以前のブログ記事から 藤原姓楊井氏、奥州藤原氏とのつながり |
2012年 10月 10日ブログより抜粋!
建物の奥に、2つの祠がひっそりと立っています。
手を合わせる為にしゃがんでいると、何だか視線を感じ。まっすぐ見ると、祠の中に小さな雨蛙がいて、その顔が私をじっと見ています。
それで何だか思い出してしまいました。私の母方の祖母の旧姓は佐藤といいます。関東の方がルーツです。父方の姓は三浦。こちらも大元は、千葉の方であるようです。
母は2歳くらいのころ、肺炎で死にかかったそうです。その時代はペニシリンを手に入れるのが大変だったとか。
幸い、母方の祖母は千葉の旧家で大変裕福だったので、何とかペニシリンを手に入れることが出来、助かったようですが、最後は高熱をとるのに、自然療法、カエルを体中に張ったのだとか。(本当の話です)だからお母さんはカエルさんで助かったのよ…と幼い私によく祖母が語って聞かせていました。
今回の下関、宇部、周南、柳井地方は、母方のルーツの地ということもあり、何を見るにつけても祖父や祖母の事を思い出しますが、佐藤と藤原との関わり
をあらためて認識する、というか、最後の最後に、見せられた…という気がしてならなかったのが、この場所での説明書きです。
自分には関係ないと思っていた、柳井氏という氏族の存在も…実は親しい人たちだったのかも知れない…とふと感じました。
奥州藤原氏という存在…
再び感じてみましょう。
下記は、http://www16.plala.or.jp/tyuusinn/より抜粋//
同石祠は、佐藤忠信と言う昔からの伝承があり、当地の地名も忠信(ただのぶ)から忠信(ちゅうしん)となっている。
古老の話に依れば、自分が子供の頃は此処は「ただのぶ」と言っていたとの事である。
また、当地の豪族楊井氏が、源平合戦以後 藤原姓楊井氏を名乗り、同時に同氏の下の名も、忠信と同族である奥州藤原三代に因んで「衡」の字を使い、以後忠武(1333)を挟んで九代、約250年間この名が使われている事。
これに依り忠信の血縁を受けた楊井氏の子孫が、代々五輪塔を祀った。その後1600年代 楊井庄が岩国藩領となり、豪族としての地位と楊井氏色を抹消される中、先祖供養のため五輪塔から一石五輪塔に作り替え、自らの先祖が由緒ある源氏のゆかり と藤原一族である事を残す為、笹竜胆紋と源氏車紋を刻んだ石祠を施したとするものである。
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当地には、古代より楊井氏という豪族が存在し、この豪族は藤原姓と多々良姓を名乗っている。『萩藩閥閲録』『柳井市史』
先ず藤原姓に就いて、前述の反復となるが、藤原姓楊井氏家系図の中、最初に見える新左衛門より、数えて12代目 楊井忠武(1333)から、1代約24〜5年として6代逆算すれば、1185年源平合戦の最中、義経一行が楊井に上陸した頃に行き当たる。
この6代目楊井俊衡を境に、楊井氏の下の名が 忠武を挟んで9代にわたり、約250年間「衡」の字が続いている。 之は、義経の義兄弟 佐藤忠信と血縁を結んだ楊井氏の子、即ち忠信の子が、父と同族である奥州藤原三代にあやかって名付けたものと推測され、これを期に楊井氏が藤原姓を名乗っ たものと思われる。
また、多々良姓楊井氏に就いては、二つの事が推測される。 一つには精錬関係で多々良姓を名乗ったのではないか?
二つには、中世の山口県下で絶大な勢力を誇っていた大内氏は、朝鮮王朝の末裔と称して、初めの頃は多々良大内氏を名乗っていた。
後に楊井氏は大内氏の傘下に入っているので、この事に依る何らかの理由で、多々良姓楊井氏を名乗ったのではなかろうか?
1、精錬関係の場合
当地で精錬等が行われた痕跡は今の処発見されていない。推測するに、奥州藤原氏は鉄により栄えた一族である。してみれば、佐藤忠信との繋がりで奥州鉄との関連が考えられ、当地で鉄関係の仕事をしていた事も考えられる。
また、別家藤原姓 楊井春盛の知行地 美祢郡秋吉別府からは、昔の精錬跡が発見されており、この地に於ける鉄との関連は深く、当地で鉄を扱っていた事も考えられる。
2、多々良大内氏との関係の場合
当時の多々良大内氏は大豪族であり、この一族と楊井氏が何らかの血縁に在ったことも考えられる。
多々良大内氏も楊井氏も、共に海外貿易を営んでいた事等考えれば、共通する所は多かったように思える。
他方、太古から近世まで、名のある武将の大半は 源氏、平氏、藤原氏姓を名乗り、血統が大きくその勢力の後ろ盾となっていた。
このため佐藤忠信の血縁を受けた楊井氏は藤原姓を名乗り、その上、大内氏とも何らかの関係を結び、多々良姓をも名乗ったと推測される。
ちなみに当地(忠信・新生)の小名は、「タダノ」であり「タタラ」と同義語である。してみれば、この説が正しいのではあるまいか。
何れにしても、以上二つの事により、楊井氏が唯単に楊井庄の土豪ならず、かなりの英知と力量を有した豪族で在った事が窺がわれる。
なお重複するが、多々野は多々良の宿語(柳井市史・地名)であり、小名 多々野、即ち現在の忠信・新生地区に多く在る五輪塔の主は、地域名に於いて多々良姓楊井氏であり、佐藤忠信の関係に於いて藤原姓楊井氏である。
前述3基の石祠は、佐藤忠信の子供にとり、叔母・義経夫婦(義経の奥州に於ける妻は 忠信の女姉妹「奥州デジタル文庫」)と伯父の継信夫婦、そして父母である忠信夫婦の夫婦墓となっている。
この様な事をするのは、時代的背景 即ち柳井に楊井氏を除いて他に武士豪族が見当たらないこと等考慮すれば、忠信の血を引く 楊井氏の末裔以外は考えられないとの結論に至る。
なお、この供養塔の主が、義経、継信、忠信の夫婦墓である事は、前書「通称ただのぶさん」で詳細した如く、法篋印塔および石祠に刻まれている、源氏の家紋「笹竜胆」と佐藤家の家紋「源氏車」で明らかと言える。
この3基の供養塔は、義経・継信・忠信3者の夫婦墓として、忠信の血を引く楊井氏の末裔が建立したものと推定されるが、主体は、やはり楊井氏にあったと思われ、楊井氏が先祖供養のため建立したと理解する方が自然である。
以上、引用終わり