10/10,高皇産霊神の正体(その2) |
秦氏
徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、
① 松尾大社
② 伏見稲荷大社
③ 木嶋坐天照御魂神社
松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えている。他 に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であ り、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏は饒速日尊 を強く祭祀していることが分かる。
秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島 へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の 「避」にちなんだ社号だといわれている。
さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすること になった。
しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒 菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の 赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。
秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べている。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。
これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。 そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世 平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14 世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代 である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた人 々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろう か、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量移 民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられる。 そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇帝の 子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。
魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられる。また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。
徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。
そのた め、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王という のも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性 は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾 は一つを残してすべて解決するのである。
最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とは どういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫であれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日 尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもないのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義 を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、このようになることが考えられる。
饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦 忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠 賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼 命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。また、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大 変深い関係にあることになる。このことから、秦忌寸の先祖はこの高皇産霊神と考えるのが最も自然となる。
秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したの が 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一 人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていた ようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂 氏の分派と言うことになる。
賀茂氏の系図は2系統ある。
高皇産霊神の子孫の系統の修正
上の表のように高皇産霊神が2代存在すれば、周辺人物の年代がすっきり収まるのである。
高皇産霊尊の子供たち
高皇産霊尊
高皇産霊尊はBC30年頃誕生しており、饒速日尊が北九州統一に来る前は高良山の麓の高良大社の地を本拠地として周辺を統治していたと思われる。 AD10年頃饒速日尊がこの地を訪れ平和統一の交渉をした時、高皇産霊尊はこの考えに強く感銘し、自らの統治領域を献上した。饒速日尊から遠賀川流域・筑 後川流域・豊国の統治を任され、この地方を中心に統治し、自らの持つ徐福から受け継いだ技術、饒速日尊から受け継いだ技術を周辺の人々に伝授し各種技術者 を次々と育て上げた。
高皇産霊尊の持つ先進技術は素盞嗚尊・饒速日尊が朝鮮半島から取り入れた先進技術以上のものがあったのではないかと推察している。徐福は秦の学者 であり、当時の中国における最高の技術を持った人物である。また、それを補佐する人物を3000人も日本列島に連れてきているのである。BC200年頃と はいえ、中国から朝鮮半島に流れ込む技術よりも早く、日本列島にたどり着いていることが容易に想像できる。日本列島に高度な技術が流入するのに最高の条件 だったと言えよう。その高度な技術は徐福から門外不出とされており、周辺の地域には伝わっていなかった。そして、その高度な技術ゆえに吉野ヶ里は周辺国か らよく襲撃されていたのではないだろうか。そういった事情があったために饒速日尊の日本列島平和統一に強く感銘し、徐福の子孫として高皇産霊尊が一族を挙 げて全面協力すべき大事業と考えたのであろう。
徐福の元来の目的が不老長寿の薬探しであるから、地方に散っていった徐福の子孫たちはそのうちの誰かが不老長寿の薬見つけることができた時、他の 同族たちと連携をとる必要があったと思われる。このため、高皇産霊尊は東日本地域に移動していった同族たちと数年置きぐらいに互いに連絡を取り合っていた と思われる。饒速日尊の日本列島統一の考え方に同調した高皇産霊神は当然ながら地方に散っていった仲間たちにもそのことを連絡し、饒速日尊に協力すること を要請したと思われる。徐福が上陸したと言われている地域は東海地方の太平洋沿岸地域に多く、饒速日尊はこの地域をかなりスムーズに統一しているようなの で、このことが裏付けられる。
高皇産霊尊は饒速日尊に東日本の情勢を知らせ、彼にマレビトを連れて大和に降臨することを勧めたのではないだろうか?AD25年頃、饒速日尊はマ レビトを連れて高皇産霊尊の統治領域と重なる地域から数多くの人々を引き連れて大和に降臨している。このマレビトは高皇産霊尊に育て上げられた技術者であ ろう。高皇産霊尊は自らの子の思兼命・天活玉命・天忍日命をマレビトとして饒速日尊に随行させたのである。高皇産霊尊は饒速日尊一行の出立を見届けてから AD25年頃、亡くなったものと思われる。このとき、出雲の猿田彦命に北九州西半分の統治権を譲ったのであろう。
高皇産霊神
名前からして高皇産霊神が嫡子であると思われる。記紀に記述されている高皇産霊神とはこの人物であろう。紀元前後に誕生し出雲国譲りを決行し、西 倭国・日本国の大合併を企画した人物で神話では天照大神と共に行動している。高皇産霊神は高皇産霊尊の統治領域をそのまま引き継いだ、AD15年頃には高 皇産霊尊より豊国地方を任されていたと思われる。豊国の宇佐地方は素盞嗚尊の北九州統一の拠点となった処で、重要地域であったが、素盞嗚尊は高皇産霊神を 信頼し、彼に統治を任せたのであろう。その後素盞嗚尊は豊国地方の安心院を倭国の都にしようとして、ここで日向津姫と共に生活することになった。高皇産霊 神はさまざまの面で協力していたことであろう。素盞嗚尊が出雲に去った後は日向津姫と共に倭国の統治をすることになった。
AD25年頃日向津姫が南九州薩摩・大隅地方統一のために日向に向かうことになった。これを勧めたのも高皇産霊神と思われる。高皇産霊神は娘の栲 幡千千姫命を日向津姫の長子である天忍穂耳命と結婚させ、天忍穂耳命を自らの養子として育てた。高皇産霊神は天忍穂耳命を引き連れて、今川を遡り吾勝野の 開拓をした。高皇産霊神は天忍穂耳命と共に英彦山に頻繁に登頂したことであろう。英彦山山頂から自らの統治領域を眺めていたと思われる。高皇産霊神・天忍 穂耳の活躍した領域は現在の田川市・飯塚市・嘉麻市・朝倉市・うきは市あたりであろう。
AD45年頃大国主命が亡くなり、出雲国譲り会議 を出雲で主催し、今後の日本列島統一の道筋を話し合った。この会議で天忍穂耳命を西倭国王とすることになっていたが、天忍穂耳命はこの時急死してしまっ た。高皇産霊神は急遽次子瓊々杵命に北九州全域を任せることにし、猿田彦に国を譲らせた。
その後自らは日向津姫と共に国分の鹿児島神宮の地 で倭国統一のために尽力し、AD70年頃この地で亡くなったものであろう。また、高皇産霊神は天照大神(日向津姫)が皇祖神となる以前の皇祖神といわれて おり、日向津姫の末子である鵜茅草葺不合尊は素盞嗚尊ではなく、高皇産霊神と日向津姫との間にできた子である可能性が高いといえる。
思兼命
思兼命の伝承はホツマツタエに詳しい。ホツマツタエはどこまで正確かわからないのであるが、「紀伊国に住んでいた天照大神の妹の和歌姫に恋い焦が れ、紀伊国にて和歌姫と結ばれた。その後、野洲宮で新婚生活を送り、信濃国の阿智にて亡くなった。」と言うようなことが記されている。
和歌姫と言うのは稚日女命で別名「丹生都比売大神」とも云われている。丹生都比売神社の由緒によると、「神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。」となっている。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26の玉津島神社の地とされている。
この和歌姫とは誰なのであろうか、天照大神の妹と言われているが、天照大神が日向津姫であるなら九州から饒速日尊と共にやってきたマレビトの1人 となるが、女性であるからマレビトとは考えにくい。ホツマツタエでは伊邪那岐・伊邪那美命の娘となっているが、紀伊国に最初から住んでいた人物のようであ る。伊邪那岐・伊邪那美命は素盞嗚尊と共に紀伊国統一のためにやってきている。伝承によると三重県熊野市有馬町1814の産田神社で誰かが生まれている。 神社には「伊奘冉尊が、ここで軻遇突智を産み亡くなったので、花の窟に葬った」と伝えられているが、伊邪那美命は紀伊国では亡くなっておらず、日本書紀の 記述が入り込んだものと考えられる。この産田神社で生まれた人物が和歌姫ではないだろうか?
思兼命はこの和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に 滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春 命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した。美濃国には高皇産霊神を祭神とす る神社が多く、この周辺にその子孫が滞在していたことが推察される。
AD50年頃、信濃国統一に人材不足を感じた饒速日尊から、信濃国を統一してほしいと頼まれ、一族を率いて神坂峠を越えて信濃国に入り、阿智族として信濃国伊那地方を開拓し、この地で亡くなり、 長野県下伊那郡阿智村智里奥宮山 497の阿智神社奥宮の奥の川合御陵に葬られた。
天活玉命
祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。
二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたのではあるまいか。
天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれて いる。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。また、越国の神社で祀られていることか ら、越国国譲りの時、越国に赴いて、国譲り後の越国の統治をしたのではないかと推定している。
天忍日命
天忍日命は天孫降臨時瓊々杵尊の先導をした人物とされている。そして、その孫の道臣命が神武天皇の東遷時に活躍しているので、瓊々杵命に従ったの ではないかと思ったのであるが、神武天皇東遷伝承でも道臣命が登場するのは紀伊半島迂回時からで、それ以前には登場していない。饒速日尊と共に大和降臨し たのかもしれないと思い、近畿地方の大伴氏関連神社を調べてみると次のようなことが分かった。
刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地た る岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味してい る。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。
降幡神社(南河内郡河南町山城)は『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとする。また、伝説によると、「太 古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。」とあるが、祭神は天之忍日命であり、天忍穂耳命ではない。この伝 承における天忍穂耳尊は天忍日命の間違いであると思われる。これも天忍日命がマレビトであったことを意味している。
以上より、天忍日命は父の高皇産霊尊よりマレビトになることを命じられ、饒速日尊に従って近畿地方に降臨した。淀川河口付近で饒速日尊と別れ、海 岸に沿って南下し、河南町で休息し、和歌山市に赴き、その周辺にマレビトとして入り込んで技術導入して土地開発を行った。その孫の道臣命は神武天皇の名草 の戦いのときに功績を挙げ、以降神武天皇に付従って大和に侵入した。その子孫は大伴氏として栄えたことが分かる。
高皇産霊神の子供たち
栲幡千千姫命
AD25年頃誕生しており、天忍穂耳命の妻となり、天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となっている。天忍穂耳命がAD45年頃25歳前後で亡くなっている。その後の人生は不明である。おそらく天忍穂耳命が高皇産霊神の後継者であったのであろう。
三穂津姫
饒速日尊の妻となっている。静岡県の御穂神社は羽衣で有名だが、「天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りに なったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこ で大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄 とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。」と記録されている。新婚旅行でこの地を訪れたことになっている。
饒速日尊と結婚した時期はいつ頃であろうか、新婚旅行で来るということはこの地方が統一されていたはずであるからAD40年頃以降であろう。 AD40年頃以降で饒速日尊が高皇産霊神と接触したと思われるのは、出雲での国譲り会議の時である。AD45年頃の国譲り会議の直後に結婚したものと考え られる。
島根県の美保神社で事代主命と共に、京都府亀岡市の出雲大神宮に三穂津彦と共に祭られている。三穂津姫はAD30年頃の誕生ではないかと思われ、 饒速日尊死後も活躍していたと思われる。事代主命の母ではないが、事代主命が出雲に赴く時一緒に出雲に行ったのではないかと思われる。
天太玉命
安房神社の社伝「天太玉命の孫の天富命は、神武天皇の御命令を受けられ、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀を植えられ 開拓を進められました。その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、 ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命 をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。」
天太玉命は忌部氏の祖である。饒速日尊に追従してマレビトとなった。具体的行動は不明である。
天御中主神
高皇産霊神は秦徐福系の人々、神皇産霊神は出雲にやってきた朝鮮半島系の人々を指すと推定した。それでは、その神々よりも先に登場した天御中主神 は何者であろうか。伊勢神道によると伊勢外宮では豊受大御神が天御中主神と伝わっている。天御中主神も饒速日尊の影を感じるが、同じように姿が見えない神 なので、これも系統を示していると考えられる。
高皇産霊神や神皇産霊神より先に出現した系統として考えられるのは、日向の伊邪那岐命系である。この系統は呉の太白の子孫と言われており、紀元前 5世紀に日本列島にやってきたと思われる。徐福や素盞嗚尊よりも明らかに先に日本列島に上陸しているのである。また、神武天皇はこの日向族の系統なので、 高皇産霊神や神皇産霊神より上に位置するのも納得できるところがある。
大和朝廷は天御中主神(日向系)、高皇産霊神(徐福系)、神皇産霊神(朝鮮系)の人々の協力のもとで成立したと考えられるのである。