グループソウルの光 7/10(?) |
豊前東海岸「日出ずる国」の天子の都「京都」、古代史の「京都」は豊前の「京都」
1.京都
前項で、仮説として、次の「仮説38-1」を立てました。
仮説38-1
794年以前の、古代史上の「京都」とは、景行天皇が、治世12年に「京」と名付けた、福岡県京都郡の豊前の「京都」である。
さて、問題は、この「仮説38-1」の豊前の「京都」と、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利(聖徳太子)の「京都」の都が、同じ場所かどうかという問題です。
もし違えば、上の仮説は取り下げなければなりません。
何故かといえば、古代史上の「京都」が、何箇所もあるはずはないからです。
逆に、同じ場所であるとしたら、「仮説38-1」が補強されたことになります。
それでは、その問題について、考察して見ましょう。
2.阿毎多利思北孤(天垂法皇)、利歌彌多弗利(聖徳太子)の都
聖徳太子(利歌彌多弗利)の時代とは、聖徳太子は推古天皇の摂政ですから、日本書紀によると592年から629年を中心とする時代です。
ところが、「隋書倭国伝」には、次のように記載されています。
資料1 隋書倭国伝
開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思北孤。阿輩鶏弥と号す。使を遣わして闕に詣る。
…王の妻は鶏弥と号す。後宮に女六、七百人有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す。
つまり、日本書紀では、推古天皇=女性天皇ですが、隋書では、倭王は男であると、はっきり記されている訳です。
これは古田武彦先生等によって、仔細に研究されていますが、推古天皇は、阿毎多利思北孤、倭王ではありえません。
ということになると、倭王「阿毎多利思北孤=天照法皇」の太子・利歌弥多弗利とは、聖徳太子以外には、いないでしょう。
こう推定する根拠のひとつが、倭王「阿毎多利思北孤」です。
なにかというと、「北孤」とは「ホウコウ=法皇」であり、「阿毎多利思北孤」を日本語に翻訳すると、「天照法皇=天垂法皇」だからです。
また、「阿毎多利思北孤」は「上宮法皇」とも呼ばれるからです。
「天垂法皇」の太子・利歌彌多弗利とは、「聖徳太子」です。
日本書紀の記述の方法は、日本国王を「天皇」とおくり名し、倭王は「太子」「摂政」「宿禰」「皇后」などの官位を与える、というやりかたで一貫していますから、誰が倭王か、解りやすいといえば解りやすいと言えるでしょう。
ということで、
資料2 「日本書紀」推古16年6月15日
客等、難波津に泊まれり。是の日に、(推古天皇は)飾船三十五隻を以って、客等を江口に迎えて、新しき館に安置らしむ
資料3 隋書倭国伝
翌年(大業3年=西暦607年の翌年=608年)上(隋の天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。・・・中略・・・倭王(阿毎多利思北孤)は小德の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、・・・・
上の資料2、資料3に出てくる場面は、客を難波津に出迎える場面ですが、資料3の隋書と、資料2の日本書紀では、まるで迎え方が異なっています。
その理由を推定すると、資料2では、推古天皇が出迎え、資料3では、阿毎多利思北孤が出迎えたからです。
出迎えた難波とは、北九州東海岸ですから同じ場所です。
3.日出る国の天子
それはあとでじっくり考察するとして、さて、裴世清の訪れた、この当時の倭国の「京都」とは、何処にあったのでしょう。
手がかりは、やはり「隋書倭国伝」です。
資料4「隋書倭国伝」より
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南にたん羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。
中略
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々
上の、資料4の文章から読めることを、整理します。
資料5 推理
1,方位は魏志倭人伝では対馬から壱岐の方角が「南」でした。
しかし、隋書では、現代と同じ方角の「南」です。
何故、隋書では、現代と同じ方角の「南」と言えるかと言うと、「竹島に行き着き→南にたん羅国を望み→都斯麻国を経て→遙か大海中に在り→東に一支国に至り→竹斯国に至る」航路は、現代の方位の「東」だからです。
2,壱岐から筑紫国への、方向記載がありませんが、話の流れ上、方向を変えていませんから、東の方向です。
壱岐の南側を通って東に行けば、自然に博多につきます。博多が「筑紫国」です。「筑紫国」とは、魏志倭人伝の「末廬国、伊都国、某国21カ国」を併せた大国です。
3,「筑紫国」から、さらに東に、「秦王国」(親王国=しんのう国=山背大兄王の国=大宰府など行政府のある場所=親王が政務を執る国)があります。
必然的に内陸国です。何カ国を経て、と書かれていませんから、筑紫国の「東隣の国」です。「親王国」とは魏志倭人伝の「投馬国」です。
4,秦王国からも方向記載がありません。しかしまだ九州からは出ていません。そこから、だいたい東方向の海岸の方向に行ったことは確かです。何カ国を経て、と書かれていませんから、秦王国の「東隣の国」です。そこが10余国(豊国)です。「豊国」とは、魏志倭人伝の「奴国、不弥国、邪馬壹国」を併せた大国です。まだ、海岸には達していません。
5,そして、最後に、豊国を経て「海岸に達した」とありますから、そこが到達点=最終的な目的地=難波です。
「日出ずるところ」に天子は居ます。日出ずるところといえば普通は東海岸でしょう。
6,したがって「日出ずるところの天子」の都は、「九州の東海岸」ということになります。
7,また、「日出ずるところの天子」ですから「天皇」とは違います。近畿大和王権とはまったく別の国のお話でしょう。
これを地図上、図1に表してみます。
すると、「日出ずるところの天子」の都は、北九州東海岸になりました。
またまた、これまで考察してきた「仮説38-1の京都」の場所と、重なってきました。
何度何種類試みても、同じ結果(都の位置)が、得られます。
よって、「日出ずるところの天子」の都は、九州の東海岸の「京都」です。
仮説39-1
景行天皇が、治世12年に、「京都」と名付けた、福岡県京都郡の豊前の「京都」と、日出る国の天子の豊前の「京都」の都は、同じ場所である。
図1 日出ずる国の都(隋書倭国伝より)
4.聖徳太子の痕跡
仮説39-1に対する傍証を、挙げてみましょう。
「日出ずる国」の中で、都があったと思われる地域の中に、聖徳太子の痕跡が残っていれば、仮説39-1は正しいことになります。
現在まで現地に残っている地名を手がかりとして、探ってみます。
最も色濃く残っている地域の候補地としては、稗田阿礼の出身地の「稗田」と、「御所ヶ谷神護石城」と、景行天皇の痕跡のある「長峡宮」と、応神天皇の足が立ったと言い伝えのある「生立八幡宮」と山頂に巨岩のある「八景山」と「祓川」「禊川」、「難波津」にはさまれた「豊津」地区があります。
この地域に、「彦徳」「徳政」「徳永」「清地」「天生田」「生立」「正・・」など、「徳」や「正」「生」「政」「清」などを持った地名が、多く存在しています。図2参照
「聖」「徳」は「聖徳太子」の「聖」「徳」からの由来です。
「清」は神武天皇の歌われた「・・菅畳・・・清し・・・」です。
「清」はスサノオ尊の言われた「わが心清々し・・」です。
「生」は神功皇后が、三韓征伐後、ここに戻ってきて、応神天皇を育てた、「生立」という、応神天皇に関係する地名です。
「正」は卑弥呼の本名「正子」からの由来です。
この地域はまた、前項で、神武天皇の后「伊須気余理姫」の出身地ではないか、と推定した場所です(38項)。
ヤマトタケルの叔母のヤマトヒメ(壹與、神功皇后)が、タケルに草薙剣を授けた、伊勢大神宮の場所です。
景行天皇が長峡宮を建て、ここを「京」と名付けた場所です。
このように、「京都」に関する地名が多く残っていますが、あせらずに、まだ考察を続けていってみましょう。
図2 聖徳太子の徳や清、生、政の地名の残る地域 google地図使用
5.証明
今まで考察してきたことの裏づけとなる、決定的な証拠がとうとう見つかりました。
2009年11月5日付けの、読売新聞の記事です。
資料6 2009年11月5日付けの読売新聞の記事
奈良時代の役所遺構・・・行橋の遺跡 掘立柱建物3棟並ぶ
県文化財保護課は4日、行橋市延永の「延永ヤヨミ遺跡」で、同市では初めて奈良時代の役所の遺構が見つかったことを明らかにした。付近には古代の港があったとされており、同課は「港の関連施設だった可能性がある」とみている。
発掘調査は、県道直方行橋線の開通工事に伴い、6月26日に始まった。遺構は、穴を掘って柱を立てる掘立柱建物3棟で構成され、床面積は計約150平方 メートル。同課は、3棟が規則的に並んでいることや、柱の直径が一般的な長さの5倍にあたる約1メートルであることから、大型の公共施設だったとみてい る。
遺構付近には草野津と呼ばれる港があったとされている。同遺跡の別の調査エリアでは「京都大」と墨字で書かれた土器やすずりなどが出土している。「京都大」は、複数の自治体の集まりであることを示す「京都郡」と、郡を統括していた役人の最高職「大領」を合わせた言葉と考えられるという。
同課では、遺構は物資の運搬や管理などの拠点として利用されていた可能性があるとみている。
どこが決定的なのか?
行橋の京都郡で、奈良時代に、「京都」と書かれたものが、とうとう見つかりました(図3参照)。
智導世津翁は、この証拠が欲しくてたまらなかったのです。それがとうとう見つかりました。
何故、欲しかったのか?
行橋の京都郡が、「記紀に記述される京都である」という、確たる証拠が欲しかったからです。
これで、智導世津翁の「仮説38-1」が、証明されました。
図3 「京都」実在の証拠
他にも、「京都」があったのではないか?
それでは聞きますが、奈良時代以前に、「京都」と名乗っていた都市が他にありますか?
いやない。
ならば、京都とは、福岡県京都郡の、「京都」を除いて他にないでしょう。
しかし、現在の京都も「京都」ではないか?
平安時代になってから、「京都」と始めて名乗ったのです。
では何故、現代の京都は平安時代まで、「京都」と名乗らなかったのか?
京都がふたつあってはおかしいから、です。
では近畿の京都は以前、なんと名乗っていたのか?
多分「東京都」でしょう。現代と同じです、「都」がふたつあったのです。
この遺物発見をもって、「仮説38-1」が証明されたとします。
証明39-1
794年以前の古代史上の「京都」とは、景行天皇が、治世12年に「京都」と名付けた、福岡県京都郡の「京都」である。
古代史における倭国の都が、どこにあったかという命題について、議論が色々出ていますが、別に奇をてらう必要は全くなかったのです。
自然に、現在でも残っている、福岡県の京都の場所を中心に調べていけば、本説と同じ結論が得られたはずです。
これまでの古代史考察が、何故間違った結論を出していたかという理由は、近畿の大和が古代史の大和であるという、潜入観念に拠るものでしょう。
まず結論ありきという、出発点が間違っていたのです。
それをいつまでも修正できず、教科書に嘘の記載をしている学会や学者には早く見切りをつけて、正しいことを知る権利が一般人にはあります。
(以上、引用終わり)