4の1、海神の娘たち◎豊姫、虚空津姫、淀姫、田心姫、木花之開耶姫、弥冨都比売… |
昨日のブログの引用部分(…http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen)からインスパイアされて。
また…私たちが磁場調整にでかけ、感じられる東表国、豊前の武内宿禰と…いくつかの地域における武内宿禰は別人のよう。
すくなひこたけひごころのみこと…がまた、語りかけてきます…
昨日と今日、主人のおじさんとおばさんから、主人の祖父母の故郷である宇佐の長洲や、日田の豆田町の思いで話を少し聞く事が出来ました。
おばさんが10歳の頃、終戦を迎えたんよ…疎開した場所は父親の郷、国東の都甲(とごう)という場所だった…
今日は、終戦記念日でしたね、子どもたちにも夕飯のときに話してあげました…
宇佐の長洲もそうですが、国東の都甲(とごう)も、古代宇佐のエネルギーに満ちた地だったのですね…
下記は、http://www.e-obs.com/heo/heodata/n518.htmより…
宇佐宮弥勒寺の荘園
〈荘園としての成立〉
都甲荘は 国東半島 の西南部、 都甲川 の流域の細長い谷に開かれ、その谷地形から「 都甲浦 」とも呼ばれた。古代の律令国家の下では、都甲荘一帯は中心部に整然とした 条里遺構 が認められ、国東六郷の一つ 来縄(くなわ)郷 の一部をなしていたと推定される。弘安の 大田文(おおたぶみ) では、70町、弥勒寺領所領注文案では、90町といわれ、荘域は現在の豊後高田市荒尾 築地 松行 新城の地域に比定され、その地域には荘園の収取単位である「 名(みょう)」の遺称地名も残る。「都甲浦」の荘園としての開発は、 源 経俊(つねとし) という人物によってなされたといい、その時期は11世紀までさかのぼる可能性がある。経俊の氏素姓は不明はであるが、 山香郷司 の 大神 貞正(さだまさ) を娘の婿に迎えたため、彼の開発権益は、貞正の子孫に伝えられていった。この子孫が地頭都甲(大神)氏である。
一方、 この開発にともなって、 宇佐宮 の 神宮寺 弥勒寺(みろくじ) への寄進が行われたと推定される。長保元年(999)、弥勒寺では、摂関家と関係の深く、豊前出身の 元命(げんめい) という僧が講師に任命され、のち元命は 石清水八幡宮 の 別当(べっとう)に就任する。これ以後、堂舎が整備され、11世紀の弥勒寺は寺としてその全盛期を迎えていた。都甲荘の寄進もこのような時期になされたと 考えられる。
〈吉弘氏と都甲荘〉
永享7〜8年にかけて、 大友 持直(もちなお) と幕府(実質は 大内氏 大友 親綱(ちかつな) )の対立というかたちで、豊後国内の勢力を二分した 姫岳(ひめだけ)合戦 が起こるが、都甲氏の中には、先の注文のように敗れた持直側に付き所領を没収されるものもあった。このような都甲氏の没落の跡、この地域に勢力を張ったの が、国東田原氏の庶流である 吉弘 綱重(つなしげ) である。(大幅に省略)
吉弘綱重は、永享9年までに都甲谷の奥の六郷山領である 長岩屋(ながいわや) や 屋山(ややま) 加礼川(かれがわ) という地域に領主権を確立し、都甲荘の 松行 に館を設け、都甲荘と都甲谷の奥の六郷山領を一元的に支配するようになった。近世の都甲の称は、
この吉弘氏の都甲谷全体にわたる支配の確立によって谷の奥の六郷山領をも含むようになった。
参考文献 県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館『都甲荘』1〜3
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また…祖父のもうひとつのゆかりの地、宇佐の長洲なのですが、
…今日、ある疑問から、少名日子建猪心命 (すくなひこたけいごころのみこと)を調べていると、これまであまり気にとめてていなかった記事が、急にリアルに感じられて…「 少名日子建猪心命 (すくなひこたけいごころのみこと)とは…第八代孝元天皇 の娘で、兄は大毘古命、 ... 171年10月に九州大分県宇佐市に着任し、247年11月に 崩御した。 ... 卑弥呼の墓は、宇佐市長洲にある高倉神社古墳です。」に、ドキリとし、なぜか、早鐘のように心臓がばくばくし始めました…なぜだろう…
“卑弥呼の墓は宇佐市長洲の浜辺にある高倉神社古墳です。” 現在、前方部のみが残っています。 この墓は、考古学者が調査し、140、150mの前方後円墳と推定されています。
このブログの作者は本を出版しているようなので、取り寄せました。
近いうちに日田と長洲の方へは、行かないとね…とメッセージが入り続けています。
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ということで、…古代倭ー伽耶や亀になじみ深い地の姫神たち、そしてトヨの女神に再びクローズアップです。
昨日の引用から…http://blog.goo.ne.jp/araki-sennenより、
壱岐氏の祖ー中臣の祖とされる壱岐真根子、天手力男命についての記事より…
そして香椎宮の社家系図には、武内宿禰が壱岐の「壱岐真根子臣」の娘の「豊子」と結ばれ、子をなしたとある。これらの伝承にひとつの繋がる線が見えそうな気がする。 武内宿禰を祀る宗像の「織旗神社」の社家も壱岐真根子臣の裔であった。織旗神社の境内社に「根岳神社」があり、壱岐真根子臣の名、根子臣が、阿蘇の「根子岳」を想起させ、傍の牟田尻の装飾古墳「桜京古墳」の存在に肥後の系譜が覗える。 日本書紀神代紀に「宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神。」とあった。のちの時代、道主貴、三女神は水沼君の「物部阿遅古連(もののべのあじこ)」によって宗像に祀られる。 水沼君は阿多海人の系譜、阿蘇の母神「蒲池媛」の後裔を称する。 「蒲池媛」は筑後の「水沼君」の氏神。神功皇后の妹「豊姫」と習合し、天照大神の神勅によって降り立った三女神の「田心姫命」へと繋がる。前述の「比売神の連鎖」である。阿蘇の「蒲池媛」の神霊は宗像に拘わる。 「蒲池媛」も神功皇后の三韓征伐に従い、勲功を立てたという。 阿蘇の伝承では、神功皇后に従った「蒲池媛」は持っていた満珠、干珠の宝珠で潮の満ち引きを操り、勝利を齎したと伝わり、神功皇后の妹の「豊姫」と重なっている。 そして「蒲池媛」の故地、火国の八代では「手長」は「妙見神」である。 八代の妙見縁起によれば、漢土の白木山神が「目深、手長、足早」となり、明州の津より亀蛇に駕して来朝、八代の「妙見神」となったという。 「三体妙見」は天帝の星、北極星を守る海人の三つ星の信仰。八大龍王、雨乞いの龍神とも拘わる。この信仰がのちに八幡神にも習合した。宇佐八幡の原信仰は大元信仰、三体妙見といわれる。…熊襲の流れを引くであろう阿蘇も「ソ」の音を「熊襲」と同じくし、「魚」の字を持つ蔑称に思える。 「隼人」は衛門府に属し、門の警備や儀式に参列する「朝廷の衛士」とされた。が、それは官人が入門の時に、犬の鳴声を発する役。蛮族が天皇に従属する姿を演じさせられたという。 神とされた「御手長」も、「幡」を護る役を演じる蛮夷の兵ではなかったか。 または、政権が武内宿禰旗下の狗奴、「阿蘇神」に頼らざるを得なかったのかもしれない。(以上引用終わり)
まさに…13日のブログにて、任那の語源②一「みまな」とドラヴィダ語についてご紹介しましたよね…そのなかで魚のシンボルといえば…
また同時に、「mi-mana」と分析してmi「御」一mana魚」の語源とすることもできる。加羅または伽耶(「耶」の古訓が[ra]であり、もとはこれもカラと読まれた)の語源も「魚・鯉」の意味だからである。加羅の支配層の言語であるドラヴィダ語にkara「魚」《Dr.Mal》、karai「海魚」《Dr-Ta》、kayal「鯉」《Dr-Ta》、kaya1「魚」《Dr-Mal》、kaye「魚」《Dr-Kol》という語があり、これと対応する。アユダ古代のインドの阿喩陀国(Ayodhya)の象徴が双魚紋であった。この国またはその分国の許黄玉王女が金官加羅の始祖・金首露王の妃となっている。阿喩陀国の東南に昔「阿羅国」と呼ばれた国があって、今はそこをkaya(カルカッタ西北所在)と呼んでいる。
さらに、これと同音のkara駕洛国、加羅・伽耶)の象徴も双魚紋なのである。金首露王陵の正門柱の上段に亙いに見合う六対の双魚紋が描かれている(これと同じ双魚紋が邪馬壼国の所在地として注目されている九州の八代の妙見宮にもある)。また、万魚寺があった摩那[mana]斯山(魚山)は古代の所有格助詞「叱」の変形で、一siは古代日本語でも所有格助詞であった)の傍に駕洛国はあった。そんなことからも、kara(駕洛・加羅)やkaya(伽耶)という国名が魚の語源に由来すると推察できる。同じく上に示したようにドラヴィダ語系の加羅語であったmana「魚」は駕洛国の摩那斯山(=魚山)・万魚寺(=魚寺)の中にも化石化されているし、今の日本語では真魚・真菜と書いて「食べる魚」を意味し、また「まな板(姐)」の中に化石化されている。以上のことから、mi御」偉大・天 Dr-Ta:ミ「御」Jap)一mana(魚→駕洛国の象徴)も駕洛国を盟主国ないしは本国として崇めた名ということになる。
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7月〜8月。小郡、御井、糸島、佐賀の地を繋いで旅していると、豊姫、淀姫という姫の存在が大きくなってくるのに気づきます…
イメージでいうと、豊姫は豊玉姫のような存在でプレアデス女神的。一方、淀姫は、瀬織津姫のような存在で、シリウス女神的…私の中にもこの2女神はいつも存在しています。
また、先々週、訪れた吉富町の古表神社の神相撲にて、神功皇后とともにあらわれた、妹神、虚空津姫(そらつひめ)なる存在…そらつひめは加羅国の姫を意味するのか。そこは辛嶋氏の地でもあります…神功皇后の妹であり、神の言葉をおろす巫女的存在…まるでハイヤーセルフのように描かれています。香春のご祭神も…忍骨命ほか、神功皇后をあらわす、辛国息長足姫、そして豊比売命であるとされています。謎が多く、実在しないとされることの多い、神功皇后という存在、そして豊の国の姫、豊姫との関係。また淀姫なる存在。また…仲哀天皇の子とされる応神天皇(も2人いる)と武内宿禰(も数人いる)との関係をあらためて考えてみます。まるで謎ときですが…
まず、肥前には淀姫神話が多いです。ここで、淀姫について再び知りましょう。
淀姫命(よどひめのみこと)http://yodohimejinja.com/?page_id=43より
本来は「豊姫(とよひめ)」という姫神。
さまざまな伝承・風土記などによると、かの三韓征伐を為した第十四代仲哀天皇のお后である「神宮皇后(おきながたらしひめ)」の妹にあたる存在らしい。
日本の正統的な歴史書と言われる「記紀神話」にも一切名前は出てこない、謎の多い神様。
「肥前旧事」「八幡童蒙記」などを見ると、神宮皇后三韓征伐のくだりに、こんな記述が出てきます。
住吉は、大海の南面をやや久しく御覧て、沙迦羅龍王の旱珠満珠(※後述)と云う二つの玉を金の鉢に入て、只今是を愛し翫(もてあそ)ぶ、彼玉を借て力を不盡して異賊を降伏せはや使を可被遺とそ申されける、けにもいみしかりなん誰をか、御使とはすべきと、
武内申されしかは、皇后の御妹豊姫は如来の相好の如して世に比なき御姿也。假令龍畜の身成共此女人には爭心解さらん豊姫を遣玉へと住吉計ひ申玉ふ。
(中略)
されは豊姫高良磯良を具し玉ひ龍宮へ行玉ふ可に成しかは皇后は御妹豊姫の御手を取組
(中略)
■現代語私訳
住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。
とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。
武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」
たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。
このように、とても美しい姫様だったと言う伝承が残っています。
この後、龍宮城へ赴いて、沙迦羅龍王より潮干珠・潮満玉を借り受けて、戦いに赴くわけです。
このくだりには、住吉の神・高良の神・安曇の神などなどさまざまな神々が絡んでくるのですが…
以上の「淀姫伝説」は、北部九州の広範囲に存在しており、また、淀姫命を祀る神社も数多存在しています。
これは、北部九州一帯が「海人族の支配する地域」であったことに起因します。>松浦地方の族長「磯良」(しら)の項参照
海人族は、読んで字のごとく「海の民」ですから、当然大海原を司る「海神」を祭神として祀っています。
「海神」が支配する大海原には、当然「海神の住まう宮」があるわけです。
それが後の仏教輸入にともなって、「龍宮城」と呼ばれるようになったと思われます。>沙迦羅龍王の項参照
淀姫墓郭 (出典:「松浦市史」 松浦市史編纂委員会)
淀姫神社 http://www.genbu.net/saijin/yorozuhata.htm
よどひめじんじゃ
佐賀県伊万里市大川町大川野1973
御祭神
與止日女命 建御名方命 菅原道真公
合祀 外十五柱 (明治四十二年合祀)
欽明天皇の御代の鎮座であると伝え、
従来、「河上大明神」と称してきた神社で、
明治に淀姫神社と改称した。
祭神・與止日女命は、別名豊姫命といい、神功皇后の妹とも、
豊玉姫命とも考えられている肥前の女神。
佐賀・長崎には、同名の神社が多くあり、
肥前一宮である與止日女神社と同じ系統。
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次に…小倉南区に近い香春神社のご祭神としての豊比売命をあらためて、見てみる…
kamnavi.jp/toyo/kawara.htmより
祭神
辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命
日本三代実録によると、豊比賣命を辛國息長大姫大目命としている。
社前には、第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 *第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ。とあった
由緒
宇佐八幡の祭祀に関わった辛嶋氏の「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は渡来系であり、素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入り、小倉山に北辰社を祀ったと言う。
香春で祀ったとする神は辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命のどれであろうか。
彩銅所に香春神社の祭神の豊比賣命を祀っていた元宮とされる阿蘇隈社の後裔の古宮八幡神社がある。 この地域の古来からの神は豊比賣命であるから、辛嶋氏が祀った神は豊比賣命であったろう。後世、秦氏がわざわざこの香春へ遷座させている所から見ると、豊 比賣命こそ香春の最重要な神であったと思われる。
社頭説明では忍骨命を天孫の忍穗耳之命としているが、竜骨(石灰石)を示している神である。
三代実録には、豊比賣命を辛國息長大姫大目命としているが疑問である。韓国から渡来した金属精錬(息長)の女神で、天目一箇神と同じくか精錬にかかわる巫女神と言えよう。
辛國息長大姫大目命は、息長足姫(神功皇后)を連想させる名である。大目の目には目付、支配する者の意があるようだ。
(引用終わり)
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*『豊前国風土記』で「香春(かわら)の神」が「新羅の国の神」とあることについて、「本来は加耶(羅)の国の神であったろう」…伽耶の国々は新羅に併合されているので、伽耶を指す場合も新羅と表現していたことが考えられるわけです。
次は…blog.goo.ne.jp/araki-sennen/3より引用…
肥前、嬉野。温泉街のど真ん中の「豊玉姫神社」は豊玉姫大神、住吉大神、春日大神を祀る。
この宮では鯰(なまず)が豊玉姫のお遣いとされる。鯰を祀った「なまず社」には白磁の大きな「鯰」が鎮座する。
縁起によると、この豊玉姫神社の鯰は嬉野川を支配し、国に大難あるときには六尺の大鯰として現れ、神託を告げるという。
また鯰は古来より肌の病いにご利益があり、温泉と相まって美肌の神として親しまれているそうだ。
豊玉姫命は海神、大綿津見神の女(むすめ)。玉依姫命の姉である。海神の宮にやってきた山幸彦(火遠理命)と結婚して、鵜葺屋葺不合命(神武天皇の父)をもうける。
この逸話は浦島太郎の話とほとんど同じ。豊玉姫命は龍宮の乙姫。
「鯰」の信仰といえば肥前、川上の肥前国一宮、「與止日女神社(河上神社)」に祀られる與止日女(よどひめ)。ここでも「鯰」は神の使いとされ、嘉瀬川の民は鯰を眷属として食べないという。
與止日女は肥前国風土記に「川上に石神があり、名を世田姫という。海の神、鰐魚が流れに逆らって上りきてこの神のところに到るに、海の小魚もしたがって来る。」とある世田姫(よたひめ)と呼ばれる海神。
與止日女はまた「豊姫」とも呼ばれ、神功皇后の妹ともされる。豊姫は前述の「豊玉姫」に通じる。
「河上神社文書」に「神功皇后が戦さに備え男装する際、龍女の厳島大明神と宗像大明神が顕われ、それに続いて皇后の妹、河上神社の豊姫が顕われ、皇后の祈祷を助けた。」と記される。
與止日女は記紀には見えず、肥前風土記のみに登場する地神。肥前には與止日女神を祀る神社は多く、有明海沿岸に多く分布する。中でもこの嘉瀬川流域で6社に祀られる。
佐嘉の北部には背振山塊が大きな根張りを広げ、「山内」と呼ばれる広大な山間の地を形造っている。この地でも古湯の淀姫神社や、三瀬、杠の野波神社など多くの神社で與止日女神が祀られている。
山深い上無津呂の里。氏神として「淀姫神社」が鎮座する。瀟洒な神殿の脇には真新しい鯰の石像が見られ、今でもこの信仰が生きていることを如実に感じさせる。
そして與止日女は背振山地を越え、筑前、那珂川の守り神となる。與止日女は旧筑紫郡岩戸村の那珂川畔で「伏見神社」の祭神、「淀姫命」として祀られる。
由緒によると神功皇后が那珂川の守り神として、佐賀の河上大明神と京都伏見の御香宮を合祀、「伏見大明神」としてここに祀ったという。
ここでも「鯰」は神の使いとされ、宮前の淵の鯰は平時、姿を見せぬが天下の変事に現れるという。大阪夏の陣や島原の乱、日清戦争、日露戦争などに現れたという。
この那珂川の鯰は神功皇后の三韓征伐の折、群をなして船を抱き、水先案内として戦勝に導いたという。
筑前、糸島の「桜井神社」に神功皇后の首に鯰がまきつく絵馬が掲げられている。
この桜井神社は古く「與止姫宮」であり、やはり「川上の與止日女」が祀られていた。
が、この社の祭神は神直日神、大直日神、八十枉津日神の三神。これは穢れを祓う祓戸(はらいど)の神。そしてこの神は「瀬織津姫神」であるという。ここでは「川上の與止日女」は「瀬織津姫神」にも習合している。
「瀬織津姫」は穢れ祓いの神であると同時に、川神、水神、龍神、瀧神、桜木神、幡織神などの性格をも併せ持つ。
瀬織津姫は「宇治川」の水神、滝神で「淀川」を司る神でもある。淀川には與止日女の名が冠されている。
豊玉姫、與止日女、世田姫、豊姫、瀬織津姫、、、鯰に纏わる女神たち。そしてその神話や逸話は歴史の中で複雑に絡み合って分離し、習合する。為政者によってその座を下ろされた神を、民は名を変えて祀るのであろうか。
與止日女は本来、中央政権に帰順した川上の荒ぶる石神。日本武尊に猛の名を献上した川上梟帥の一族とも。記紀には神功皇后の妹として「虚空津姫」の存在がある。が、名前があるだけで何の記載もない。殊に虚空津。
そして次の「鯰」は阿蘇の鯰。
阿蘇の開拓神、健磐龍命の「蹴破り神話」に大鯰の逸話が見られる。
昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったという。健磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考え、満身の力で湖の壁を蹴り壊した。湖の水は流れ出したが、大鯰が横たわり水の流れをせき止める。健磐龍命はこの大鯰を退治して湖の水を流す。
この大鯰の霊は、阿蘇神社の元宮といわれる北宮こと「国造神社」の「鯰宮」に祀られる。そして国造神社の社家の人々は、やはり鯰を眷属として食べないという。
肥後では他にも菊池、旭志村姫井の「乙姫神社」、阿蘇大明神が祀られる熊本、御坊山の「小島阿蘇神社」や八代、豊原の「遥拝神社」など、阿蘇に纏わる神社で鯰が祀られている。
阿蘇神話では健磐龍命が阿蘇に下向し、土着して阿蘇を開拓、支配してゆく様が述べられている。そこには、いかにも神話的な伝説に彩られた神々の姿が見られる。
この大鯰の逸話は中央から派遣されてきた氏族に、鯰をトーテムとする先住氏族が征服されるという図式を示しているといわれる。阿蘇の古い民も鯰をトーテムとする。
「国造神社」は健磐龍命の子、初代阿蘇国造の「速瓶玉命」と妃神の「雨宮媛命」を祀る。が、国造神社は阿蘇神社の元宮であり、本来は阿蘇の神々の母と呼ばれる地祇神「蒲池媛」を祀るといわれる。
「蒲池媛」は八代海、宇城の地より阿蘇に入り、速瓶玉命に嫁いだとされる。小国の出自である速瓶玉命の妃、雨宮媛とは別人であろう。
4の2、海神の娘たち◎豊姫、虚空津姫、淀姫、田心姫、木花之開耶姫、弥冨都比売… へ続づきます!///