菜園場 |
菜園場 小倉北区 [2008/11/22]
小倉城下の西曲輪(にしくるわ)に近接する所で、藩主の細川忠興(ほそかわただおき)の野菜園があった所から、菜園場(さえんば)の 地名が付いたと伝えられています。この地に不動山がありましたが、忠興が小倉城築城した際、ここに愛宕神社を勧請しました。それ以来、愛宕山と呼ばれま す。その東麓に、忠興は朝鮮からの陶工、尊楷(そんかい)に登り窯を築かせ、焼物を楽しみました。のち、田川郡上野で尊楷に陶器を焼かせます。これが上野焼(あがのやき)になります。
細川氏が熊本に転封されると、小笠原氏が入国し、窯の跡には妙行寺が城下より移されました。その寺も大火にあい、明治になると廃絶されました。
板櫃川は菜園場の東を流れて、小倉城の西側の天然の濠の役割を果たし、紫川から板櫃川の間が西曲輪でした。昭和の初め、板櫃川の河道が変更され、現在は愛宕山の西を流れています。
高架道路は北九州都市高速で、その1号線と3号線が結節する愛宕ジャンクション付近が菜園場です。この辺りは道路が地上と高架に、高架も二重にと、重層になっています。
地上の道路の交差点は、菜園場交差点です。道路の西側が愛宕山です。菜園場交差点の南側脇、愛宕山の麓に菜園場窯跡と表示された建物 と右端にもう一つ建物が建っています。道路改良工事に伴い、1980(昭和55)〜83(58)年に発掘されたものを隣接地に移転し、その遺跡を保存する ために建てられたものです。
この遺跡を愛宕遺跡といい、古墳時代の住居跡などの遺構が発見されました。この後に紹介します二つの窯跡の他に、明治になって廃寺となった妙行寺跡も発掘されました。
小笠原忠真(おがさわらただざね)により足立山麓に妙行寺は建立されますが、後、城下鍛冶町に移され、1679(延宝7)年、2代藩主忠雄(ただたか)が この地に移して、建立しました。1838(天保9)年、妙行寺は大火で焼失しました。再建されますが、明治になると廃寺になりました。
右端の建物には、平安時代の擂鉢(すりばち)状の窯が保存されています。
ここでは藁や木片と一緒に素焼きの土器を入れて低温で焼き、黒色土器がつくられました。
左右二段になった建物の中は、発掘された江戸時代初期の登り窯です。
細川忠興は朝鮮からの陶工、尊楷(上野喜蔵)に田川郡上野(現在田川郡福智町上野)で陶器を焼かせます。これが上野焼(あがのやき)になります。それ以前に忠興が菜園場村で尊楷に陶器を焼かせたことが伝えられていましたが、それがこの窯です。
菜園場窯は、焚口と4つの焼成室からなる全長16.6mの登り窯です。
菜園場交差点から北に行くと、愛宕神社の鳥居が見えます。
1602(慶長7)年、細川忠興は小倉城を築きました。その際、不動山と呼ばれていたこの山上に、愛宕神社を建立しました。それ以来、ここを愛宕山と呼ぶようになりました。
結構急な階段です。この石段がない頃、愛宕山に登るには、土や石が崩れて、老人や子供は難儀していました。小倉藩厩(うまや)組惣右衛門は37両余の寄金を集め、1812(文化9)年、131段の石段が完成しました。
石段を上ると、愛宕神社本殿があります。
愛宕山は京都の北西にあり、山頂には愛宕神社が鎮座しています。細川忠興はこの愛宕神社を勧請しました。祭神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は火の神で、防火の神として祀られています。
愛宕神社の北に隣接して広場があります。
この下は小倉高校です。木立越しにグランドや校舎が見えます。
小倉高校は、2008年創立100周年を迎えました。
愛宕神社の南側には不動明王堂があります。堂の前には二つの石灯篭があります。文化2年(1805)の銘があります。右の石灯篭の奥は経塚です。左端は供養灯明塔です。更にその左右の外には、法華書写塔が立っています。文政2年(1819)の銘があります。
経塚の六角形の石柱の部分に、「法華経典一千部を唱え、元亀3年(1572)閏正月二十五日供養のために建立した」との意が刻まれています。
供養灯明塔は、愛宕神社が建立された江戸初期に建てられたと思われます。
不動明王堂の南側は、広場になっています。そこから一段下に下りる道が続いています。その下は公園になっていて、向かい側は菜園場墓地です。愛宕山一帯は、愛宕公園として整備されています。
菜園場墓地の南側の頂上の一段下付近に、「彦岳石川先生之墓」と刻まれた石川彦岳(げんがく)の墓があります。
小倉藩は京都から儒学者石川正恒(麟州)を招きました。1758(宝暦8)年、麟州は自宅に「思永斎」を開き、儒学を講じました。1788(天明8)年、 4代藩主小笠原忠総(ただふさ)は、小倉城三の丸に藩校「思永館」を創設しました。初代学頭に麟州の子の彦岳が就きました。
公園の横の道の、下りにかかるその横の崖の上に、「大乗妙典一石一字塔」と刻まれた経塚が立っています。大乗妙典は法華経で、一石一字は写経の一種で、小石に経文を一字ずつ墨書きし、まとめて埋めたものです。明和7年(1770)の銘があります。
菜園場墓地やこの経塚辺りは、かっての妙行寺の裏山に当たります。
坂道を下りて来た所の右手にも、法華書写塔が立っています。
坂道を下りきった先は、菜園場交差点に出ます。反対に右側に行きますと、板櫃川に出ます。
昭和の初めに、河道が変更されて、愛宕山の西側になりました。
現在、板櫃川は下到津の御幸橋の先で右に大きく曲がりますが、その前 は、その手前でもっと大きく右に曲がり、現在のJR九州小倉工場の西側を通り、日豊本線の西側を線路沿いに流れ、大門に到り、大門の北で大きく左に曲り、 日明で北に流れて響灘に注ぎ込みました。このように大きく蛇行していたため、それを改善する日明までの流路を変更する工事が行われ、1934(昭和9)年 に完成しました。
上流の様子は「北九州点描」の「到津」を、下流の様子は「北九州点描」の「板櫃川河口」をご覧ください。