大和の前史【秦王国】 参考資料 |
その後、シメオン族を中心とする古代ユダヤ人たちは秦王国をますます発展させていき次第に日本は九州にある【倭国】と、奈良にある【秦王国】という形になっていきました。
当初、秦王国の王家は秦始皇帝であるシメオン族がなっていましたが、そのうち女子ばかり誕生し、男子が生まれない状況になったため王家は衰えていき、少し前の5世紀倭の五王時代、高句麗から大船団で出発し、朝鮮→玄界灘→瀬戸内海経由で奈良へ渡来したユダヤ系レビ族およびダン族のグループの王族・東漢氏(やまとのあやし)がその実力をかわれて秦王国の王位を継承しました。
レビ族系の東漢氏(秦氏)が王となった秦王国は、織物業の普及や大型【前方後円墳】の築造などの巨木土木工事によって大いに発展し、東日流の荒吐五王国(東北王朝)とも友好関係を結び、ヘレニズム文化の移植=律令制および国造制を施行する国家として急成長しました。こうして東アジア諸国から秦王国は【イ妥国タイコク】と呼ばれるようになりました。
それは九州の【倭国】に対して、【より大きな国】という意味です。
538年、仏教も公伝されて、秦王国の王は【天子】と呼ばれるようになっていきます。
この頃、秦王国の分国が、中国地方に【文身国いれずみこく(後の播磨国・吉備王国)】、関東地方に【扶桑国(蚕の餌のクニ)】として建てられました。(分国の【王宮】は鹿島神宮)この扶桑国の王の末裔が、壬申の乱の後、藤原不比等の系譜につながっていくのです。
【秦王国】は、国史では【物部氏】とされます。三輪山の山麓・纏向から唐古・鍵、あるいは二上山。葛城山まで彼らの古い言い伝えや記録が残っています。
他所から大和を目指して竜田道を越えた始まりは三輪山の東北の唐古・鍵の村でした。
唐古・鍵の村には遠い地からわざわざやってきて、交易したり労力を提供したりしても入手したくなるような魅力がありました。水稲栽培の籾とその技術、一個づつ絵柄の異なる銅鐸の受注製作、動物や虫や船の絵を描いた土器などほかにも先進文化がもたらされました。
やがて唐古・鍵の衰退に代わって発達するのが纒向(纒向遺跡・大型前方後円墳の登場)で、纒向市場が大盛況で順風満帆となり、成功のシンボルの巨大古墳が造営される最中、イワレヒコ(神武)が、宇陀産辰砂の搬出先を強引に纒向からツバ市に振り向けさせました。
宇陀で採取した辰砂を大国主命采配の纒向市場からイワレヒコが横槍を入れてツバ市に出荷させたのです。これが大国主命の纒向にとって致命傷となり没落していきます。
そんな経過の後になると、飛鳥でヤマト政権が働きだして、金メッキの仏像を作る必要から宇陀で水銀の生産作業を担当するのです。水銀生産は辰砂を飛鳥に搬入して加工したとみられ、その遺物の一部とみられるのが【酒船石】です。飛鳥で急速に発達した技術によって金・銀・動・メノウ・水晶・琥珀・ガラスなど、処理する官営の総合工房が稼動するようになると水銀生産は宇陀で担当するようになりました。
それが水分作業で、後に水分神社という形に祭り上げれるのは、水銀中毒で水銀が嫌われて生産が廃止になる8世紀後半になります。