◎八幡神社のいわれ |
八幡神社は全国の神社の三分の一(約二万五千社)を数え、屋敷神を含めると稲荷社に首位を譲るものの、
その数の多さで第二位にランクされ、日本の八百万(やおよろず)の神のなかで広く信仰されており、その本社は、大分県宇佐市にある宇佐神宮(宇佐八幡宮)となっている。
宇佐八幡神宮の社伝では、宇佐の国造(こくぞう)らが、奥宮の御許山を中心として「比売大神」を祀り、古くは宇佐地方一円に繁栄した「宇佐氏」あるいは「辛島(からしま)氏」「大神(おおが)氏」または これらの一族の氏神か地主神であったと伝えられている。
当初、祀られていた「比売大神」は、後に道主貴(みちなかのぬん)となって海洋神として、また海北の道中の主として筑前の宗像大社や宮地嶽神社、安芸の厳島神社に祀られた三女神(田心姫・湍津姫・市杵島姫)であり、総称として「比売大神」(ひめおおかみ)と称している。
市杵島姫を現していると言われる事もある。それは宇佐氏の始祖であるウサツヒコの母がイチキシマ姫だからだということである。またイチ
キシマ姫は別名タナコヒメと言い、邪馬台国の卑弥呼と言う説がこの地方に残っている。(『卑弥呼と宇佐王国』清輔道生著より参考)
後世、武家の守護神・武神・軍神といわれているが、柳田国男は鍛冶を職業とする人々の神であると推定しているが、八幡は「やはた」とも読める。朝鮮語で海をハタということから由来するとの説もある。
天から八流の旗が降下したとも、八は大八州(おおやしま)の八、幡は三韓降伏の軍功により称するとする説(『和訓栞(わくんのしおり)』)がある。
『古事記』の伝承説話のすべてが八の字を冠しているところから、ハタすなわち畠で、称畠(やはた)の地名に由来したものだ ろうということから、八幡神は農業神であったとの説もあるが、その本性についての定説は得られていない。 さらに八の数字は、八俣大蛇退治で有名な、須佐 之男が櫛名田と結ばれ、出雲の須賀に城を造る時に「や雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を」と詠っている。 この八重垣とは、八重に 囲まれたように頑丈な城を意味していると考えられます。 「君が代」の歌詞には「千代に八千代に~」とありますが、悠久であることを祈るのに「八」を使う など、最大を表す数字でもあるようだ。
八幡が、「八つの旗」とする根拠は、その昔宇佐に住んでいたと言われる人々に関係していると言われている。
天に向かって突き立てられた、幟(のぼり)や幡(はた:旗)とは神が降り立つ目印であり、神を呼ぶ依り代であると言われている。
この宇佐地方は、渡来帰化人の秦氏が多く住んでいたようで、『隋書』倭人伝に、豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことが記されている。
秦氏は、秦の始皇帝の血を汲む氏族であり、朝鮮経由で日本に渡来したと自称していた。
大宝2年(702)の豊前国戸籍(断簡)によると、郡内の塔里(築上郡大平村の旧唐原村・旧黒上村)で129人中の 96.1%、加目久也里(築上郡旧山田村・旧黒土村)でも74人のうち74.3%までが、「秦部」とか「勝姓(すぐりのかばね)すぐり「勝」とは朝鮮の村 長の意である」などの「新羅」系の姓を名乗る人たちで占められており、大化前代に在地層と結びついて形成された里ではないかと考えられているようです。近 年では、秦氏は朝鮮半島の「新羅」地方出身の新羅系加羅人と思われ、前述の「辛島(からしま)氏」も「秦一族」であり、その名は、故地である「加羅」から 来ているといわれています。 この秦一族は新羅から日本全国に移り住んでおり、さまざまな文明文化を運んだと言われています。 畑作とは実は「秦作」であ り、秦氏が畑作を広めたと言う説があります。 また、秦氏は、突厥(モンゴルの騎馬民族)の技術(製鉄、武器製造)と新羅の技術(土木、建築、養蚕や機 (ハタ)織りなど)を倭国に持ち込み、一大勢力を誇ったとされています。 更に、新羅は満州族の影響を受けていると考えられ、その満州には「八旗制度(八 幡制度)」があった。 八旗制度は軍事、政治、生産職能の機能を持つ重要な制度で、八旗の構成メンバーは"旗人"と呼ばれた。
大分県立歴史博物館が発行している「総合案内」の「八幡神について」の部分に書かれた文章には、「宇佐に初めて八幡神が 顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐地方の神として大神(おおが)氏と辛島(から しま)氏によって祀られた。」と記されています。
この大神(おおが)氏は六世紀末に、仏教を国家鎮護の要に据えようと目論んでいた、蘇我馬子が宇佐に送り込んだ大神比義のことと言う説もあります。
八幡神は、早くも奈良時代の頃から皇室の篤い信仰があり、重要なことを決断するときには、この宇佐八幡宮の禰宜(みこ)が神のお告げを受け、伝えたようです。
「日本書紀」には、五世紀末、雄略天皇が病に倒れたとき、和泉国大鳥(鳳)郡(現大阪府堺市)から、物部氏に従う「豊国奇巫」(とよのくにのあやしきかんなぎ)が呼ばれています。
また、587年、書紀には用明天皇の病にさいし、蘇我馬子が「豊国法師」を呼んだともあります。
宇佐八幡神が、一躍全国的な神へ展開したのは、養老四年(720)の大和朝廷による隼人出兵です。
隼人出兵にあたって朝廷は八幡神を守護神とするが、この出兵が朝廷の勝利に終わり、その後八幡神は朝廷の守護神となるのです。
奈良時代の末に起こった、道鏡事件で「道鏡を皇位に」と託宣したのは大神氏の巫女である。
結局、和気清麻呂が宇佐に参宮し再度託宣を受け、託宣は覆るのですが、こちらは辛島氏の巫女が下したものだったようです。
奈良時代末期以降は、宇佐八幡宮の大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜(ねぎ:祈ぎ)・祝(はふり)は辛島氏に一応固定し、各氏が世襲したとされている。
これは、道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還された和気清麻呂が、773~4年に豊前国司に就き、このときに清麻呂が決めたのが、八幡宮の三神職の世襲なのである。
八幡神の降神秘儀と託宣は、本来秦氏の巫女の専儀であり、それが八幡宮の禰宜だった。
つまり、八幡宮の三神職のうち、禰宜が最高職だったのである。
『宇佐託宣集』には八幡神の様々な伝承が収められているが、年齢に関する記述を拾うと「天童」
「三歳の小児」「五歳」「七歳」など、八幡神は童神のようである。
このことから、神懸かりして託宣するシャーマンが八幡宮の巫女であり禰宜職で、巫女に憑依しているのは母子神であり、八幡神は「太子神」と言う説がある。
平安時代になると、京郡に石清水八幡宮が創建され、国家の守護神として字佐神宮の御分霊がお祀りされた。
その後、さらに源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を創建し、清和源氏の氏神として信仰したことから、武家の守護神としてまたたくまに武士の間で崇敬され、各地の武士は領地に八幡神をお祀りしたのです。
全国の稲荷神社の総本社は、京都「伏見稲荷大社」であるが、この伏見稲荷神社を祭ったのも、秦氏と言われています。
稲荷大社の主祭神は「宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ=女神)」であり、神々の系譜上はスサノオ系統に属している。 つまり、宇佐に当初祀られていた「比売大神」と姉妹神でもあるのです。
参考文献:八幡神社 神社と神道研究会 編 勉誠出版、八幡神とはなにか 飯沼賢司 角川選書、神道のすべて 菅田正昭 日本文芸社 神々の考古学 大和岩雄 大和書房、日本神話事典 大林太良・吉田敦彦 監修 大和書房、日本神話を見直す 水野 裕 学生社 謎解き日本神話 松前 健 大和書房、日本の神話伝説 吉田敦彦・古川のり子 青土社、古神道行法入門 大宮司朗 原書房 神社の古代史 岡田精司 大阪書籍、古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎 中公新書、日本にあった朝鮮王国 大和岩雄 白水社 日本の神々 戸部民夫 新紀元社、女の霊力と家の神 宮田 登 人文書院、古事記研究 西郷信綱 未来社、七福神 久慈 力 批評社 招き猫の宮 菊池 真・荒川千尋 戎光祥出版、水の神 マルセル・グリオール せりか書房、入門 白山信仰 内海邦彦 批評社 シャーマンの世界 ピアーズ・ヴィテブスキー 創元社、天皇の本 学研、大宰府発見 森 弘子 海鳥社、龍の起源 荒川 紘 紀伊國屋書店 龍伝説 林義勝 NHK出版、万神 加藤 敬 平河出版社、龍とドラゴン フランシス・ハックスリー 平凡社、道教の神々 窪徳忠 平河出版社 古事記 西宮一民 編 おうふう
龍造寺八幡宮の御祭神
主 神
誉田別尊(ほむだわけのみこと)/品陀和気命(十五代 応神天皇)
西暦365年頃、八幡神社の相殿神の息長帯姫命/気長足姫尊(おきながたらしひめ=神功皇后)の子として筑紫蚊田郷(現在の福岡県福岡市箱崎)で生誕。 帝紀においては、14代仲哀天皇と神功皇后の子供といわれているが、出産時期からして父親は不明とされている。
しかし、この誉田別尊が新たに末子になったことで、おそらく事前にその皇位相続権を約束されていたであろう大和残留中の 皇子達からの激しい追及を受けるに至った。この為、母の神功皇后の遠征軍と離れて別経由で九州を離れ、大臣・武内宿禰にかくまわれながら越前敦賀など各地 を転々とする生活を送った。 376年頃、気長足姫尊ら九州遠征軍の集結と共に九州へ戻り、大和攻めを開始。
天皇不在以降の大和の実権を握っていた仲哀天皇の遺児・香坂王(かごさかおう),忍熊王(おしくまおう。一説に仲哀崩御後、この人が第15代天皇として既に即位していたといわれている)と戦い、これを敗っている。
377年頃、朝廷内では大規模な変革が行われ、誉田別尊天皇として遂に即位(当時12,3歳位だと思われる)。この治世 の間、346年に建国した百済との親交が盛んになり、僧侶王仁,泰氏,漢氏などの渡来人の来朝などと共に大陸からの学問,文化が入る。394年頃に崩御。 享年28,9歳である
鹿児島神宮の社伝「大隅正八幡本縁起」によると、震旦の陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)は七歳にして解任、いぶかっ た父王が問いただすと、夢で朝日の光が胸にあたったために懐胎したのだという。驚き畏れた王は大比留女をやがて生まれた王子とともにうつぼ舟にのせて大海 へと流したとされ、この舟は九州の大隅(八幡岬)へと流れつき、大隅国に留まった王子は正八幡と称えられ、幼くして隼人を平定したという記述があり、この 王子が後の応神天皇という説もある。
相殿神
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと) /息長帯日売命(神功皇后・主神の母神)
息長宿禰王の娘。14代仲哀天皇の皇后で、品夜和気命(ほむやわけのみこと)と神社の主神である、誉田別尊/品陀和気命(ほむだわけのみこと)を産んだとされている。
熊襲征伐のため筑紫入りをした仲哀天皇と神功皇后は、香椎宮で、「新羅を討て」との神託をうけこれを疑った仲哀天皇は神 託を聴かなかった罰で、香椎で急逝した。 その後、仲哀天皇の喪を秘して神功皇后が妊娠中の体を押して新羅征討へ出かけたが、まだ新羅につかないうちに臨 月を迎えた。彼女は石(鎮懐石)を腰に巻くという呪術?によって出産を延期し、新羅を征伐。
帰途、筑紫国へ渡ってそこで15代応神天皇(誉田別尊)を産んだと言われている。その後、大和攻めを行い仲哀天皇の遺児・香坂王(かごさかおう),忍熊王と戦ってこれを破り、誉田別尊を15代の天皇に据えた。
所謂「本地物」と呼ばれる室町時代の書物に、「神功の三韓出兵の時、住吉神(津守氏系)が、『志賀島というところに、阿 曇磯良(あずみのいそら/あとへのいそら)という者が住んでいるので、これを竜宮への使いに立て、潮盈珠と潮乾珠を借りなさい。さすれば速やかに遠征は成 功するでしょう』と託宣。神功皇后らは、海中に舞台を構え、阿曇磯良が好む細男舞を奏すと、阿曇磯良は長いこと海中にいた為に顔に牡蠣や鮑が付いて見苦し いので、白い布で顔を覆って現れる。かくして阿曇磯良は神功皇后に服従した。」という記述がある。
「八幡宮御縁起」には、「磯良と申すは筑前国鹿の、島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明 神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」とあり、相殿神の天児屋根命が磯良と言う事になる。また、民間伝承では阿曇磯良は豊玉毘売命の子であるので、磯良 と鵜葺草葺不合命、天児屋根命は同一人物という説もある。神功皇后の母が天之日矛の子孫であること、懐妊や船出の際にアマテラス・稚日女尊など太陽神が関 係していること、そして異常懐胎(妊娠期間の延長)などから、古来民間では応神天皇は日神の御子とみなされてきた。そこから神功皇后を太陽神の妻とみるこ とも、豊玉姫や玉依ヒメ(後述)に通ずる童子神を生む海の女神とみることも可能である。
玉依毘売命(たまよりひめのみこと)/玉依姫命/玉依昆比売(初代神武天皇の母)
玉依姫命と呼ばれる女神は1人ではなく、日本各地の神社に同じ名前の神が祀られている。
玉依姫命という名称は、天照大神や木花開耶姫命などのような固有名詞ではなく、「タマヨリ」とは、「霊依」あるいは「魂憑」からきたもので、神の依り憑く巫女、あるいは神霊が憑依する乙女の意味である。
それに加えて玉依姫命には、女性の子供を生む能力という性的な要素が強く反映されている。「タマヨリ」の女性は、神婚による処女懐胎によって神の子を宿したり、選ばれて神の妻となったりする。
そういう巫女的霊能力のある女性を総称して玉依姫命と呼んでいるのである。神話伝承のなかの玉依姫命は、龍神(水神)の娘 であったり、水の神を祀る巫女だったりすることが多い。また、玉依姫命が祀られる神社がある場所は、だいたいが水に縁のあるところである。このことは、玉 依姫命が人間の生命の源である水と深い関係にあることを示している。
玉依姫命は豊玉毘売命(トヨタマヒメ)の妹であり、海神(ワタツミ)の娘と言われている。
天照大神の子孫である火遠理命(日子穂穂出見命=山幸彦)と海神(ワタツミ)の娘の豊玉毘売命との間に生まれた、日子波 限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の養育係となるが、後に鵜葺草葺不合命と結婚し、神武天皇(神倭伊波礼毘古命)ら4人の子 を産んだとされている。
山幸、海幸神話では、この豊玉毘売命の姿が八尋鰐(ヤヒロワニ)(一尋=180㎝)であるとか、龍であったと伝えており、玉依毘売命も同じと考えられる。
つまり、日本人の祖先は海神・海人=龍であると言う事になる。
鵜葺草葺不合命はの名には「日子波限建(ひこなぎさたけ)」という名が冠されることがあり、渚(なぎさ)は要するに「磯」であり、民間伝承では阿曇磯良は豊玉毘売命の子であるので、磯良と鵜葺草葺不合命は同一人物という説もある。
となると、玉依姫命と鵜葺草葺不合命(=天児屋根命=阿曇磯良)の子供が初代の神武天皇であり、主神である15代応神天皇の母である神功皇后の新羅征伐を夫である鵜葺草葺不合命(=天児屋根命=阿曇磯良)が助けたことになる。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)(春日大神)
天岩屋戸前(あめのいわやど)に集える神々の一柱であ り、「八幡宮御縁起」によると神功皇后に服従した海神の阿曇磯良と一躰分身、同躰異名と言われている。中臣(なかとみ)氏の祖先神であり、この中臣氏の子 孫の一つが藤原氏である。龍造寺を名乗った南次郎李家(すえいえ)の祖先も藤原氏であると言われている。710(和銅3)年、淡海公と諱を持つ藤原不比等 が藤原氏の氏神を祭った奈良の春日大社(官幣大社)は天児屋根命を主祭神としている。
表筒之男命(うはつつのおのみこと)(住吉三神)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)(住吉三神)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)(住吉三神)
海を司る神であり、海人といわれている。 住吉の大神様は、伊裝諸尊(イザナギノミコト)が黄泉(よみ)の国に退(ま か)った、伊弉冉尊(イザナミノミコト)のうじ虫たかれる姿を見た時に受けた穢(けが)れを、日向の「橘の小門の檍原(あはぎはら)」の海で禊(みそ)ぎ した際に生まれたと言われている。
この穢れとは汚穢(おわい)や不浄ならず一切の正常でない状態を指しており、このようなご誕生の様から、厄祓い・清祓いの御神徳を示すと考えられている。 このイザナギ・イザナミ二神の子が「蛭子尊(ひるこのみこと)」つまり、恵比寿と言われている。
(『古事記』によると、最初の子であり、『日本書紀』ではアマテラス、ツクヨミに次ぐ第三子と記されている)。つまり、住 吉三神と恵比寿は兄弟と言うことになるのである。 神功皇后が三韓征討の時に皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、進まれ遂に三韓の王等を降伏、国にお もどりに成る途中この田蓑嶋に立ちよられ、勝ち戦を祝われた。