古代彦王の秘密 |
なぜなら、昨日は、ペトログラフの秘密にフォーカスしたからです。時間の関係上も、それでよかったと思います。この彦島の秘密を解くためにいくつかのキーワードがあります。そのひとつが…
◎竹の子島(たけのこじま)です。
竹の子島と呼ばれる場所は近い場所に2カ所あります。
山口県下関市 彦島竹ノ子島町(ひこしまたけのこじまちょう)
山口県宇部市 竹の子島(たけのこじま)
山口県長門市 竹の子鼻(たけのこばな)竹の子岩(たけのこいわ)
一般的に彦島と言うと、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)、彦島の至近にある竹ノ子島(たけのこじま、彦島と道路橋で接続)巌流島(正式名称は船島)の3島を含むそうです。
一昨日、本来、最後に行こうとしていたのは竹の子島でした。金刀比羅神社のある場所で…六連島も見えるようです。そして気になるエピソードとしては、この竹の子島には、嶋屋与七という人のお墓もあるようです。嶋屋といえば、辰岩を掘り起こそうとして死んだ小倉の商人の屋号が嶋屋で、与八という人のお墓も辰岩の脇に残されているとの事。皆さん、何か聞き覚えている人、おられますか?
またある方のブログより…www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou71/kai07105.html
竹の子島は、竹に太竹の意の「竺」を、子(シ)には「紫」を当てると、「竺紫(チクシ)」になる。また、シを多芸志・伊蘇志と同じ地名語尾とみて、「竺 志」の地だったか。だから、竺紫とは竹の子島のことで、彦島と併せて筑紫日向と表現されたとみることもできる。だが、彦島の迫町の迫は、“筑紫國謂白日 別”の白(ハク)が転じたものとする私見からは、ツクシは彦島であって竹の子島ではない。
更に、志を地名語尾とすれば、ツクシは「月志」と書ける。月は月読命の月であり、壱岐島を意味する。記には、イザナキが“詔月讀命、汝命者、所知夜之食 國矣、事依也”とある。オス国は押国・忍日国であり、顕宗紀三年二月条には月神がおれを奉れといったので、“奉以歌荒巣田。壹伎縣主先祖押見宿禰侍祠”と ある。オスは壱岐の主の姓なのだ。かってイバル(檍原)と呼ばれた壱岐勢力の侵駐村が後世、「ツク・シ(月の村)」に変った可能性も考えられる。
一方、タケ(竹・建)との地名は、多紀理媛のタキにつながる。多紀は多気とも書け、峯が当てられたとの妄想も可能。となると、ニニギの降臨の“天降坐于 竺紫日向之高千穂之久士布流多氣”との記の表現は、「土筆の形をしたヒコ島の、背高い茅の穂のように突き出して串日国に触れる(接触している)タケの地」 にいなさい、の意味となろう。
さらに、高と向とを同称同地とみるともっと面白い発想が湧く。それが高天原である。
高をコと読む例は、天津日高日子番能邇邇芸命(記)の名にみられる。本来この神名は天津日(対馬の)・高日子(高の地の王子)である。だが、文庫本(記)は日高日子(ヒコヒコ)と振るから、高はコとも読むのだろう。
高を彦島に当て、天をあま(海士)、原をバル(里・郷)と読む。それは前出の彦島の海士郷町そのままなのである。別稿に譲るが、高の地は阿遅〜高日子や高比売の親多紀理毘売の支配地とみる。そこは国譲りを要求する天照大神や高御産巣日の地でもある。
抜粋以上//
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いろいろな角度から見ると、ますます面白いですね…
それはさておき、先日、宇佐の葛原古墳にて、稚武彦と書かれた祠がありました…こちらは宇佐辛島勝の墓とされている場所であります。
それなのに、稚武彦命(わかたけひこのみこと)とはなぜだろう…調べてみてもわからないので、ずっとそのままにしていました。
稚武彦命(わかたけひこのみこと)とは…
記・紀にみえる王。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)との間に生まれた。「古事記」では若建(わかたけるの)王。
そして、門司の磁場調整の前に、やはりリフレインしていた、タケやタテという響き…また必ず、龍とセットで竹の林…
◎たけおこころのみこと◎たけぬなかわのみこと◎たてはやじんじゃ…
また…ヤマトタケルは若き日の武内宿禰?という個人の方のブログにドッキリ…www.geocities.jp/shoki_otoku/がヒントになりました…
一般的に、 武内宿禰とは、初期天皇,景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に二百数十年仕えたという。蘇我・葛城・巨勢・平郡氏の祖とされる。
それで…日子王とは誰か…で軽く検索しましたら…
1.2011年11月24日 ... 仲哀と神功の子の品陀和気には天皇は付かない。文末の品陀天皇に当たるのは誰か。
他稿で検討してきたように、若建王と息長の飯野真黒比賣の子の須賣伊呂大中日子王 である。須賣伊呂とは、統べる男の意で天皇(スメラーミコト)である。
www.mctv.ne.jp/~kawai/nikki2011_12/20111024.htmと出てきました…
この飯野真黒比売命が気になります。黒姫や影姫につながっている気がしまして…
調べてみましたが、手がかりは数少なく…いひののまぐろひめのみこと
謎の多い、たけのうちすくねは…景行天皇、成務天皇、仲哀、応神のすべてに繫がっている
そこで景行天皇の系譜をみてみました。
景行天皇の系譜http://inu.imagines.jp/yamato/text01.htmlより
現代語訳
大帯日子押知別(おおたらしひこおしろわけ)天皇は、大和国城上郡纒向(まきむく)の日知宮
(ひしろのみや)にいらっしゃって、天下をお治めになった。
この天皇が、吉備臣の先祖、若武吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘の、播磨稲霊(印南)大郎女
(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶ってなされた御子様は、櫛角別王(くしつぬわけのみこ)。次に大碓命(おおうすのみこと)。次に小碓(をうす)命、別名を大和男具那(やまとをぐな)命。次に大和根子(やまとねこ)命。次に神櫛(かむくし)王〔五人〕。
また、八坂入日子(やさかのいりひこ)命の娘、八坂入姫命を娶ってなされた御子様は、若帯日子(わかたらしひこ)命。次に五百木入日子(いほきのいりひこ)命。次に押別(おしわけ)命。次に五百木入姫命。
また、妾妻の子、豊戸別(とよとわけ)王。次に瓊代郎女(ぬのしろのいらつめ)。
また、(別の)妾妻の子、瓊城郎女(ぬなきのいらつめ)。次に籠依媛(かごよりひめ)命。次に若木入日子(わかぎのいりひこ)王。次に吉備兄日子(きびのえひこ)王。次に高木媛(たかぎひめ)命。次に弟媛(おとひめ)命。
また、日向国の御佩媛(みはかしびめ)を娶ってなされた御子様は、豊国別(とよとわけ)王。
また、稲霊大郎女の年下の兄弟、稲霊若郎女(いなびのわかいらつめ)を娶ってなされた御子様は、真若王。次に日子人大兄(ひこひとのおおえ)王。
また、倭建命の曾孫(ひひこ)、皇兄弟大中日子(すめみまなかつひこ)王の娘、かぐろ媛を娶ってなされた御子様は、大兄(おほえ)王。
この大帯日子天皇の御子様たちは、(ここに)記録したのは二十一人、記録しなかったのは五十九人、あわせて八十人である。その八十人の中で、若帯日子命と倭建
やまとたける
命、五百木入日子命の三人は、日継ぎの皇子(太子)となられ、他の七十七人は、すべて国郡の国造
(くにのみやつこ)、稲置(いなぎ)、縣主(あがたぬし)などに(大帯日子天皇が)分かち遣わしになった。
と いう訳で、若帯日子命は、(天皇位に即位して)天下をお治めになった。小碓命は、東西の人を害する神、また従わない人々を服従せしめになった。次に、櫛角 別王は〔茨田の下の連の祖先である〕。次に、大碓命は〔守君、大田君、島田君の祖先である〕。次に、神櫛王は〔紀伊国の酒部のアビコ氏、宇陀の酒部の祖先 である〕。次に、豊国別ノ王は〔日向国の国造の祖先である〕。
◎大帯日子押知別天皇
『隋書』東夷伝倭国条に、「開皇二十年、倭王あり、姓を阿毎(あめ)、字を多理思比孤(たりしひこ)、阿輩鷄彌(あはきみ)
と 号す。使を遣はして闕に詣る。」(岩波文庫『魏志倭人伝』67頁)とある。西暦600年、推古8年に遣唐使が来たということである。女帝推古天皇をヒコと 呼んだとは考えにくいから、倭王の一般的な呼称が天帶日子天皇であると言っているのであろう。オオタラシヒコもその類の可能性がある。オシロワケは、オシ シロワケが縮まったもの。オシは「押」で威力あること。シロは「知ろ」「領ろ」で統治支配。ワケは五世紀ごろに皇族男子の呼称として用いられた語。地名の 下に付くと、景行天皇が定めた氏姓制度の姓。
※大帶日子淤斯呂和氣天皇の治世
この天皇は、父垂仁天皇の死後、すぐには即位しなかった節がある。垂仁の死後にある亡霊の如き事跡記事、大后比婆須比賣(ひばすひめ)の 墓の所在が明記されていること(ふつう妃の墓は記されない)などを考え合わせると、どうも比婆須比賣が主権者であった時代が、垂仁と景行の間にあるらしい。タヂマモリが垂仁の命で採りに行った橘を、亡くなった垂仁の墓と比婆須比賣に半分ずつ奉り、景行には一個も渡さないのもそのため。比婆須比賣は後妻な ので、恐らく景行天皇は父垂仁天皇の死のときには、まだ幼かったのであろう。天皇の妻を表すに「大后」と書く場合、説話あるいは強い権力を持った女性であ ることを指摘する近論もある。ちなみに比婆須比賣の祖父・日子坐王(ひこいますのみこ)の血統は、かの神功皇后を含め、天皇妃を多く輩出している。
若建吉備津日子
七代孝霊天皇の子。吉備の下つ道臣、笠臣の祖。若日子建吉備津日子命、稚武彦命とも。異母兄の比古伊佐狭理毘古命(ひこいさせりびこのみこと)とともに、吉備地方を平定した。伊佐狭理毘古を大吉備津日子ともいうのは、百済渡来の鬼王子・宇羅を討伐してその名(吉備冠者)を奪ったためか(室町期謡曲『吉備津宮』吉備津神社縁起)。
以上抜粋終わり//
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彦島から戻るとき、ずっとひこいます…と響いていました。
下記は、武内宿禰=景行=成務=仲哀だったとしたら…koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-3/3-1-1.pdfより…
仲哀天皇は、「穴戸の豊浦の宮」に住んでいました。「豊浦」の「豊」とは「伊豫二名嶋」のもう一つの名前であった「豊」です。「伊豫二名嶋」は「伊豫」と 呼ばれまた「豊」とも呼ばれていました。故に「二つの名前」を持つ島と謂われていました。「伊豫」とも呼ばれ「豊」とも呼ばれた島は彦島老町でした。仲哀 天皇はここに宮を構えていました。故にその宮の名前は「豊」の「浦(港)」の宮といわれていました。彦島小戸の彦島老町に存在しました。
古代天皇家の始祖神武は遙か昔中国「呉」の國から渡来して九州全域を支配下に治めていた「姫氏王朝」 の分国と戦い勝利して古代国家を樹立しました。
これは非常に重要なアンダーラインです。本当にその通りだからです。伊予の河野氏を祖に持つ、河野氏の末裔が彦島八幡宮を創建したことも大きなヒント!
竹◎さんが先日、“ここ北九州は伊予の国…”というメッセージを受信しています。これですっきりしました。
伊予であり、豊である国…
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それでそれで…昨日、彦島から戻ってきて、黒崎に行く流れになり、書店で1冊の本を手に入れました、それに謎をとくヒントがあるに違いない!
その本とは…松重柳江著の「卑弥呼王朝の全貌」です。どんどん読み進めています。
後ほど、その中から…ピンと来た文章を抜粋したいと思います…
日本の古代史は、日本の資料だけをみていると、全く到達できない、ことがわかります。
それから…彦の島の謎を解くには、やはり姫の島の謎を解くより他にはない!と思いました。
彦島全体がご神体なら、姫島も然りですね…
やはり慌てずにじっくり丁寧に繋げたいと思います。
来週の月曜日あたりに…またチームワークで動ければ、と思います。
その前に茶話会が実現できたらいいですね…