古代周芳国の図(古周防旧長門)の歴史その3 |
※たい国=人偏に妥を合わせ、一文字漢字+国で、たい国 (漢字が出ません!)
『階書』倭国伝にいう天子・阿毎多利思北孤は、六世紀に秦王国を引き継いだ東漢氏出身の大王のことである。」それ以前の三世紀初頭、神武らの扶余族に敗れた委奴国の王・大国主命の子孫たち(シメオン族の秦氏ら)が亡命して、近畿地方に秦王国を建てていた。このシメオン族系の十四代目の王が六十六歳で病死したとき、この王には三人の女子しかいなかったため、五世紀後半のいわゆる「倭の五王時代」、高句麗から渡来していたレビ族系の東漢氏(六万四千人部族の族長・秦氏)が、その実力を買われて秦王国の王位を継承した。秦氏が王となったこの秦王国は、織物業の普及や大型「前方後円墳」築造などの巨大土木工事によって大いに発展。東日流の荒吐五王国(東北王朝)とも友好関係を結び、ペルシアのへレニズム文化の移植、律令制および国造制を施行する国家として急成長を遂げた。そのため、五二二-七〇一年の百七十九年間、「倭国年号」(俗にいう九州年号)が存在し、実際、全国的にも使用されていたのである。これらについては、『三国史記』も次のように述べている。「朝鮮三国はこのたい国を(倭国より大きい)大国として認識し、各国それぞれ盛んに交易を行った。さらに五三八年、倭国〈九州王朝〉)および秦王国(奈良大和の飛鳥王朝)へ百済聖明王から仏教が公伝された」その秦王国の二代目をアメタリシホコ(阿毎多利思北孤)といい、その名前は『階書』倭国伝に出てくるが、アメタリシホコは天子を名乗って山口県から九州にまで発展・進出する。そして九州の倭国(朝鮮南部にも分国をもっていたクニ)と戦って、筑紫などの北九州を制圧するほどの威力を発揮するようになった。当時、階ではこの九州に進出して来た秦王国をたい国と呼んでいたようである。「秦」は「たい」とも読めるから、それで「倭」に似た「◎」を使用したのかもしれない。六世紀後半、秦王国王改め「タイ国天子」となったアメタリシホコ(レビ族々長)は、九州の倭国を討伐.征服して全国統一を図ることを決意した。そのため、まず前進基地としての「水の都」を分国の周芳(のちの周防・山口県)に置いた。そして、周芳国・楊井水道の中の奈良島(今の熊毛郡田布施町麻郷奈良)に都を定めると、水陸合わせて一万余の軍勢を動員して倭国(博多湾)に攻め入り、たやすく勝利した。こうして筑紫だけでなく、肥前、肥後まで占領して九州全体をタイ国の支配下に置いたのである。
倭人のルーツの謎を追う278〜279より