参考資料「鶴見山古墳」あらたなる葛子の墓か |
下記は、http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_05080604.htmより引用//
福 岡県八女市教委は(前方後円墳)付近から、武装した姿の「石人」1体がほぼ完全な形で出土したと発表した。同古墳は、古墳 時代の「磐井(いわい)の乱」(527年)を起こした北部九州の豪族「筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井」の息子、「葛子(くずこ)」の墓である可 能性が指摘されている。武装石人は主に地域の首長墓に置かれたことから、市教委は「葛子の墓の可能性がさらに高まった」としている。
石人は石を削った人の像で、古墳に装飾品として置かれた。出土した石人は、高さ1メートル58、幅78センチ。軟質の凝灰岩を削ってつくられており、冑(かぶと)や短甲などの武具がかたどられている。
古墳の前方から約4メートル離れた周溝から横たわった状態で出土。
磐井の墓とされる約2キロ西の「岩戸山古墳」(八女市)などで出土した石人に比べて背丈が低く、顔の表面と両腕の一部が削られていた。市教委は、反対勢力などが倒して傷つけたと見ている。
市教委によると、石人はこれまで九州で150体以上が出土。うち何体が武装石人か不明だが、八女市を含む同県筑後地方では4体目という。
磐井の乱は古代史上よく知られた大和朝廷に対する反乱。日本書紀によると、新羅(しらぎ)と近かった磐井が、朝廷による朝鮮半島への派兵を妨害し、征討軍に討たれた。葛子は死罪を免れ、筑紫君を引き継ぐことを許されたとされる。
佐田茂・佐賀大文化教育学部教授(考古学)の話「名前が記された遺物が出ない限り、葛子の墓と断定できないが、武装石人はその可能性を高める史料。磐井直系の古墳であるのは間違いなく、乱の後も一族が地域で勢力を保っていたことが証明された」
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~倭王…磐井の墳墓の可能性があるとされている墓~
◎6世紀初頭の磐井は筑後の八女市に近い、岩戸山古墳の近傍に都していたことは、よく知られている。
◎倭王・磐井の墳墓とされている岩戸山古墳だけでなく、三潴近辺の他の古墳も倭王の墳墓という可能性ー同地にある古墳(御塚、権現塚)も九州王朝天子の古墳か…5世紀後半から6世紀前半にかけてのものとされ、筑紫の君磐井の墓、岩戸山古墳の円筒埴輪との類似性からも同一勢力の古墳と見て問題無い。
◎更に、大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長123㍍以上)・権現塚(円墳、全長150㍍以上)の両古墳よりも大規模 な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。
◎宮地嶽神社古墳 一般には宗像氏の墓とされているようだが、神社側は、被葬者については、
「決して宗像徳善ではない。現在でもここでは磐井の末裔を祭祀している」
との事です。
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