参考引用 ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿 |
ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
『日本書紀』は数々の暗号に託して、日本武尊=若き日の武内宿禰、及び、その背後にある「幻の皇統系譜」を懸命に叫んでいる。それは果して史実か幻か?
答を求めて、各地に残る伝承や考古史料を尋ね歩けば、次々と驚きの結果が。
かの有名な稲荷山古墳出土の鉄剣系譜も書紀の叫びに見事に呼応していた。
★日本武(尊)は明治前半以前はヤマトタケ(のみこと)と 読まれていたし、そう読むべきであるが、本HPでは無用な混乱を避けるため一部を除き[ヤマトタケル]で通す。おそらく本HPを読み進めるにつれて、どち らの読みが正しいか、おのずと了解されるであろう。なお、本HPは拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』(けやき出版)の要約版というべきものであ る。(崎元正教)
注1:書名や下記表題でタケルのルを平仮名にしているのは本来不要という思いを込めたもの。
注2:武内宿禰を全くご存知ない方はまずはこの頁をご覧下さい。
1.『日本書紀』の不思議なメッセージ
2.『書紀』が隠した「幻の皇統系譜」
3.伝承史料による「幻の皇統系譜」の証明
4.考古史料による「幻の皇統系譜」の証明
5.ヤマトタケるに秘められた古代史
【補注】
1.『日本書紀』の不思議なメッセージ
景行紀(『書紀』が描く景行天皇の時代)には、短命と長寿、英雄と脇役という対照的な2人のヤマトの「武」が日本列島の東西に旅だつ様子が描かれている。
1人は、熊襲征伐や東夷征討に国内を東奔西走し、ヤマトへの帰還を目前にして齢30で夭折した古代の英雄、ヤマトタケル。『書紀』では日本「武」と記される。
もう1人は、景行25年、北陸及び東方諸国を巡察し、その後、成務(せいむ)朝に大臣となり、神功(じんぐう)皇后とともに九州、新羅遠征、その後、応神朝を経て仁徳朝まで生き抜いたとされる、偉大なる脇役、ヤマトの「武」、タケウチノスクネである。『書紀』では「武」内宿禰と記される。
さてこの2人、不思議なことに、図ったように交互に記されているのである(表)。
(1)なぜ、2人は交互に記されるのか?
(2)なぜ、それまでなんら活躍らしい活躍もしていない武内宿禰が、突然、国の棟梁に任命されるのか(51年条)。
(3)なぜ、その記事に続いて、10年も前に没したはずの日本武尊の草薙剣(くさなぎのつるぎ)や妃・子息が突然紹介されるのか。
これは一体どうしたことか? ヤマト「武」と武内宿禰とは表裏一体?
さらに、念を押すかの如く、武内宿禰は、「武内」宿禰(すくね)ではなく、「武」内宿禰であると、3ヶ所の歌謡で暴露している。例えば、仁徳紀には武内宿禰に対して、「たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 国の長人(ながひと)…」とする歌がある。これにより、内朝臣(うちのあそ=内宿禰)が一種の尊称であることが分かるので、武内宿禰の固有部分は「武(たけ)」一字と了解できる。それは彼の弟が甘美(うまし)内宿禰として見えていることからも確認できる。すなわち武内宿禰は畿外の人からすればヤマトの「武」であったと『書紀』は告げているのである。
その上、2人の誕生年が同じであることを匂わす巧妙な暗号がある。
ヤマトタケルの誕生年は景行紀27年に16歳とあるので景行12年(昔流の数え年換算)と読み取れる。
一方、武内宿禰は景行3年条に、父武雄心命(たけおごころのみこと)が9年間紀国(きのくに)に留まって生ませた子とあり、単純に足し合わせると景行12年となる。
『書紀』は懸命に何かを訴えている!
さらに『書紀』を慎重に読み解くと、ヤマトタケル=武内宿禰=成務天皇=仲哀(ちゅうあい)天皇を暗示する記事があちこちに埋め込まれているのに気付く。
まず、成務紀には成務天皇が武内宿禰と同日生れとある。その一方で、通常の天皇には必ず記される妻や子、さらには即位後の都が示されていない。治世中の業 績だけをさらりと記したあと、ヤマトタケルの子の仲哀を皇太子に任命し、崩じたとしている。その上、ワカタラシヒコという御名の一部であるタラシヒコとい うのは単に天皇を意味する称号であることが、『隋書』東夷伝倭国条から知られている。
すなわちワカタラシヒコは妻子や都がなく、さらに御名においてさえも単にお若い天皇という意味であってその実体が示されていないのである。
以上は成務の架空性、及び、成務=武内宿禰を暗示している。
その跡を 継ぐ仲哀は、30歳で夭折したヤマトタケルと入れ替るかのように、31歳で皇太子になったと仲哀紀冒頭にある。さらにそこには、通常、天皇には記されない 身長が、わざわざ10尺(『書紀』が書かれていた頃の唐尺であれば、約3メートル、周尺としても、約2メートル)の異常な大男として記されているが、景行 紀をひもとけば、ヤマトタケルも1丈(=10尺)とされていることに気付く。その上、「タラシナカツヒコ」という名前自体が、成務同様「中継ぎの天皇」と 無実体である。
これらは仲哀=ヤマトタケルを暗示している。(ただし、仲哀はこの暗示以外に、ある実在の人物の影も反映されているように思える。詳細は下記の【補注】(2)に示す)
このように『書紀』編者は景行紀から仁徳紀にかけて、注意深く舞台を切り替えながら、時には成務や仲哀という影武者をも 登場させ、その一方で、ヤマトタケル=武内宿禰=成務=仲哀の暗号をあちこちに発しているのである。すなわち、これら四人の実体は、二人で一人のヤマトタ ケこと武内宿禰ただ一人に収斂されていく。
2.『書紀』が隠した「幻の皇統系譜」
ヤマトタケルの実体と思われる武内宿禰の系譜を『書紀』から描くとどうなるか。孝元紀(こうげん き )と景行紀にヒントがある。
[孝元紀七年条] ヒントA
七年春二月二日、(孝元天皇は)ウツシコメを立てて皇后とされた。后(きさき)は二男一女を生まれた。第一を大彦命(おおひこのみこと)という。第二をワカヤマトネコヒコオオヒヒ天皇(開化)という。第三を倭迹迹姫(やまとととひめ)という。妃(きさき)のイカガシコメは彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んだ。(中略)彦太忍信は武内宿禰の祖父である。 (注 ここに登場するイカガシコメは孝元崩御後、開化天皇の皇后となり崇神を生んだと開化紀六年条にある)
[景行紀三年条] ヒントB
三年春二月一日、(景行天皇は)紀伊国(きのくに)に行幸(ぎょうこう)されて、諸々の神々をお祭りしようとされたが、占(うらな)ってみると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男(やぬしおしお)武雄心命を遣(つか)わして祭らせた。武雄心は阿備(あび)の柏原にいて、神々を祭った。そこに九年住まれた。紀直(きのあたい)の先祖莵道彦(うぢひこ)の娘影姫(かげひめ)を娶(めと)って、武内宿禰を生ませた。
以上の両ヒントより武内宿禰は孝元の曾孫と分かる(図)。
ここで、『書紀』表向きの皇統系譜を左側に示したが、左右を見比べて、景行紀に武内 宿禰を生ませたとある武雄心が景行より二世代年長(ならば景行朝には米寿に近いはず)で父となり得たという不自然に気が付く。その上、成務紀には武内宿禰 自身も成務と同日生まれとあって、同じ二世代の乖離がある。これは一体どうしたことか。
よくよく『書紀』に目を凝らすと、武内宿禰と行動を共にした息長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)についても、同じ二世代の不自然なズレがあることに気が付く。次の記事である。
[神功皇后摂政前紀条] ヒントC
息長足姫(神功皇后)は、ワカヤマトネコヒコオオヒヒ天皇(開化)の曾孫(【補注】(3))、息長宿禰(おきながのすくね)王の女(むすめ)なり。母をカツラギノタカヌカヒメともうす。
(注 ここで息長(おきなが)という氏族名の『書紀』原文は気長であるが本稿では現在一般的な息長で表記している)
ここに神功皇后は孝元天皇の子である開化天皇の曾孫(ひまご)とあるが、これを図にしてみると、なんと夫とされる仲哀天皇の二世代上になっているではないか。
一世代の平均を二五年としても、妻は夫より少なくとも五〇歳ほど年長のはずである。しからば、応神は父仲哀がたとえ一五歳の時の子としてもそのとき母神功皇后は六五歳になっていよう。とっくに閉経しているはずであり、出産はありえない。
今、表向きの皇統系譜の右と左に、誰でも異常と分かる二世代のズレが顔をのぞかせた。これらをヒントに『書紀』が本来伝えようとした皇統系譜を復元してみるとどうなるか。
『書紀』の不思議なメッセージから得られたヤマトタケル=武内宿禰=成務=仲哀と、系譜のヒントA~Cとを足し合わせると武内宿禰の系譜は次のごとくになる。
ここに『書紀』が紙背に隠した「幻の皇統系譜」があぶり絵のごとく姿を現した。これを従来の記紀系譜と比べると、両者は大きく違っている。
記紀系譜では万世一系的に結ばれている父子の系譜は「幻の皇統系譜」では、垂仁と景行間で断絶している。が、両者は同祖母イカガシコメを介して従兄弟であ るので血はつながっている。また孝元からみれば、景行は崇神と従兄弟であり、やはり血はつながっている。もちろんここで、景行とは2人で1人のヤマトタケ の父武雄心であることは言うまでもない。
果してこれは、史実か幻か? それこそが史実であると結論づけるためには、以下の課題を克服せねばならない。
①景行天皇=武雄心命の証明(課題A)
②ヤマトタケル=武内宿禰の証明(課題B)
③崇神(すじん)から応神までは4世代、すなわち、従来の記紀系譜は2世代加上されていることの証明(課題C)。
3.伝承史料による「幻の皇統系譜」の証明
『書紀』を片手に、各地に眠る神社伝承や『風土記』を尋ね歩くと、それこそが史実であると主張する証拠が次々と見つかる。
①景行天皇=武雄心命の証明(課題A)
『書紀』は景行天皇が熊襲征伐のために九州に向かったとし、大分県竹田市 周辺での戦闘を描いている。景行天皇=武雄心命であるならば、この景行伝承の色濃い場所に、その実名(武雄心)のカケラぐらいは残っているに違いない(景 行という漢風の呼び名は『書紀』撰上時にはなかったが、書写段階で取り入れられたもの。それは奈良時代後半で、今ではすっかり漢風の呼び名が定着し、本来 の実名は忘れ去られているようである。ここで調査対象はあくまで実名の名残でなければならない)。
そこで竹田市周辺の調査におもむいた。すると推定通りに、竹田市の周辺に、計五社の健男社が見つかった(図)。祭神はいずれも健男霜凝日子命(たけおしもこりひこのみこと)あるいは健男霜凝日子大神であるが、これは自然神としてあった農業の神、霜凝神(しもこりのかみ) (霜をとかす神の意)に、後からやってきた勇猛な武雄心(タケオコリとも読め語感とイメージが重なり健男霜凝となったのであろう)の勇姿が民衆に強く残っ た結果、祭られたものに違いない。図からも分かるように竹田市周辺部には多くの景行天皇を祭る神社(○)があるが、それらは健男社と相補うように分布して いることも興味深い。
一方、『書紀』は黙して語らないが、風土記や神社伝承を尋ねると九州北西部にも景行天皇の足跡が濃く残っている。『肥前国風土記』には佐賀県の武雄市を 取り囲むように22ヶ所に景行天皇の足跡がある。この武雄市の中心には神秘的な形状をした御船山があり、その中腹に武雄神社が建っており、武雄心命が主祭 神として、武内宿禰と共に祭られている。すなわちここにも実名の名残がしっかりと存在しているのだ。
また、武雄神社から北西約六kmのところに武内町という名称が残っていて、そこには武内神社が建っている。
さらに、全国的にも珍しい、武内宿禰の母、山下影姫が武雄神社から北北東約三kmの朝日町黒尾に黒尾明神として祭られている(いずれも右図に場所を示 す。武雄神社の由緒記には同神社がある御船山内に武内宿禰の子、平群木兎宿禰の下宮もあるとあったが、こちらの方はついに見つけることができなかった)。
これほど多くの伝承を残す武雄市周辺の記述を『書紀』はなぜ避けたのか。ずばり推理すれば、そうしなければ、景行紀で苦心さんたん隠し通している景行天 皇=武雄心命が暴かれてしまうからである。ここを詳しく描けば、そう、その名もずばりの武雄市を避けて通るというわけにはいかないからである。
『書紀』のこの沈黙も景行天皇=武雄心命の傍証の一つとしてよいだろう。
実は『古事記』の方では、武雄心は消されており、記紀ともに景行天皇の実体を隠すのに腐心しているのである。
②ヤマトタケル=武内宿禰の証明(課題B)
ヤマトタケル=武内宿禰であるからには、まずはヤマトタケル早世の架 空性を証明せねばならない。それは『書紀』自身がヤマトタケルの白鳥陵には遺骸がなかったと正直に告白していることからもうかがえるのであるが、それを証 するかのように、ヤマトタケル東征後の活躍が2社の神社に伝承されている。
1社は静岡県御殿場市の二岡(にのおか)神社(図中a)で、「日本武尊が東夷征討の後帰還し、国司に命じて……」と、明確にヤマトタケルの無事生還をしるしている。他の1社は、石川県河北郡津幡町加賀爪(かがつめ)にある白鳥神社(図中b)で「日本武尊、東夷征討の後この国に到る時に、国人、尊の軍に馳せ加わりて東夷征討の偉業を賀す、加賀の名義ここに始まりて、……」とある。
後者の日本武尊は、棟梁になって以降のヤマトタケル、すなわち武内宿禰とみなしうる傍証が存する。それは、この地を通過する経路の前後に武内宿禰の足跡伝承(⑦、⑧)があること、及びこの地を取り囲むように武内宿禰の子の若子宿禰(わくごのすくね)の子や孫ら3名が次々に国造(くにのみやつこ)に任命されているのである。
注:上図はあくまでも武内宿禰となって以降のヤマトタケ(内宿禰)の足跡である。若き日のヤマトタケの東国巡視の足跡伝承は別紙に示した。
以上課題Bの間接的な証拠以外に、より直接的な伝承もある。四国に目を向けると、記紀がヤマトタケルの子と伝える武卵王(たけかいごのみこ)の後裔、讃岐の綾君(あやのきみ)が香川県丸亀市の神野神社に、誉田別命(応神)、武内宿禰大臣、神功皇后他を祭っている。なんと、ヤマトタケルの子孫が、ヤマトタケルを祭らずに、武内宿禰の一家(「幻の皇統系譜」を参照されたし)を祭っているのである。
九州では、ヤマトタケルの御子と伝わる仲哀天皇を祭る福岡県香椎宮(かしいぐう)の宮司は、ヤマトタケルの後裔ではなく、武内宿禰の後裔が任じられ、連綿と香椎宮を奉祀している。『香椎宮御由緒』には、武内宿禰の後裔紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)の子孫が大宮司に任じられ都より赴任したとあり、その通りに、近くには武内屋敷が現存しており、子孫が現在も住されている。
また、武内宿禰の伝承を伝える『因幡国風土記』逸文や『帝王編年記』(鎌倉時代末の歴史書)にも「昔、武内宿禰は東夷を平定……」とあり、武内宿禰=ヤマトタケルの傍証が残っているのである。
4.考古史料による「幻の皇統系譜」の証明
「幻の皇統系譜」は考古史料により一層明確に検証できる。
埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた大彦からヲワケの臣(おみ)(雄略天皇の臣下)まで8世代の系譜は、記紀系譜では大彦から雄略まで10世代と合わないが、「幻の皇統系譜」ではどんぴしゃり8世代である(図)。ここに、③記紀系譜は2世代加上の証明(課題C)が見事に考古史料によって実証されていると言えよう。
また、この鉄剣銘文には雄略天皇の臣下として仕えたヲワケの臣が、「世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(おさ= 首長)となり、奉事し来りて今に至る」とある。この「世々」の意味は深く重い。それは、雄略天皇の数世代前から関東地方はすでにヤマトに従属していたこと が示されているからである。すなわち、雄略朝よりわずか4世代前のヤマトタケル(=武内宿禰)の東国征討伝承が架空ではないことをこの2文字が証明してい るのである。
それは、同じ雄略天皇とされる倭王武(ぶ)が478年に、宋に提出した上表文に、「昔から、先祖代々自ら甲冑をまとって、山や川をふみこえ、ふみわたり、身をやすめるいとまもなく戦って参りました……」(『宋書』「倭国(わこく)伝」)として、示されていることからも確認できる。ヤマトタケル東国征討伝承は夢物語ではないのである。
さらに、大和に眠る巨大古墳は、どの考古学者も現景行陵(渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳)が現垂仁陵(宝来山(ほうらいさん)古墳)より古いと編年しており、考古学者は首をひねっているが、「幻の皇統系譜」であれば、なんら矛盾はない。
ここで改めて「幻の皇統系譜」を細かく検討してみれば、景行が垂仁に先立つことは容易に推定できる(下図)。
なぜなら、母方(イカガシコメ)からすれば確かに2人は同世代(孫)ではあるが、父方(孝元天皇)からすれば開化と崇神をはさんでひまごにあたる垂仁に比 べ、彦太忍信のみをはさんで孫となる景行(武雄心)であれば、垂仁に先立って陵墓が存在して何の不思議はないのである。
ここに再び、記紀の表向 き(中国向け?)の皇統系譜は見事に打ち消され、『書紀』メッセージの解読からなる「幻の皇統系譜」が史実に一歩近づく。従来の記紀系譜にいつまでも固執 していれば、この編年の謎は永遠に解くことはできず、ひいては記紀の諸伝を否定してしまうことにつながるのである。
蛇足ながら、現景行陵(渋 谷向山古墳)のすぐ北側に景行天皇=武雄心を証明するかのように延喜式内社の水口神社(『大和国神社神名帳』によれば祭神は大水口宿禰)が祭られているこ とを付け加えておきたい。実は氏族系譜伝承によれば武雄心の母は大水口宿禰の妹大水口姫の娘稲津姫である(詳細は拙著148~150頁)。古代は妻問い婚 で、母方が子を育てたとされており、従って武雄心は幼少の頃、大水口宿禰一族の下で育った可能性が高い。それは、滋賀県水口町にも延喜式内社の水口神社が あって大水口宿禰が祭られているが本殿に隣接して境内社としてはひときわ立派な武雄神社(祭神は春日神に入れ替っているが、本来は武雄心に違いない)が鎮 座していることからもうかがえる。このように、今なお、あちこちに景行天皇=武雄心の傍証が残っているのである。
注:ここでご注意いただきた いのは、「幻の皇統系譜」では一見垂仁天皇の系統が断絶しているように見えることである。が、それは必ずしも正しくない。というのは垂仁天皇の後裔(七世 孫振姫)が二十六代継体天皇の母であるとの伝承があり、それが史実であれば継体天皇は現皇室と確実につながっているので、垂仁系統はそこで復活したことに なるからだ。垂仁天皇と継体天皇とのこのつながりの確認・検証は私にとって、今後の重要な検討課題の一つである。
(中略)
5.ヤマトタケるに秘められた古代史
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