居がありました。何だか不思議な感じがしました。
この丘については何も書かれていないのですが、数名の方がたが反応していて、やや重苦しさを感じたので、すぐに磁場調整。ティンシャをOさんとKさんが鳴らしてくれました。
亀○さんも咳き込みが激しくなりました。
じきに、すう〜っと楽になってきました。
エネルギーが通った感じがし、周辺も確実に明るくなりました。
ここで、最期をとげたのかも知れないね…そう話しながら丘を下りました。
ふと、目をやると、太陽が雲の間から、光の柱を放射していました。
こちらへ来る前とは比べようもなく、
明るくなりました。北九州中…輝いているように感じられました。
その後、15分ほど離れた日明小学校近くの一本松塚古墳へと…
小学校近く、民家の並ぶやや狭い道路沿いにあります。駐車場のところで車を仮止めして(専用駐車場ではない)
小学校のある場所は、元々古墳だった…は、特に考えられ得ます。徳力小学校、広徳小学校…他にもたくさん。最近、とくに小学校内にある古墳がヒットします。また神社も古墳というのが多い。当然といえば当然ですが。
聖地、聖域、そしてその周辺の森、池、川…だけが、かろうじて、昔の時代のエネルギー波動を伝えてくれます。
ほかは、区画整理、埋め立て、住宅造営などで、ほぼ寸断されています。
臨界ポイントに、ひっそりと神社がある…場合も多いです。
この周辺に高校生まで住んでいたというKさん、毎日、通っていた勤務先があるという亀○さん、
また今日のメッセージレターでは、N子ちゃん(京都)も3歳まで住んでいたと、初めて聞きました。
この地域、愛宕神社のことも、ほとんど知られていないのが、不思議ですし、私たちも全く知りませんした。
そして日明は昔から、昨日もブログで(引用資料で)お伝えしました通り、かなりディープな場所だったようです。
北九州の光と影…はっきりと見せてくれた、今回の磁場調整、でした。
到津方面へと向かう、Kさんとは、ここでお別れ。最期は手を取り合って別れました。喜びに満ちて…
帰りの車の中で、イシスさんとOさん(青龍窟からご一緒)がとても素敵なお話の交流をされていました。
愛宕神社でも、Yさんや亀◎さんと皆で交流していました。皆さんのその姿が素敵だったな。
戻って、ほぼ同じ時間にOさんとメールを同時送信しあいました(笑)テレパシーのように、伝播しあう、今の私たちですね。
他の仲間の方々からのメールも、ゆっくり受け取って味わいました。いっしょだということをいつも、確認させられて…
心からありがとうございます。昨日、セッションに来られたHちゃんのことも、他の仲間のことも、心に思い浮かびました。
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あっそうそう、家に戻るまえに、遅い昼食をとりに、車で、長尾の八坂神社(祇園神社)前を通ったんです。そのつもりはなかったのですが(笑)
ここであらたにスイッチが入ったんだな…と思いながら。また、徳光周辺のパン屋さんに行き、そこで子どものおやつを買いました。
はっと目をやると、公園入り口に稲荷神社の旗がひらめいています。あ、ここがこの前、行った、稲荷神社(徳光)の元の地かしら。
なぜなら、石柱が立っているからです。少し先、反対車線側のモスバーガーの裏側に神社はあります。
これも調べてみよう…そう思いながら。やはり長行チャペル教会の案内が出ていました。
またまた、南区のリンク地に繋げて来てしまいました…絶妙。またいろいろなことがわかってくるでしょう。これもやはりメッセージなのです。
昨日の引用記事を見ました…
最後にみんなで感じ合った丘。金光教の墓地…
再び、下記に抜粋しました。
やはり、あそこだったんではないでしょうか。
受難の時を経て、光の時代を謳歌しているすべての魂と、光の世界からアシストしてくれている、光の存在たちの物語に…
かつての自分自身の生命体験を見せてもらいました。
喜びとともに、ハートの価値に従って生きた。死をも恐れずに。
自由を楽しみ、教義ではなく、今度は自分自身とさらに深く繋がり、進みなさい。いま、すべてを光に還す時。
いっしょに導いています…天使、ガイド、サポートチームとともに。
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http://homepage3.nifty.com/oitacatholickyokai/html/hayato.htmlより
隼人の十字架の道
10月15日、忠興から送られた3人の使者が隼人のもとにやってきて死刑の宣告を言い渡した。妻マリアと娘たちも自分たちも処刑されることを望んだが受け入れられず、中津城に送られることになった。
死に別れる前に自分の娘にはこれから起こる艱難に耐えられるように、「人生のすべての苦労を力強く耐えることがすべてではない。喜んで耐えることだ。」と言い残し、セスペデス神父の形見の服をつけその上に羽織をつけ、「パライソ(天国)で会いましょう」と言って別れた。
処刑場までは小舟が用意され、レアン・ショウサイが付き添った。小舟が着くと隼人は人々を遠ざけ処刑場まで一人で行かせてくれと頼んだ。そこは海から 1.4キロほど離れた小高い丘であった。隼人は手に十字架のキリストの御絵を持ち深く祈りながらながら最後の十字架の道を歩んだ。
「わたしの神よ、憐あわれんでください。
あなたの大いなる憐あわれみによってわたしの咎とがを清めてください。
あなたの憐あわれみによってわたしの罪を赦ゆるしてください。」
隼 人はこの憐れみの詩篇や連祷をレアンとともに唱えていた。
そして処刑場に付くとそこは異教徒の墓地であったので隼人はそこで死にたくないし、また葬られる ことを拒んだ。そのため彼はその墓地から200歩離れた所に行き、痛悔の念を起こし罪を深く悔い改め、もっていた羽織は貧しい人のためにと渡した。キリス トに倣って裸足になり、15から20歩あるいてそこにひざまずき、完全な祈りと黙想に入った。
最後に創造主に命を捧げるために「イエス、マリア」のみ名を唱え、死刑執行人には5回唱えてから首を切るように頼み殉教する。54歳であった。
愛宕公園 ディエゴ加賀山隼人殉教地近く(北九州市小倉)
偉大なる愛のレッスンほか参考資料へ続く!