高倉下=エビス王、安日彦(孝安)=天香久山命=天日槍の長女は卑弥呼 |
下記は、松重揚江著、卑弥呼王朝の全貌より抜粋//
いわゆる『魏志』倭人伝の卑弥呼は、伊都国王イワレヒコの王妃で、『記紀』のヒメタタライスズでもある。
神武の死後、卑弥呼は神武と先妻の間の子・タギシミミと再婚した。
したがって、『魏志』倭人伝のいう"卑弥呼の弟"とは手研耳尊のことである。これら邪馬壱国の歴史について、中原和人氏は『封印された古代日本のユダヤ』(絶筆遺稿)の中で、次のように述べている。
神武天皇という人物について、韓日両国の古史・古伝『北倭記』『秀真伝』『桓檀古記』には、次のように明記されています。
○神祖は、イカヅチワケをサハキ(扶余)に配した」
○「イワレヒコ(神武)が阿蘇を都とする大物主命の国を奪ってワケイカヅチと名乗った」(『秀真伝』)
○「神武は筑紫(博多)の伊都国王であり、日向(宮崎県)にあった安羅国と熊本にあったニギハヤヒの多婆羅国を合併して邪馬壱国を建てた」(『桓檀古記』)
以上を総合すると、『記紀』などにより日本で一般に伝えられている神武天皇というのは、あくまでも創作伝達の都合で仕立てられた、いわば神話上の人物であり、歴史上に実在した神武とは違うということが判ります。歴史上の実在の神武は、イカヅチワケまたはワケイカヅチ(別雷神)と同一人物であり、高句麗新大王の末子・爾須と同一人物です。神武は、扶余(現在のソウルの辺り)王の仇台となったのち、帯方郡で伯済国を建てて百加済王仇首となりました。その後、さらに南下して伊都国王(筑紫〔博多〕国王)のイワレヒコとなり、九州日向(宮崎県)に先行した公孫氏(海人族)および肥後(熊本県)のニギハヤヒ族と合体して、邪馬壱国を建てたのです。とさらに、この点について吟味し、厳密に分析してみると、神武その人は高句麗新大王の実の子ではないことが分かりました。父親はヒッタイト人とフェニキア人の混血で、母親はヒッタイト人なのです。いわゆる「高句麗人」は、ツングース(アイヌ人)とフェニキア人の混血です。いわゆる「百済人」は、フェニキア人とヒッタイト人の混血です。実は、神武(ヒッタイト系貴族)の先祖は、約三千年前に、フェニキア人とヒッタイトの混血によってウラルトゥ人(血液A型)として生まれました。ウラルトゥ人の国は小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されましたが、これがウラルトゥ王国であり、その初代王がアマテルノ大神(男王)なのです。
このアマテルの子孫がシルクロードに亡命して月夜見命の系譜となり、やが"ウガヤ王朝"となって変遷を続け、東アジアにまで登場したのです。
…神武天皇の母は玉依姫命であり、神武天皇と前妻のアヒラツヒメとの間に生まれたのがタギシミミノミコトということになります。前妻のアヒラツヒメが死んだあと、後妻に公孫度の宗女であるイスケヨリヒメ(またはヒメタタライスズヒメノミコト)、すなわち卑弥呼を迎えています。
抜粋以上!//
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タカクラジ=タケクラキ=エビス王、安日彦(孝安)=天の香久山の命→ウガヤフキアエズ王朝の祖王=天の日槍(あめのひぼこ)の長女が卑弥呼と書かれています。
あらら…どういうこと?
まず孝安天皇からみてみましょう。
◎孝安天皇(こうあんてんのう、孝昭天皇49年(紀元前427年)- 孝安天皇102年1月9日(紀元前291年2月27日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第6代天皇(在位:孝安天皇元年1月7日(紀元前392年3月3日) - 同102年1月9日(紀元前291年2月27日))。日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)・大倭帯日子国押人命(古事記)。
孝昭天皇の第二子。母は瀛津世襲の妹・世襲足媛(よそたらしひめ)。
皇后:押媛(おしひめ、忍鹿比売命。天足彦国押人命の女)
第一皇子:大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと、古事記による)
第二皇子:大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと、孝霊天皇)
孝昭→孝安→孝霊→孝元(金首露か)→開化天皇という流れ (初代武内宿禰は、孝元天皇の孫となる)
注意深く見てゆきましょう。孝安天皇ではほとんどわかりうる資料がありませんでした、そうするとタカクラジでみてゆきます。
○*高倉下=天目一箇神=天香古(語)山命=彌彦大神
○タカクラジはたごりつひめの孫だという説…田心姫は、『古事記』の大国主命の系譜では、大国主命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだと記されている。ということは、タカクラジとは、大国主命の孫でもある…
◎神武東征により、安日彦とながすねひこの兄弟は、東北の地に逃れたとも言われていて…東北の安倍氏につながる/各地にさまざまな伝承があるのは、九州を追われた人々がその祖先を祀っているという痕跡だろうか。→弥彦神社
◎卑弥呼=ヒメタタライスズヒメ
その母、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘
◎セヤタタラヒメは大物主(オホモノヌシ)の妻ということになっている
◎それでは大物主とは…公孫度(たく)であるのか。
ということは、タカクラジ=タケクラキ=エビス王、安日彦(孝安)=天の香久山の命→ウガヤフキアエズ王朝の祖王=公孫度となる。
♪それでは検証してみましょう。
下記は、失われた大和のユダヤ王国(中原和人/松重揚江著)より引用
公孫氏(大物主命)の燕公孫氏(ユダヤ人イッサカル族)が史書に登場するのは『魏志』からである。
その紀は、「度、中平六年(一八九年)をもって遼東に拠る。淵に至るまで三世なり。凡そ五十年にして滅ぶ」と記している。
公孫氏の先祖はソロモン王の子孫たちの時代、イスラエル王国よりタルシシ船でインドシナ方面に渡来し、メコン河流域・バンチェン文化圏の支配者となった。王家の次男であった公孫 燕はバンチェンに十五年ほどいたが、しばらくしてセレベス島のメナドに移った。そのあと長男がバンチェン支配を受け継ぎ、次男であった燕は分家したわけである。しかしながら、やがて二十年後、公孫氏のバンチェン支配は終了したようだ。後漢の末期(二世紀)、セレベス島を本拠としていた分家の公孫燕がクメール人を引き連れて、中国遼東へと大移動した。公孫氏系のコロニーがあったボルネオの港を経山し、東シナ海沿岸(公孫氏らタルシシ船の要港・河南省を含む)を経ての長途の旅であった。ようやく長旅を終えた一行は遼東に定着した。公孫氏は戦国時代の諸侯となり、やがて燕の子・公孫域が遼東の玄菟郡太守となった。ちなみに、メナドとはフェニキア人が日本に渡来して各地に「津」を作り、それを港と名付けた語源の地である。今でもメナド人は鰹のぶつ切りなどを好んで食べるが、観光客に接する娘さんたちも古の"大和撫子"そっくりである。
漢の中平六年(一八九年)、域の子・公孫度が遼東太守から燕国の王(在位一八九年ヨニ〇四年)として独立するに至った(大物主命の燕)。次に度の長男・公孫康(事代主命.が在位し、在位中、扶余族とともに南下して帯方郡(ソウル/ボルネオ語の発音・新しき邑の意韓国ではソウルの語源を巡って異論があるようだが、これが本当の語源である。ちなみに、古代ボルネオ語は現在のフィリピン語として残されている)を建て、さらに南下して九州の投馬(加古島)国王となった。国史はこの王を道臣命・大物主櫛琵玉命とも称している。次に、度の次男・公孫恭が燕王(二二一年ー二二八年)として在位し、続いて、恭の長男.公孫淵(二二八年-≡二八年)が即位したが、二一二八年、魏の司馬幣仲達(のちの宣帝)によって滅ぼされた。これが第3の燕である。
*公孫度は日本史では大物主命(大神氏)であり、康が事代主命である。また、度の次女のアヒラツヒメが扶余王尉仇台二世(神武)の先妃となった。先妃の死後、度の宗女(長女)が百済王仇首(神武)の後妻となり、夫唱婦随して、いわゆる「神武東征」を行った。これが『魏史』倭人伝にいう卑弥呼である。
歴史的流れの中で
公孫度の宗女卑弥呼とその娘壱与など、イッサカル族が支配した安羅国の歴史的流れの中に、倭国の女王の額田王・大伴氏の王家があった。スマトラ島にユダヤ・ゼブルン族の拠点があったが、そこから日本へも渡来している。彼らは、沿岸潜水漁労民を実体とする「倭の水人」(三国志」の作者・陳寿の文)と記された海人である。彼らの氏神は宗像神社の三女神であった。潜水漁労に海女が中心勢力として従事していたことが関連している。また、海人族たちが航海上オリオン座を重視していた反映として邪馬壱国の「三神信仰」が生まれたと考えられる(他にも海人族の三神神社として綿津見神社および住吉神社がある)。出雲の蘇民地方の土地神である大国主命と、委奴国最後の王であった大国主命とは全く違う別人である。蘇民将来・出雲大社の大国主命は、歴史的流れの中で生まれた旧いガド族の「現地人の氏神」(荒神様)であった。委奴国の大国主命はシメオン族土師氏の族長で、のちに渡来し、扶余王仇台神武によって殺されている。「記紀」神話にはいろいろな「話」が集約されているこのように、「記紀」は各地のいろいろな勢力の話を集めた形で成立している。
天照大神が岩戸に隠れていたとき、その前で踊ったのがエブス人の天釧女命だが、この儀式は、当時の勢力が皆仲問なのだという風に歴史を作り変えるため書かれたものである。天照大神が生んで、大国主命の妻になった神々宗像三女神(田心姫神、滞津姫神、市杵島姫神)は、イエスと同じ古代ユダヤのゼブルン族出身である。こういった点で、歴史を研究するさいには神話の部分と内実の部分の絡みというものを明確にしていく必要があるのだが、それと同時に、各神社に残っているいろいろな神楽の中の物語に、最初は原始的だが頑固なまでに何度も繰り返されている部分があるので、そこに歴史の隠された真実が種々あると思われる。それらを実地に積み重ねて歴史を掘り下げていくことが必要である。そういう意味で、大国主命の国譲りの話は、大国主命を攻め滅ぼした話を「譲ってもらった」ことにした。だから、タケミカヅチが大国主命のところへ行って国譲りを頼んだら、私は身を引いた身分だから、息子の事代主命に聞いてくれと言った。そこで、釣りをしている事代主のところへ行くと、大けがをしてそのまま海に沈んでしまった。これは自殺したのかも分からないし、大国主も消えてしまった。ただ一人、子供の建御名方命が抵抗して諏訪に逃げていくが、タケ
ミカヅチ(神武)はそれを追いかけて降参させたという話になっている。
(以上引用)
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これで私の中で伊予大三島(父方の祖父)鹿児島(父方の祖母)のルーツが事代主ー鴨氏とでさらに繫がった…
そして宇佐の古い氏族ー孝元天皇(武内宿禰以前)の流れもよくわかった。大伴氏の祖である、クメール族を率いてきたのも公孫康。(磐井や刃連の祖)
宗像3女神の本当の正体にも迫ることが出来た…
安日彦はまさにいろいろな名前と顔を持つ、東表国の2代目エビス王だった。
私は、ここで、気になっていたメッセージの意味をようやく理解できました。
いつか宗像鐘崎の葛原神社(山下影姫を祀る)を旅したとき、道端に横たわる、息絶えた猫=壱岐真根子と」、
神社を参拝して車に戻る途中に電線に無数の燕の列が出来ていた…燕(えん)
この2つ目のメッセージがようやく、
ハートで理解できて嬉しい。
そして自分の中でバラバラだった東表国と神武東征、そして卑弥呼、壱代、また伽耶王家と安羅王家の繋がりが理解できてずっきりしている。
どうしても、公孫康(事代主)と武内宿禰がともにエビス王として重なっていた…
育ての父は早くに亡くなりましたが、久留米出身で、高良大社のクメール族のような顔だちの人で、海人族のような人だった。赤間神宮、宗像大社、鵜戸神宮、霧島、厳島神社…龍宮ゲートによくつれていってくれていました。私の母のあだ名は玉ちゃんで、幼い頃から、知り合いに玉ちゃん玉ちゃんと呼ばれていた…母はまるで、玉依姫のような人かな。
やはり宇佐を本拠地とした、タルシシ船のオーナーたちー歴代クルタシロス王たちは、エビス人や隼人の海人族の人々だったのだ…
繋いできたすべての土地が、古代の光に繫がって、私の中で輝き始めたように感じています。
さあ、また進みましょう。
というよりも、安心院の最後の神社ー妻垣神社を訪れたレポートがまだでしたね。
安心院の中心街から南へ3キロほど行った所に妻垣山という小さな山があり、その山裾に『妻垣神社』が鎮座しています。
ちょうどお弁当を車の中で食べて、スコールが降って、またさらに晴れ渡りました…
さんざん書いてきましたが、ここは古代史研究家の間で一大論争を起こしたこともあるという神社です。
『足一騰宮』は(あしひとつあがりのみや)と読みます。
日本書紀どおりで行くと、日向(宮崎県)から大和を目指して東征の旅に出た神武天皇は、豊後の宇佐に立ち寄り、その時、この一帯を治めていた菟狭津彦(ウサツヒコ)と菟狭津媛(ウサツヒメ)の兄妹が『足一騰宮』を造って神武天皇をお迎えしたとあります。
またこの神社の奥の院となっているのは、妻垣山(241m大分県宇佐市) で「玉依姫の磐座がある」
//// この御神体山は共鑰山(ともがきやま)といい、比咩大神(神武天皇の御母、玉依姫)の御在所(院)である…となっています。
妻垣神社は宇佐八幡宮と同じように朱で塗られた朱殿です。玉依比咩、応神天皇、神功皇后を祀る。
その一角に「龍の駒足形石」があり、八幡大神が龍に乗りこの山に飛び駆けたときの足形が残る石、と説明してあります。
さらに「足一の印岩」があり、神武天皇が玉依比咩を祀ったとき、玉依比咩が川中の岩に姿を現し、証に岩に足一の印をつけておくといわれ、共鑰山に上(騰)がられた。ここから足一騰宮といわれた。妻垣神社は元は足一騰宮であった…////
なんか、いろいろと混じり合っているようですね…
でも、とても清らかで波動の高いお宮でした…
何となくこれまで繋いできたお宮とはひと味も味も風情がありました。
お宮の子猫が5年生のHちゃんにすっかりなついてしまって…
どことなく、異国情緒漂う…やはり海神のお宮でした。ここまで訪れた宇佐〜安心院のルートの中で、いかにこの場所が重要な場所だったかを
ハートで取り戻せてよかったです。(一つ前のブログにあげています)
古代、最も古い宇佐の海人族の遠い日の栄光と輝きが、いままた蘇るようです。
仲間の皆さんも…どうぞいっしょに光の磁場に押しあげてくださいね…
次に続きます!