1/3,スピリットのディセンションについて/おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】 |
そこに描かれていた、おもいかねのかみ…にスイッチが入りました。
それで調べてわかったこと、感じたことをブログにあげました。昨日の朝一番最初のあたりのブログにです。
一昨日、藤原さんとのハート瞑想の中で、阿智、おもいろかね…が浮かび、そのままにしていました。前半は私のハイヤーセルフにたずね、後半は藤原さんのハイヤーセルフにたずねました。
たしか、あなたの正体はだれですか?って藤原さんが私のハートに聞いたと思います。スーパーハイヤーセルフなる言葉も。前半のキーワードでした。いま、昨日、メモして書いた紙を見ると、最初から、3つ目か4つ目に出ています。
今日、パラパラと本をめくっていたら、おもひかねのかみ…高木の神の子である、というのを見て、ドキリとしました。
てっきりオモヒヒロカネーオリハルコンのことだと思っていました…それで調べてみましたら…
おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】これはメッセージだな…と思って。
「おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】」の前の言葉
おもいがけ‐ない【思い掛け無い】
おもい‐かしずく【思ひ傅く】
おもい‐かぬ【思ひ兼ぬ】
「おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】」の後の言葉
おもい‐かまう【思ひ構ふ】
おもい‐がわ【思い川】
おもい‐かわす【思ひ交はす】
また…wilpekiaより…
オモイカネ(おもひかね)は、日本神話に登場する神。知恵を司る神である。
概要
『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記する。
高皇産霊尊の子とされるが、常世の 神とする記述もある。名前の「おもひ」は「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」の意である。思想や 思考、知恵を神格化したものと考えられている。「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在である。
最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後の天孫降臨で瓊々杵尊に随伴した。
『先代旧事本紀』では、思兼神は信濃国に降り立って信之阿智祝の祖になり、また、秩父国造の祖ともなったとしている。子に天表春命・天下春命がおり、栲幡千千姫命は思兼神の妹に当たる。
知恵の神、学問・受験の神として信仰されており、秩父神社(埼玉県秩父市)、阿智神社(長野県下伊那郡阿智村)などに祀られている。また天気に関する唯一の神社、気象神社(東京都杉並区)にも祀られている。 また、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神は天児屋命と同一神であるとしている。
また、この神は、家を建てる際の建前と関係のある手斧初の儀式の際に祭られる神ともされている(手置帆負命、彦狭知命の二神と、現地の産土神もしくは思兼神を祭る)。
→天児屋命って、たしか…藤原氏の祖ですよね…
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思兼神を祀る主な神社
秩父神社(埼玉県秩父市)
阿智神社(長野県下伊那郡阿智村)
安布知神社(長野県下伊那郡阿智村)
戸隠神社中社(長野県長野市)
思金神社(神奈川県横浜市)
地主神社(京都市東山区)※ただし主祭神ではなく相殿神
気象神社(高円寺氷川神社境内社)(東京都杉並区)
高濱神社(島根県出雲市)合祀
天安河原宮(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
阿智神社(あちじんじゃ)は、長野県下伊那郡阿智村にある神社である。
概要
延喜式内社で、旧社格は郷社。前宮と奥宮があり、奥宮には磐座がある。
祭神
天八意思兼命
天表春命
相殿
誉田別命
建御名方命
大山咋命
また…
東漢(やまとのあや)氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。
『古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中に「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と、また『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。
阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点としたことから東漢氏となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏となった。両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。
つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。
また、東漢氏の技能と百済の先進技術との関係であるが、「書紀」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽爾」と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という名称そのものが元来から百済にあった可能性も考えられる。
くわえて東漢氏系といわれる「七姓漢人」という氏族集団があり、その姓に「高」「段」があることから、「高」は「漢高安茂」に由来し、「漢氏出身の 高安茂」と読み、「高」が氏で「安茂」が名である可能性も考えられる。また、「段陽爾」の氏は「段氏」であろうから、「七姓漢人」は、上記の百済から派遣 された「漢高安茂」、「段陽爾」に由来する一族と考えても差し支えはないと思われる。
注:「七姓漢人」とは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓からなる東漢氏系の氏族。
参考:門脇禎二(京都橘大学教授)は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。
漢王朝との関係
東漢氏の「漢」が「後漢帝国」に由来するかであるが、伝説は伝説でしかない。系譜などから東漢氏は奈良時代になって漢王朝との関係を創作し、権威づけを行っていったことがわかる。『続紀』には東漢氏の渡来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れて朝鮮に移住したことや、氏族の多くが才能に優れて朝鮮で重宝されていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたという伝承が記載されている。
待遇
阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。
「掬」の代に東漢直姓を賜った。
技術者として
技術的には東漢氏はそれ以前から先進技術をもっていた秦氏の新羅系精銅・製鉄技術より新しい百済系の製鉄技術をもたらしたと考えられている。
文人として
東漢氏の一族には東文氏があり、文人としての官人をも輩出している。7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を多く輩出するなど、計数に明るい一族で高度な数的管理能力を持っていたと考えられる。
武人として
東漢氏は蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の「東漢駒」が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出しつづけた。そして平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。
東漢氏と坂上氏
東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上直姓初代坂上直志努の兄で東漢直山木の曾孫である東漢直駒が崇峻天皇の妃である河上姫と不倫関係となり、蘇我馬子の指図もあって天皇を暗殺したが、その結果、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志努の系統である分家坂上氏にもたらされたという。
ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上氏初代とされる志努の子で坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖にあたる坂上直駒子に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由は蘇我馬子の命令を忠実に果たした坂上駒子を蘇我馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。
そのため、坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の東漢直爾波伎が継ぎ、東漢直角古、東漢直久爾、東漢直福因と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行し、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上したと日本書紀に記されている。
東漢氏から出た諸氏:坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、文氏、調氏、文部氏、谷氏、民氏、佐太氏など。
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なんか、学問の神様がついてくれているようで、嬉しい♪
私は…書く事が好き…だから文人の過去生を持っているに違いない…(笑)
いつかの夢で、藤原のクモなる存在が巻物を書いた…という言葉も心に残っている
例えば、いつかの時代に真実を書けなかった…とか、そうした魂の経験もあるかもしれない…
いま、取り付かれたように書いているのも、スピリットのディセンションだろうか
たしかに少し前の存在とは入れ替わっている…
いまは、少し食べ物の味が濃い、オリエンタルなものが急に好きになった…など
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それで、昨日も書いたけど、ここ数日、先週、あのゲーゲー吐いた時くらいから、スピリットが日本人じゃなくなってる…
オリエントへの記憶が猛烈に蘇ってる…
そして…また思いがけず、ここから繫がることがありました。
おもいかね…阿智のおみを始祖とする渡来集団。文人を多く排出した人々に繫がる…
東文氏という人々。それでまた…新しく始まった…
おとといの朝の瞑想で思い浮かんだ言葉…
ハ シ、ハッシー、このせ、阿智、おもいいろかね、昨日の夢と関係ある…(忘れた)磐座が見える、髪の毛を結んで帽子に入れた4〜5歳の私、運動場。徳 力。(そうだ徳力小学校横の幼稚園の第1回目の卒園生だった…)そこにある古墳?そうだ徳力小学校の中にある古墳(玉塚古墳)このまえ、サロンにはじめて 来られた50代の女性が教えてくれた…
そのことを伝えに来てくれた…産まれたのも徳力、幼稚園も徳力…その後、湯川、戸畑と引っ越していった…そして今、またここに居る。
スーパーハイヤーセルフ…脱解と妻に関わり深い
クリム、クムル、クメル…コメル?
サナートクメラ?やまとのだいこくさん、洞窟の入り口でこちらを見ている…
あこぜ、あぜこ、カップラーメンのような円錐形のものが3つ
神社?暗い拝殿、クメル、クムラン、雰囲気は鞍馬寺の拝殿に似ている。
ボルネオ、筏(いかだ)、海のはて、息子…
153、4528、8725、かま、こまでん、たんたね(以上)
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赤い字以外はすべて調べて…今、探求していることに繫がるものだったり、そこから湧き上がるものがあったり…
ひとつの無駄もなく…活用できました。
それで今日も、他のことを調べていて、未調査のキーワードへと繋がりました。
そして…昨日、出会ったことにふたたびつながりました。クリム…という響き。
「青の都」と呼ばれる。文明の交差点ともいわれている…サマルカンド 康国のことを調べていたら…(主人の名前が康だし、サマルカンドの響きが気になる)
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【隋書】の阿毎氏というのは、このチャム人のことですが、元来インド洋の海民でもありこの人々がインドシナ、インドネシア、ボルネオなどに基地を持ちました。後にボルネオのバンジャルマシンに倭寇の基地があったのですが、ここは耶馬堤国で天の王朝の基地でありました。…という記述です。
そしてまた9。9つの国王。昨日は高良玉垂命のくたいおうじー九人の王子という意味(九躰皇子)についてクローズアップしました。ずっと9が続きます。
そして…今日、9の阿毎(あま)を調べていて、くあま…で検索すると、くあま(九海人)が出て…道成寺…といえば、藤原宮子とかかわり深い場所です。
(ボルネオも出てきたし。)
クハマ王子
クハマ王子は、くわま・クリマなどと呼ばれていた。
小松原宿所を控えた要所で、御幸建仁元年以降の由緒ある王子社であったという。
道成寺の伝説に取り入れられている。
驚いたことに、昔はこの辺まで海であったという。
ここで海女さんが海から観音様を拾い上げ、その観音様が道成寺にお祭りされている。
この王子から、JRきのくに線の線路が見える。
王子前の道は、川辺町や日高町とのバイパスのような道路であるため、交通量が多い。
道成寺へは、このクハマ王子社への道をいったん戻り、曲がらずにまっすぐ行く。…というブログ。
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昨日の引用です。それで、この引用の後にも、昨日、熊野古道のことを調べていました。(熊野というと、今一番行きたいところ。)
道成寺も…なんか気になって。なぜなら、道成みちなり…というのは私の兄の名前だからです。いま、気がついた。
これもあれええって感じで。そしてこのお寺のことは以前にも書いたし、知っていたけど、あらためて見てみると、
道成寺
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。
義淵僧正とは、玄ぼうの師である
(先週、太宰府の観世音寺に行き、御墓参りしましたが)
そして…この紀道成とは…紀道神社のご祭神にもなっている人…
調べてみました。
ご祭神
天児屋根命 市杵島姫命 紀道成 菅原道真 大山祇神 水波能女神
金山彦神 食稲魂命 大直日神 武内宿禰 日本武命 子守神
竜王神 加具土神 三筒男命 真妻神 須佐男命 不詳二座
鎮座地 和歌山県日高郡川辺町三百瀬1188
社伝に、もと紀道明神 と号し、道成寺建立の奉行・紀道成を祀るとあり、古くは日高川河岸の字紀道芝に鎮座していたが、元和六年(1620)とその後の日高川洪水で流失。紀道芝 から現在地の宮の平に遷座(年代不明)され、神社の傍らに神宮寺・養専寺を建立したが、間もなく火災にかかり延宝五年(1676)に再建されたが、養専寺 は廃退したとおぼしく、享保十年(1725)の「社方書上」江川組には、その記載はない。
拝殿横に掲げてある由緒書によると、
〜第四十二代文武天皇(西暦七〇三年頃)の御宇に日高郡矢田荘に道成寺創立の際天皇の命を受けて造営の為来郡した紀大臣藤原道成卿(紀道成)が船津の里神 境内にあるクスノキの大木を道成寺材料にしようとそれを伐り、筏《いかだ》にして運ぼうとしたなにしろ大木なので日高川の増水を待って流下した時、岩にあ たり増水にのまれて薨御された里人達は近くに神社を建立して、その霊を祀った。文武天皇は紀道大明神の神号を贈り、生前の功績に報いられた。
その後元和六年(西暦一六二〇年)日高川大洪水の際、流失し、御坊市名屋の松の木に御神体が漂着したまへるをもらい受け再建したが再び大洪水に流失し同 じ場所に漂着。今度は高地の現在の宮の平に造営したので洪水の心配はなくなったが、その後野火にあい焼失す。延宝五年(西暦一六七七年)九月社屋を再建し その後改築修理しながら現在に至る道成卿の乗った筏が当たった岩をお膝岩といわれ、船や筏で通る人びとは恐れ奉拝したといわれる。道成卿が着用したと伝え られる装束が道成寺に納置されていること、紀道神社の神徳日々に顕われ国家擁護の神として崇めらる。
又道成寺一大和尚盛海寄贈と伝うる「紀道大明神縁起」があることなどにより紀道神社は道成寺の奥の院とも諸人言い伝へる〜
とある。
それと、心に響いたのは…
● 樟《くすのき》をきらう神様…だということ
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これもいくつかのキーワードがあった…いかだ、くすのき。紀ー藤原 いかだは昨日の瞑想の時にでた言葉。くすのき…
以前、ホメオパシーの波動測定にて…くすのきー樟脳の香り…というのがでた。霊的恐怖とも。
それで最近のブログにも書いたばかりでした。観世音寺でも楠の木ばかりが気になった…そうブログにも書いたっけ。
そうこうしていたら、気分が悪くなって、身体が重くなって前へ進めなかった。(2日前、月曜日のこと…)です。
くはま王子を調べているときに、あまり情報もなくて…
でもあるかたのブログに行き着きました…(http://teika.sblo.jp/)
藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』を現代語訳してみます
建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸の記録「国宝 熊野御幸記」…これにちょっと反応しました。
この藤原定家という人が気になりました。
ずっと勝浦ー紀州、藤ー紀、姫(キ)、フェニキアのキ…を調べていましたもので。
そうか、藤原ー紀…と思いながら。藤原定家について調べましたが、ピンとこなくて。は〜っていきなり疲れてしまって。
それでなにもかも忘れて…他のことを調べまくって、書きまくっていました…
ここまでが今日の寝がけまでの流れ…です。そして今日も寝るどころではなくなり…
おもいかね…から、東文人…ひがしって、あずまのこと…でスイッチが入った。
それで東文人で検索して、代表的な人は誰かな…と思って調べてみました。そうすると…
じゃーん。なんか、私の周囲の方の東さん数名を思い出しました。
東 常緑
(1405?-1484?)
郡上東氏八代。六代・東下野守益之の子。母は藤原氏。通称は六郎。官位は従五位下。官職は左近将監、下野守。通称「東野州」。号は素伝。
常縁の母については大内義弘の娘という伝えもあるが、常縁の異母弟・正宗龍統が著した『故左金吾兼野州太守平公墳記』に基づくと、母は「藤氏」出身の娘であることがわかる。
益之妻子
【1】初妣(源氏)氏数(下総守)・安東氏世(遠江守)
【2】中妣(藤氏)男:宗祐(僧)・南叟龍翔(僧)・常縁(下野守)・素徳
女:素順(東林寺三世)・宗雲(東林寺二世)・壽休(早世)・宗林(野田氏光妻)・妙訓(早世)・永昕(早世)
【3】継室(【2】の妹)正宗龍統(建仁寺住持)・僧童真超(早世)
応永12(1405)年1月15日、東益之の子として生まれ、一族の野田氏の家督を継いでいたと伝わる。異母弟の正宗龍統は正長元(1428)年生まれなので、 親子ほどの年の差がある。
文安5(1448)年2月23日、常縁は藤原氏保のために『定家仮名遣』を写して奥書きを添えて与えた。これが歴史文書中の常縁の初見となる。「氏保」がいかなる人物かはわからないが、美濃鷲見氏の鷲見氏保か? または、宝徳2(1450)年3月頃に、「或人の御方」から届けられた歴代勅撰和歌集選者の影絵・和歌を常縁とともに見ている「氏泰」と同一人物かも。文安3(1446)年4月21日の畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会には、常縁の兄と思われる「藤原氏世」が見え、「藤原氏保=氏泰」は彼の子なのかもしれない。室町時代末期の奉公衆に見える「安東泰職」が氏世の子孫であるとされており、「泰」字が通字として用いられていたのだろう。
文安6(1449)年正月、鎌倉公方・足利持氏の遺児(永寿王丸)が京都の土岐邸から関東へ下されるにあたり、招月庵が歌を詠んだ。このときに関東へ下された永寿王こそ、幕府と対立して関東を暴れまわり、東常縁とも戦うこととなる古河公方・足利成氏である。
つづく。
2/3,スピリットのディセンションについて/おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】 へ、つづく。