ウラルトゥ王国についてのさまざまな引用 |
『秀真伝』第六章「日ノ神」の項に、「月隅は、島津彦より七代住む。今、かねおりの、エタカバネ、宗像、安曇、助けしむ」とあって、支族を表す「エタカバネ」は稀多の姓のことであるとしている。また、『秀真伝』の訳者・吾郷清彦氏は、島津彦より七代の王を「島津彦ー沖津彦ー志賀彦…○…○…金折尊(かなざきのみこと)○」と記しているが、このあとが波提祇彦で、その娘豊玉姫が火火出見尊の王妃であり、その孫娘の玉依姫がウガヤ五十一代王の王妃となるから、島津彦の一族はアメニギ氏の対婚部族のことであるとしている。 カコシマは加古島と書き、水夫の島、フェニキア人の基地、ひいては鹿児島のことである。
サツマの地名も、蘇民サカ族との対婚部族を表しており、この地はのちに熊襲となる、朴・昔・金の鳥人(ニンフルサグ)族の植民地/狗奴国(=投馬国)のことであった。現在の島津家が、島津彦の家老、(海人頭)で、島津彦の姓である伊集院家はイシン王家のことたから、アメニギ氏の対婚部族にあたる。つまり実際には、隼人が毛人でエビス系の人々、熊襲が扶余の倭人と箕子国の韓人から成り、その各々が対婚部族のことを「エタカバネ」と称していた。本来の「エタカバネ」は、古代人の尊称だったのである。
従って、本来の「エタ」姓の呼称と、のちの皮革姓差別とは別個のもので、これが誤解され、混同されるようになったのは、七世紀の白村江の戦い後、韓人王朝である中大兄皇子(天智天皇 彼は、前半のモデルが新羅の武烈王、後半のモデルが百済王豊璋で、合成された人物である)の奈良朝廷ができてからのことであった。
つまり、韓人王朝によって、日本を植民地として統治するための官製史書である『記紀』が創られる過程において、インド伝来のカースト制度が導入されたのである。ちなみに、力ーストとはポルトガル語で家柄、血統を意味するカスタに由来する語で、インドでは、力ーストは、生まれを同じくする者の集団を意味するジャーティと呼ばれている。
ウラルトゥと扶余伯族
アラプハ(今のキルクーリ)のヨルガン・テペから出土したテキストによると、前二〇〇〇年紀の半ばから、アルメニア高地にミタンニのフッリ人が流入していたことがわかる。このテキストは変形のアッカド語で書いてあったが、ソビエトの学者たちは、文書の作成時代の母語がアッカド語なのではなく、フッリ語であったと考えた。アルメニア高地は小アジアの東方にあって、そこにはユーフラテス河の大支流アルサニア河とアラリヤス河の河谷があり、南方にはタウロス山脈が走っていて、古くから原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族などが住んでいた。フッリ人は、エジプトやカナーンの地からこの地に拡散して来たのだが、ヒッタイトの資料はこの地方をフッリ人の国と記している。フッリ人(鹿島昇氏のいうフッリ人のこと。実際はエジプト人)は、前二〇〇〇年紀の半ばには、アーリア人の国であるミタンニ王国に従属し、シュッビルウマシュ王以降はヒッタイト国に従属するようになったという。『桓檀古記』馬韓世家を解読すると、馬韓史の初めの部分が、前二〇〇〇年以降のヒッタイト史であることに気づく。前十三世紀末のヒッタイト崩壊の後、いくつかの小国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、カルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッティナ国と名乗った。そこにヒッタイトのムシュキ族やカスカイ族などが入ってきたのである。アッシリア史は、「シャルマネサル一世の軍隊が、ウルアトリを撃破し、クティ族と戦った」と述べているが、このクティ族は恐らくグティア人のことであるから、ウルアトリはいくつかの部族の連合軍だったのである。前十一世紀以降、ウルアトリはビアイニリに承継されたが、アッシリア人はこのビアイニリをウラルトゥと呼んだ。
ウラルトゥはその当初から、ミタンニ人やヒッタイトのフッリ人、カッシュ人、チュルク人から成る、いくつかの部族の連合体だったのである。ウラルトゥ人の誕生前一〇〇〇年頃、フェニキア人(女)とヒッタイト人(男)の混血によって、ウラルトゥ人(血液A型)が生まれた。このとき、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのがアマテル神(男神)である。ヘロドトスは、『歴史』のなかで、前五世紀、ウラルトゥの故地に、「サスペイレス族(カルトヴェリ族)・マティエネ族(フッリ人)・アラロディオイ族(ウラルトゥ人)・アルメニオイ族(アルメニア人)の四族がいた」(カッコ内は著者補筆)と述べている。この人々はのちに、北西部でグルジア人に、南西部と中央部でアルメニア人にそれぞれ引き継がれて今日に至っている。前七八○年頃、ウラルトゥで英主アルギシュティシュ一世が即位した。韓国の史書『檀君世ゲンハフッシュ紀』は、この王を「彦波弗吟」と記し、日本の『宮下文書』は、「ウガヤフキアエズコトアイ」(ウガヤ王朝の祖)と記している。また『契丹北倭記』第二十五章は、ニギハヤヒノミコトを「ニギシ」と記して、ウラルトゥうこうれいのアルギシュティシュ一世がアッシリアを伐ったとき、高令が参戦していたと述べている。この高令はチュルク人のことで、アンドロノヴォーカラスク人の喬であり、今のトルコ人であるが、また高句麗の桂婁部でもあって、カルデア人をはじめとする南海諸族とともに韓民族の主流を構成している。ゆえにウラルトゥ史は、オリエント時代の韓民族史 檀君朝鮮史でもあるということになる。ウラルトゥの諸王は『上記』『宮下文書』などではウガヤ王朝と書かれているが、その系譜を記せば次ぺージのようになるであろう。
ウラルトゥ王・アマテルー一・天照大神(前一〇一六-)
ウラルトゥ王・シャルドウリー世・オシホミミノ命、(前八五〇頃-)
ウラルトゥ王・イシュプイニシュ・ニニギノ命、(前八一七-八一〇)
ウラルトゥ王・メヌアシューホホデミノ命(前八一〇-七八一)
ウラルトゥ王・アルギシュテー世・ウガヤー世、(前七八一-七七〇頃)
ウラルトゥ王・シャルドウリシュ2世ーウガヤニ世_(前七七〇-七四〇頃)
ウラルトゥ王・ルサー世ーウガヤ三世(前七四〇頃-七一四)
ウラルトゥ王・アルギシュティシュ二世ーウガヤ四世_(前七一四-六八五)
ウラルトゥ王・ルサニ世ーウガヤ五世_(前六八五-六四五)
ウラルトゥ王・シュルドウリシュ3世ーウガヤ六世(前六四五-六二五)・
ウラルトゥ王・エリメナーウガヤ七世(前六二五-六〇五)・
ウラルトゥ王・ルサ三世ーウガヤ八世(前六〇五-五九〇)
北扶余(前期王朝)王・解漱一_.ウガヤ?世(前二三九-一九四)
北扶余王・慕漱離ーウガヤ?世北扶余王(前一九四-一六九)
北扶余王・高◎◎ウガヤ?世(世前一二〇-一〇八)
東扶余(伽葉原)王・解夫婁ーウガヤ?世(前八六-四七)・
東扶余王・金蛙ーウガヤ?世(前四七-紀元六)
東扶余王・帯素ーウガヤ?(六-?)
東扶余王・都頭(干台・優・ウガヤ?世
扶余王・尉仇台(一三六-一六〇頃)ーウガヤ五十世
扶余王・扶台ーウガヤ五十一世(一六〇頃)
百済王・尉仇台二世(仇首)=神武_ウガヤ五十二世(一八○頃-二二四)
〔皇統譜〕の系譜〔邪馬壱国〕の系譜 ※アマテラスオオミカミという呼び名は、本居宣長が勝手に付けた名前で・正しくない。
倭人のルーツの謎を追う 松重揚江著より
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plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/201205030001/
ウラルトゥ王国からの流れ (倭人興亡史)より
アルメニア高地は、小アジア(現トルコ)の東方にあって、そこにはユーフラテス河の大支流、アルサニア河とアラリヤス河の河谷はあり、南方にはタウロス山脈が走っていて古くから、原ヒッタイト族、カルトヴェリ続、ハヤシャ族などが住んでいました。
フッリ人は、エジプトやカナンから、この地に拡散して来たのですが、BC2000年紀の半ばには、ミタンニ国に従属し、後にはヒッタイト国に従属していました。
それから紆余曲折あってウラルトゥは、ミタンニやヒッタイトのフッリ人、カッシート人、チュルク人からなる、幾つかの部族の連合体だったのです。
BC585年、ウラルトゥ王国崩壊。以後は、シルクロードを流浪するウガヤ王朝となります。
ウガヤ10代王アルカ(桓子)は、一族を率いてキンメリ族と同盟し、シルクロードを経て、華北に入ると山西省に趙国を建てました。趙国は、中国の春秋戦国時代に七雄の一つとなり、天孫族(伯族)の申国または大扶余とも称されました。
扶余人=百済人は、ウラルトゥ人(フェニキア人とヒッタイト人の混血人種)がオリエントから東遷して華北に建てた趙国(大扶余)人の直系末裔であり、その流れは、下記のように日本の南朝系の天皇家までつながっています。
ウラルトゥ王国→シルクロードのウガヤ王朝→趙国(大扶余)→北扶余(前期王朝)→東扶余→伯済国→多羅国→伊都国→邪馬壱国→百済国→奈良時代の百済王一族→桓武平安王朝→南朝系天皇
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ウラルトゥhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウラルトゥ王国の最大版図(黄色)(紀元前743年頃)。緑色はアッシリア帝国の版図
「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。王国は、ウラルトゥ語でビアインリ(Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン」(Van)の語源となった。また、「ウラルトゥ」の名はアララト山(Ararat)とも関係づけられる。
歴史
紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ(Uruatri)」または「ナイリ(Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラムあるいはその息子サルドゥル1世のもとで王国を形成した。
ウラルトゥ王国は、最盛期にはアルメニア高原の全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川の上流域にまで至った。首都は現在のヴァンのあたりに置かれ、トゥシパ(Tushpa)と呼ばれた。
ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。
ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ(Rusa)がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗した。紀元前585年にスキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。その後はこの地にアルメニア人が定住した。
紀元後5世紀ごろ以降、ウラルトゥの存在は忘れ去られていたが、18世紀、19世紀の発掘によって再発見された。
ケフ・カレシ出土の礎石(ルサ2世時代)。アナトリア文明博物館(アンカラ)蔵
歴代国王
黎明期
アラマ(紀元前858‐844年)
ルティプリ(紀元前844‐834年)
拡大期
サルドゥリ1世(紀元前834‐828年)
イシュプイニ(紀元前828‐810年)
メヌア(紀元前820‐785年)
アルギシュティ1世(紀元前785‐753年)
サルドゥリ2世(紀元前753‐735年)
ルサ1世(紀元前735‐714年)
衰退期
アルギシュティ2世(紀元前714‐680年)
ルサ2世(紀元前680‐639年)
サルドゥリ3世(紀元前639‐635年)
エリメナ(紀元前635‐629年)
ルサ3世(紀元前629‐615?年)
サルドゥリ4世(紀元前615‐598年)?
ルサ4世(紀元前598‐590年)
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http://homepage3.nifty.com/armenia/history.htmより引用
アルメニア史対照年表
紀元前
3000 青銅器時代:アララト盆地のメツァモル Metsamorなど。 シュメールが興隆
2400 印欧語族がアシアからヨーロッパへ移住。アッカドの支配
2272 アッカド王ナラムスィンの碑文に「アルマニ Armani」とあり
( 同王は2270-2230年の間,近隣に遠征 )
2000 ヒンドゥ人,イラン人などが北方よりイラン高原に進出
1830 バビロニア王国
18世紀早期 ヒッタイトがアナトリア高地に。東にハヤサHayasa。
南東にフッリ Hurian(ヒッタイトの呼称で,ミタンニ王国(前18−14世紀)のこと。アッシリア呼称はスバリ) 。
16−13世紀 ヒッタイトHittite王国
1700 ハムラビ王
1600 クレタ文明全盛期
1500 アッシリアが自立。
1500頃 ヒッタイト全盛期
1400 ミケーネ文明全盛期
1400−1380 ヒッタイトのトゥドゥハリヤ3世在位( 東方の「ハヤサ」に遠征。)
1380−1340 ヒッタイトのスッピルリウマ1世 在位。同ムルシリ2世(在位 1339−1306)
1300 アルメニア高地にナイリ Nairi 83王国が散在(ウラルトゥなど)
(注「 ナイリ」はアッシリア呼称で,川向こうの土地,川・湖水に富んだ土地の意味)
1250−1220 ヒッタイトのトゥドゥハリヤ4世 在位
1200 ヒッタイト滅亡
1114 アッシリアの彫文に「Nairiの人々」とあり
11世紀より200年間 アッシリアは弱体化。彼らの彫文に強力な勢力として「Urartu」ありと
1000 ナイリの部族連合体が統一王国ウラルトゥ Urartuを形成。
構成 : アルメン人はナイリのなかの一つ。ウラルトゥ人,マティエン人(ミタンニの末裔),アラロド人,サスペイール人(ハヤサ・アッズィの末裔),タイク,コルドゥク,マルトゥ人等々。
最初は「ナイリの王様」であったのが,ウラルトゥの王のときにビアイナ国 Biainiliとし,首都を
トゥシュパ Tushpa(現 ヴァン Van)に置く
1000頃 中国で周
900 アララト山北麓にメヌアヒニリMenuahinili創建(現 イグディル(テュルク呼称ウードゥル)近郊)
9世紀 ウラルトゥ王国はアルメニア高地の覇者になり,メソポタミアにも侵入
8−7世紀 キンメル人を追ってスキタイ人が南下。
スキタイのウラルトゥとの同盟関係はアッシリアを脅かす
8世紀 部族の連合を一大王国に,ウラルトゥ王国の全盛期 (全アルメニア高地,北は小コーカサス,南はクルディスタン,東はヴァン湖東岸。ビアイナ+周辺の中核が確固としていた)
782 城市エレブニ Erebuni(現イェレヴァン Yerevan)創建 ⇒歌曲 Erebuni Yerevan
776 アラクス北岸にアルギシュティヒニリArgishtikhinili(後のアルマヴィル Armavir)創建
アッシリア,再び高揚期。サルゴン2世(722−704)などのウラルトゥ遠征
770 中国春秋時代
714 サルゴン2世は城市ムサシルMusasirを劫略
(アルディニのハルディー神殿から略奪。ムサシルはアッシリア呼称)
680 城市テイシェバイニ Teishebaini(現 カルミル・ブルルKarmir Blur)創建
ウラルトゥは再びオリエントの強国に
625−550メディア, 625-538新バビロニア
612 アッシリア滅亡
591 ウラルトゥの首都トゥシュパがスキタイ支援のメディア軍により陥落。ウラルトゥ王国凋落
551 孔子生まれる
550 キュロスがメディアの首都エクバタナを陥落させ,独立
550-330 アケメネス朝ペルシャ キュロス二世大王(-529)
521 ベヒストゥーンの摩崖碑に「アルミニ Armini」
519-330 アルメニア高地はペルシャの州 サトラピ(西は第13徴税区,東は第18徴税区)に編入される
509 ローマ共和政
ヘロドトス Herodotus(484頃−430以降)「歴史」
403 中国戦国時代
401 アララト盆地にアルマヴィル,イェルヴァンダシャトを中心とするEruand王朝成立(-201)
400 クセノポンXenophon(430−354)「アナバシス Anabasis」にアルメニア人の生活模様を記述
334 アレクスサンドロスの東方遠征
312 セレウコス朝がアルメニアの行政をアルタシェス Artashesとザリェフ Zarehに委任
304 エジプト王国プトレマイオス朝
290 北アジアに匈奴
247 パルチャ(アルシャク朝ペルシャ - AD.226)/221 秦の中国統一
189 マグネシアの闘いでセレウコス朝のアンティオコス三世大王がローマ軍に敗れる
189 アルタシェス朝創始(-AD.02)
180 アルタシェス一世はアルタシャトArtashatを創建。
同市は東方=黒海交易ルート上の工芸・商業センターとして隆盛
95−55ティグランTigran2世大王在位。北はクーラ川から南はキリキア,シリア,パレスタイン,エジプト北部までを版図に入れる
69-66 ローマによる "東方のアルメニア戦役”
雄弁家・政治家キケロ(106-43)
55 アルタヴァズド二世(-34)
54 ハランの闘いでパルチャ軍がローマ軍を粉砕,クラッスス将軍敗死。アルメニアのアルタシャト宮廷ではパル チャ王オロデスを招き「バッコスの信女」を上演中
35 アントニウスがアルタヴァズド二世をクレオパトラのもとに連行
ナハラルnakharar(貴族)間の争闘で国内は四分五裂,ペルシャとローマ間の「緩衝国」化する
27ローマ帝政
ストラボStrabo(BC64,63-AD25) 「地理書 Geography」
ウラルトゥ王国についてのさまざまな引用その2へ続く