閃きワード タンタネ、クメル、こまでん |
◎タンタネ…韓国語で、それは簡単…という意味らしい(ほんとう?)
◎クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアの元となった国である。
歴史 wilpedekiaより
これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。
802年頃、ジャヤーヴァルマン2世(英語版)王がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クレン丘陵で即位した。これがクメール王朝の始まりである。王都はハリハララヤ(英語版)。
889年、ヤショヴァルマン1世がヤシュドハラプラ(英語版)に遷都。
928年から944年の期間、ジャヤーヴァルマン4世(英語版)の時代に一時コ・ケーに遷都していた。
950年頃、スーリヤヴァルマン1世(英語版)王がラヴォー王国(英語版)を占領した。1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国がラヴォー王国に援軍を送り、ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとクメール王朝と何度も争ったが、マレー半島のナコーンシータンマラートのクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退した。1023年にもクメール軍はハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。
1113年、スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国や、東隣の李朝と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及んだ。彼は寺院建築に熱心で、アンコール・ワット(アンコール遺跡)、トマノン、バンテアイ・サムレ、ピマーイ遺跡などのヒンドゥー教寺院を建築した。
1177年、チャンパ王国の大軍が王都ヤシュドハラプラを破壊した。1181年にはジャヤーヴァルマン7世がチャンパ王国に徹底抗戦して首都を奪還し、王として即位。1190年にはチャンパ王国を降伏させた。12世紀から13世紀にかけて、クメール王朝はヴィジャヤ王朝(英語版)ともしばしば戦争を行った。一時はヴィジャヤ王朝を占領したこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ人兵士の浮彫が残されていることが知られている。12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部、ラオス、及びベトナムのそれぞれの一部をも領有していた。ジャヤヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立した。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となった。
ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。1283年にクビライのモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教がインドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァーマン3世(英語版)が8世を殺害し、王位に就いた。
1350年にアユタヤ王朝が近隣のタイで建国された。1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グム(英語版)を支援し、ラーンサーン王国が建国された。1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服された。
14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
もうひとつ…
http://okami.e-soap-finish.com/?eid=548081
太古、フェニキア人が海の貿易で栄え、
冨と同時に権力を持ったが、
日本にたどりつく前に、
現在のベトナムのメコン川流域にいた
『クメール人』たちを奴隷にした。
その『クメール人』たちが漁をしながら
居ついたのが『久留米』
だそうです。
クメール人は頭をそる風習を持っていた。
筑後川には、カッパ伝説があります。
西遊記の河童の沙悟浄(さごじょう)も
クメール人だそうです。
おもしろい話です。
http://enjoy.pial.jp/~kokigi/kodaisi/joukosi-nagare.htmもうひとつ…
1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
この種族は、いまのクメール族(カンボジア人) や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれ るものの主力を構成していたものとみられる。
この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上、引用終わり
へええ…繫がってる…
忘れてた!
最後にこまでん…ひらがなで探してもない、漢字で高麗伝か!
http://mayonokuni.web.fc2.com/kiso02.htmより
邪馬台国はどこに(基礎資料編2)
高句麗はどこへいったの。
本来、邪馬台国が倭の中にあり、倭の国が日本の領土内にあるのなら高句麗の地理など関係がない。
ところが楽浪郡はどこにあり、帯方郡はどこだ。じゃあ公孫氏は・・・・これの場所を確定しない事にはひとつも特定できないことになる。
最終的には三韓(馬韓、弁韓、辰韓)、三国(百済、新羅、高句麗)の特定までしないことにはすっきりしない事になる。その中で、比較的簡単なものが高句麗だろう。
まずは簡単なものからやっていくのが簡単だ。
旧来、古朝鮮の都王倹城を、高句麗時代の平壌城に、つまり北朝鮮の首府平壌に置いている。
左の地図は社団法人高句麗研究会から借用しました。(すいません。)
基本的に現代の大半の認識どおりだと思う。
そこで山形明郷氏の「卑弥呼は公孫氏」から引用させてもらう。
元史巻五九史第十一地理に次の記載がある
「東寧路(とうねいろ)、もと高句麗の平壌城、またいわく長安城。
漢が朝鮮を亡ぼしたときに、楽浪、玄兔郡を置く。これ楽浪の地なり。
晋の義熙の後、その王高璉(こうれん)はじめて平壌城に居す。
唐は高麗を征し、平壌を抜き、その国を東に徒(うつす)。鴨緑水の
東南千余里にあるは平壌の旧にあらざるなり。」
この書によって元の当時、新しい平壌の存在が明らかで、
旧平壌が東寧路にあったことが解る。では、この東寧路はどこか?
随書高句麗伝には「高句麗は平壌城を都とし又の名を長安城という。
山に従って屈曲し南にバイ水を臨む。」とあり、
そのあとに、「高麗王は東晋以降平壌城におり、即ち楽浪郡王倹城也。」
とある。また周書の高麗伝には「王は別に宅をその側に為し、
常には平壌城にはおらず。その外に国内城および漢城あり、
また別都なり・・・」
つまり、左の図の国内城のそばに平壌城があったと推察できる。
唐の時代高句麗が669年(唐の總章(そうしょう)元年)に滅びる。
舊唐書巻六十七列伝に、唐と高句麗は鴨緑水で戦い敗走する高句麗軍を
追って二百里、平壌城に攻め込み高句麗は滅びる。
図で見れば判るが鴨緑水で戦って今の平壌まで逃げるのは少し遠いのではないか。現在の地名の集安が長安であり、そのあたりに本当の平壌城があったと考えれるのではないか。そして、唐はその平壌城に安東都護府を置く。
又、後漢書の東沃沮伝の注釈に平壌城の西方に蓋馬山(げまさん)、つまり高句麗の蓋馬大山があると言う。
これは現在摩天嶺山があり、千山山脈になっている。
さて、高句麗の位置ですが、平壌の場所が確定した事で今回は終わろう。
あとは逆に百済,新羅から確定するべきだと思う。
なぜなら高句麗は時代によって大きくなっていったからである。
ただし、広開土王の碑のあたりに平壌があったことをよく認識していただきたい。なぜならそこへ倭の軍隊が進出していたのだから。
ちょっと話が脱線するが唐が高句麗を破ったあとのことだが、高句麗研究会の記事を引用しよう
唐が打ち破った高句麗は今の渤海だ - 崔致遠
1) 三国史記 巻46、列伝、崔致遠伝 唐 大師侍中から送った手紙の内容の一部
「総章元年(668)英公徐勣の命により高句麗をを打ち破り、安東都督府を設置し、
儀鳳3年(678)にその農民達を河南・朧右に移した。しかし高句麗の残党が軍勢を集めて
北方の太白山の麓を根拠地とし、国名を渤海とした。
2) 東文選 巻47、崔致遠が唐の官吏に送った手紙の内容の一部
「昔、唐の高宗が高句麗を滅ぼしたが、その高句麗は今、渤海になっている。」
(以上)
この高句麗の残党が後に渤海となり、聖武天皇に親戚付き合いをしよう言ったのだから、
日本の天皇家はこの先祖と同一となる。
もう少し引用する
渤海人達は最初、国名を振と呼び、後に渤海と替えた。靺鞨という言葉は書いたことがない。
建国後29年の727年(武王・大武芸9年)、渤海が日本に国交を結ぶために使節を送りつつ、
渤海は「高句麗の昔の領土を回復し、夫餘から伝えられて来た風俗を修めている
(復高麗之舊居 有夫餘之遺俗)」 (続日本紀 神亀5年1月17日条)とあり、
高句麗を継承したことを明らかにしている。一方、渤海の使臣についての事実を記録した日本では、
「渤海は昔の高句麗である(渤海郡者 舊 高麗國也)」 (神亀4年9月29日条)は、事実を明白に認識しており、渤海と高句麗をあたかも同じ国のように混用している記録が非常に多い。
(以上引用終わり)