引用 旧伊勢国→委奴国(いどこく)→伊都国 |
糸島−魏志倭人伝でいうところの伊都国を理解するためには、古代に存在した旧伊勢国を理解することが重要です。
糸島には現在の志摩や、伊勢の元になっている遺跡や神社が多々あります。
ニニギノミコト、猿田彦という存在について深く感じてみましょう…
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http://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/200908230000より参照
国史で猿田彦といわれるユダヤ・ガド族は、BC10世紀以降のウラルトゥ(ウガヤ王朝)時代からの歴史を【高天原の由来】として、ホツマ文字(神代文字)で書かれた【秀真伝】など、五七調の叙事詩として語り伝えながらシルクロードを東遷して中国→朝鮮→対馬へと至りました。
そこで【記紀】では降臨したのがニニギノミコトでコノハナサクヤヒメと一緒になってという話が出てきますが、その天孫降臨、実際にはユダヤ系のガド族、日本名では猿田彦が最初にやってきました。彼らが天降って王宮を作った場所は吉武高木遺跡です。
他にも、イエス・キリストを生んだゼブルン族、日本で言えば宗像神社の三人の姫=宗像神社の御三神に相当する人々、さらには女王卑弥呼と大物主命などの系統であるイッサカル族これらが三位一体となり連合して竺紫の地に渡来しました。ここには糸島半島がありますがガド族らは、ここに上陸しています。この吉竹高木でつくった国を伊勢国といいます。
この伊勢国がやがて近畿地方に移るため、区別してこの地を【旧伊勢国】としていますがこの時、最初の【伊勢国】を建てたのです。伊勢の君・猿田彦は鉄鐸・銅鐸文化の祭祀者であり、秦末の【焚書坑儒】事件で多くの王族や儒者たちを殺されたガド族がイスラエル北朝からユダヤ南朝系に変身して急遽、鉄鐸・銅鐸文化を携えて日本列島へ亡命したのです。
こうして九州博多の地に新しい青銅器文化の先進国が建設されました。
次に、その初代猿田彦命に続いて、二代目の猿田彦は、イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、 八咫鏡・神鏡・鉄剣・勾玉など【三種神器】を奉納しました。それが九州社会を発展させるきっかけになりました。
この頃、九州の地には以前から縄文人や稲をもってきた苗族、あるいはシュメール人のグループといった先住民が居住していました。猿田彦二世は、その人々を支配化においてユダヤ人たちのヘレニズム文化(ギリシアとペルシャの混合文化)によって鉄鐸・銅鐸を生産する青銅器文化を九州全体に繰り広げていきました。
【鶴族】は物部氏のこと、【亀族】とは九州豊国(金官加羅)の中臣氏のことです。
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「失われた大和のユダヤ王国」より参照
「秦王国」とは、中国の始皇帝の秦が紀元前二〇六年に滅びたのち、その子孫たちが海を渡って日本へやって来て築いた国である。
司馬遷の『史記」には、秦の始皇帝は中国に昔からいた王族の子孫であるかのように書かれており、歴史偽造が行われたのだが、始皇帝は実は古代ユダヤ民族のシメオン族の血を汲んでいた。バクトリア知事であったディオドトスというのがその正体である。
彼は碧眼で、鷲鼻を持った男だった。秦の都であった西安付近から兵馬桶が出土するが、その中からは漢民族が全く出てこない。兵馬涌の兵隊は一つ一つが見事なリアリズムで貫かれていて、一つの型から作られたというのではなく、一体一体が違うものである。日本にも何回か来ているので、見られた方もおられると思うが、これは漢民族といったものでは全くない。西方から来たペルシャ人の顔や姿をしているもので、単なる中国という狭い枠組みの中での解釈は成り立たない。その西域人の流れを汲んだ人々が日本に渡来して築いたのが秦王国であり、彼らはシメオン族という古代ユダヤの一部族であった。その族長が国史でいう大国主命で、彼が九州に上陸してつくったのが委奴国というクニである。江戸時代の一七八四年(天明四年)、福岡市志賀島の農民が畑から掘り出したということで有名な金印がある。これは、当時中国を治めていた後漢(二五年-二二〇年)の光武帝から「漢の倭の奴の国王」印として授けられたものと一般には言われているが、博物館に展示してある実物をよく見てみると倭はにんべんのない委になっている。だから正しくは漢の委奴国王の印であると思われる。
この委奴国の前に北九州の地にいたのが、ガド族の猿田彦命を中心としたグループの伊勢国であった。その伊勢国を攻め滅ぼして筑紫に樹立したのが委奴国である。
扶余・百済系のイワレヒコ(神武天皇・扶余王仇台・高句麗王子蜀須)が遼東半島にいた公孫氏(古代ユダヤ系イッサカル族)と協力して、二一〇年 ー 二二二年大国主命の委奴国を滅ぼして二一四年に建てた国が、『魏志」倭人伝に出てくる伊都国である。一方、公孫氏は宮崎県西都原を中心にして安羅国を建てた。公孫氏はイッサカル族系統の人々で、その族長は大物主命とか事代主命と呼ばれているが、イッサカル族というのは、ドイツのヒトラーの母方と同じ種族で、力ール・マルクスも同じ流れの人である。
そして、日本にやって来たイッサカル族公孫氏から出てきたのが、卑弥呼である。さらに遡ると、九州の地において最初に国を建てたのが縄文人(港川人)で、次に三千五百ダユ年前にはシュメール人および苗族らが稲を持ってやって来た。
その後、股文化圏から渡来した のがエブス人(中臣氏)で、大分県宇佐を中心とした東表国をうち建てた。また、そこで行われたタタラ製鉄の担い手になったのがヒッタイト人(蘇我氏)である。それ以外にも、ユダヤ人たちがタルシシ船に乗ってやってきた。そして東表国が建てられてから、さらに年月が経って出来たのが伊勢国というわけである。このように、九州にしろ出雲にしろ、幾度にもわたってさまざまな部族や民族が入れ替わり立ち代わり支配した…(引用終わり)