7/10,九州王朝の末裔達より(その2) |
九世紀半ば、「筑紫公」を名のる、九州王朝の王族の末裔が太宰府の官僚として実在していたことは、九州王朝の滅亡について大きな示唆を与える。白 村江での壊滅的な敗北により、国力を急激に衰えさせた九州王朝を近畿天皇家は征服戦らしい戦いの必要もないまま併呑したようであるが、その後直ちに独自の 年号、律令、行政機構を矢継ぎ早に制定していった。しかし、王朝の交替につきものの官僚機構の入れ替えについて、九州に関しては行なわなかったのではある まいか。「筑紫公」の存在はこのことを指し示すのである。そしてなによりも、九州王朝中枢の政庁名「太宰府」が、王朝滅亡後もそのまま残っていること自体 が、そのことを雄弁に物語っているようにも思えるのだ。
以前、私は滅亡時の九州王朝における近畿天皇家への徹底抗戦派の存在を、鹿児島県の地方伝承と『続日本紀』の史料批判により指摘したが、同時に恭順派の存在(10) をも予想した。そして本稿で取り上げた「筑紫公」こそ、その恭順派に他ならない。征服された側の一族が引き続き官僚として残っている事実が、そのことを裏 付けている。官僚機構の変更を伴わない「占領政策」は歴史上めずらしくはない。それでは太宰府の官僚機構について分析してみよう。貞観年間(八五九〜八七 六)頃成立の『令集解」によれば、太宰府の官名は次の通りである。また、官位は天長十年(八三三)成立の官撰注釈書である『令義解』によった。
主神 一人 正七位下
帥 一人 従三位
大弐 一人 正五位上
少弐 二人 従五位下
大監 二人 正六位下
少監 二人 従六位上
大典 二人 正七位上
少典 二人 正八位上
大判事 一人 従六位下
少判事 一人 正七位上
大令史 一人 大初位上
少令史 一人 大初位下
大工 一人 正七位上
少工 二人 正八位上
博士 一人 従七位下
陰陽師 一人 正八位上
医師 二人 正八位上
算師 一人 正八位上
防人正 一人 正七位上
佑 一人 正八位上
令史 一人 大初位下
主船 一人 正八位上
主厨 一人 正八位上
史生 二十人
〈『令集解』「職員令」、『令義解』「官位令」〉
このように、太宰府の官人は五十名にも達し、大国でも九名にすぎない一般の諸国とは比較にならない。むしろ、近畿天皇家の中央政庁をそのまま縮小したものと言ってもよい規模と構成である。また、「主神」という他に見られない官職もある。
このほかにも、下級事務に携わる「書生」、雑務に従事する「使部」、農民から徴発されて各種の労役に従事する「仕丁」なども存在しており、これら太宰府関係者は相当数にのぼったものと推定されている。 (11)
大規模な太宰府官僚組織の中にあって、筑紫公文公貞直は、帥から典までの四等官と呼ばれる官職の中では最も低い大宰少典の地位にいたわけであるが、帥や 弐、あるいは監までが近畿天皇家から派遣されていたことを考慮すれば、現地出身者としては比較的高官位であると言えないこともない。こうした点から、九州 王朝滅亡後もその官僚組織、太宰府政庁はそのまま残され、トップクラスを近畿天皇家が派遣することにより、形式的な支配関係を形成したと考えられるのであ る。その結果として、九州王朝の王族の一部は引き続き太宰府官僚の地位を維持できたのである。とすれば、近畿天皇家による九州王朝の併呑は、征服というよりも、むしろクーデターに近いのではないか。
筑紫の君薩夜麻が唐に囚われの身になっている間に、天智が九州王朝の乗っ取りに成功したのであろう。思えば、 五世紀の初め継体が成し遂げられなかった野望を、その百四十年後に天智が果たしたのである。(12)
以上の論点を整理すると次の通りである。
1). 九州王朝滅亡後も、その官僚組織(支配機構)はそのまま残された。
2). そのことの裏付けとして「太宰府」という政庁名は変更されていない。
3). さらに、九州王朝の王族の一部が太宰府官僚としての地位を維持していた。
4). 太宰府官僚のトップクラスは近畿天皇家が派遣していた。
5). 太宰府政庁の規模と構成は中央政府と呼ぶにふさわしく、九州諸国と近畿天皇家の中間に位置していた。
これらの論理的帰結として、太宰府こそ滅亡後の九州王朝の後裔そのものであったと考えられるのである。だからこそ太宰府が名実ともに機能している間は、九州王朝の残映が内外に映じていたのである。この点、次章でさらに論証を続ける。
(10)「最後の九州王朝・・・鹿児島県大宮姫伝説の分析」『市民の古代」10集所収、「大宮姫伝説と九州王朝」『近畿南九州史談』5号所収。
(11)倉住靖彦著『太宰府』
(12)近畿天皇家の天智皇祖説に関しては中村幸雄氏による次の論文がある。「誤読されていた日本書紀」『市民の古代』7集所収。また、古田武彦氏も次の 著書・論文で言及されている。「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(騒々堂)所収、「新唐書日本伝の史料批判・旧唐書との対照」『昭和薬科大学紀要』二 二号所収。
太宰府の反乱
九州王朝滅亡後も、太宰府がたんなる近畿天皇家の出先行政機関でなかったことは、神護慶雲三年(七六九)の道鏡事件でも明らかである。時の女帝称 徳天皇の寵愛を受けた大臣禅師道鏡が、八幡神の託宣として道鏡を皇位につけよという大宰の主神・習宜阿曾麻呂の奏上を受けた事件である。大宰の主神が近畿 天皇家の皇位継承に関する発言権を持っていたことを示しているのだが、これも「太宰府」九州王朝後裔説の傍証の一つとなろう。
ひとたび、こうした視点に立てば、天平十二年(七四〇)の大宰の少弐・藤原広嗣の乱も、大宰少弐への左遷に対する広嗣の巻き返しという従来説とは別の見 方が可能となる。すなわち、九州王朝の復権を企てた「太宰府」の反乱である。なぜなら、広嗣の大宰少弐の任官は、乱のわずか一年半前、天平十年(七三八) の末であるにもかかわらず、挙兵には筑前・筑後・肥前・豊後・大隅・薩摩から一万余が加わっている。こうした短期間での大規模な挙兵は、先住した九州王朝 の存在ぬきでは説明できないのではないか。藤原広嗣の乱は、九州王朝の後裔「太宰府」が、王朝滅亡後の九州内においてなお現実的な影響力を有していた証拠 でもあるのだ。
広嗣は挙兵に先立って上表文を提出しているが、その回答を待つことなく、直ちに挙兵したことを見れば、広嗣一人の意思で起こした反乱ではなく、背後に控 えた「太宰府の反乱」とも言うべき性質の事件であると考えられる。その証拠に反乱鎮圧後、近畿天皇家は太宰府を廃止し、筑紫鎮西府を新設した。数世紀にお よぶ太宰府の歴史にあって、太宰府が廃止されたのはこの時だけである。しかし、天平十七年(七四五)には早くも太宰府は復活している。これなども、九州王 朝の後裔の勢力がなお強かったことの表われではないだろうか。
以上、国内の事件より「太宰府」九州王朝後裔説を検証してきたが、転じて国外史料を見てみよう。『宋史』日本伝の次の記事は注目にあたいする。
天聖四年(一〇二六)十二月、明州言う、「日本國太宰府、人を遣わして方物を貢ず。而も本國の表を持たず」と。詔して之を卻く。其の後も亦未だ朝貢を通せず。南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。〈『宋史』日本伝〉
『宋史』のこの記事に対応して『宋會要」には「天聖四年十月、宋商周良史、太宰府進貢使と構し、日本の土宜を明州市舶司に進む」との記事が見える。(13)
十一世紀の前半、平安中期に至っても太宰府は単独で自主的に「朝貢」を続けていたという『宋史』のこの記事に、古田武彦氏は「ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。」とのべられた。(14) こうした『宋史』の記事も、「太宰府」九州王朝後裔説によるならば、よりリアルな記事として再認識できるのである。
(13)『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(岩波文庫)所収「日唐・日宋・日元交渉史年表」より引用。
(14)古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日新聞社・角川文庫)
筑紫公のゆくえ
『続日本後紀』の史料批判を通じて、論理のおもむくままに滅亡後の九州王朝の姿を探ってきたが、「太宰府」九州王朝後裔説に行き着いた。七世紀末を もって九州王朝の姿は歴史の表舞台から消え去ったと思われていたが、じつは衆知の存在であった「太宰府」こそ滅亡後の「九州王朝」そのものであった。
太宰府は中世に入って、その終焉をむかえる。源平の内乱などにより政庁は焼き払われたともいわれ、十二世紀前半にはかなり荒廃していたらしい。武家社会の到来とともに九州王朝は最後の残映さえも消してしまったようだ。(15)
時代はさらに下って天文五年(一五三六)、大内義隆は先祖代々の宿願であった大宰大弐に補任されたが、当時としては有名無実にすぎない地位を求めたの も、一族の心に残っていた九州王朝の残映のせいであろうか。九州王朝の同盟国百済から、九州年号の定居元年(六一一)に渡来した、百済聖明王の第三子琳聖 太子の子孫(16)とされる大内氏にとって、「太宰府」が特別な意味を持っていたとしても不思議ではあるまい。
さて、『続日本後紀』に記された筑紫公文公貞直であるが、由緒ある称号「筑紫公」に換わって「忠世宿祢」を近畿天皇家より授かった。この忠世宿祢貞直については『日本三代実録」に次の記事が見える。
(貞観四年正月、八六二)外従五位下・忠世宿祢貞直を薩摩の守に為す。
(貞観五年八月、八六三)外従五位下・忠世宿祢貞直を以て薩摩の守に為す。貞直、貞観四年に薩摩の守に任ずるも、母の憂ゆるを以て職を辞す。今、詔して之を起す。
〈『日本三代実録』〉
伝統ある称号「筑紫公」と引き替えに外従五位下まで昇りつめた貞直ではあったが、遠く薩摩の地への赴任を命ぜられる。一度は母を思い、職を辞した貞直も再度の辞令を受けた。その後の消息を国史は記していない。
(15)倉住靖彦著『太宰府』。
(16)『群書系図部集・第七』所収「大内系図」。
(一九九〇年二月十四日脱稿)