4/10,高良玉垂命の目的 ( 1 ) |
(ア)高良大社
日ノ岡古墳・寺徳古墳・下馬場古墳・高良大社と続くライン上の高良大社は、式内社で筑後国の一ノ宮である。
高良大社は、高良玉垂命神社または高良玉垂宮ともいわれ、仁徳天皇の五十五年(367年)、または仁徳天皇七十八年(390年)鎮座。履中天皇元年(400年)創建と伝えられる。延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」とある。もと高木神(高御産巣日神・高牟礼神)が鎮座していたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出、高木神が譲ったら、玉垂命は結界を張り鎮座したという。山の名も高牟礼から高良となった。元の氏神は、二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座している。奇妙な言い伝えである。地元のブログにも書き込まれているくらいだから、周知の事なのだ。まるで、高木神が詐欺に会われたみたいではないか。
結界とは、どんなものを言ったのだろう。高良山には、神籠石と いう何時何の目的で造られたか分からない列石がある。長方形の花崗岩はかなり重く、何キロも並べるなど、そうそうにできる仕事ではない。それらが、まるで 結界のように高良玉垂宮の麓から、宮を取り囲むように並んでいる。この事と関係があるのだろうか。しかも、列石は一夜にして作れるものではない。
高良大社は、権現造りでは九州最大の建築物であり、耳納山地の最西端に鎮座する。御祭神の高良玉垂命は、武内宿禰とも藤大臣とも月神とも言われ、諸説がある。高良玉垂命の墓と伝わる高良御廟塚が、三潴町大字塚崎にある。二十メートルの円墳である。水沼君の崇める神と聞く。と、すると、高木神を騙したのは、水沼君だろうか。
(イ)水間君
水沼君は日本書紀にも登場する。筑後川河口の平野に栄えたらしい。水沼君の墓と伝わるのは、御塚(おんづか)古墳である。鬼塚ともいう。百二十メートルを超える帆立貝式前方後円墳で、辺りには、権現塚、イロハ塚など四十基以上の古墳が点在している。五世紀後半造営、武人埴輪も出土したという。近くには、「鬼夜」という行事で有名な大善寺玉垂宮がある。高良玉垂宮とも深い関係の神社だそうである。
景行天皇の子孫という国乳別皇子(水沼別)は、筑紫の豪族の始祖という。この皇子が祭られているのは、塚崎にある町内最古の弓頭神社である。皇子の墓と言われる烏帽子塚古墳(南北100m・周囲720m)も塚崎にあり、大古墳だったたらしいが、今は壊されてなくなった。旧三潴郡が、水沼君の本拠地だった事は分かる。が、古事記にも日本書紀にも登場しない氏神(高良玉垂命)が、高木神を高牟礼山から降ろしたとは。
(ウ)高木神と高良玉垂神と武内宿禰
高木神を祭っていた氏族として考えられるのは、筑紫国造(筑紫君)磐井だ。
高良大社の西、高良山の麓には御井という地があり、古く国府が置かれた処でもある。そこに、磐井の井戸と伝わる井戸がある。土地の人は深く信仰し、祭りに も使われてきた。「磐井の乱」の最後の戦いも、この御井の辺りである。磐井の本拠地は何処だったのだろうか。耳納山地が磐井の勢力下だったことはうなずけ る。自分の鎮座地を奪われたのに、高木神が無抵抗であるのも不思議だが、祀っていた氏族・磐井が戦いに敗れたのなら仕方ないだろう。
高 木神の後に鎮座した水沼君の祖と伝わる高良玉垂命は、武内宿禰との言い伝えもあるが、その廟(?)として祭られているのが、高良大社の奥の院である。今も 大切に祭られていると聞いて訊ねてみると、高良大社の一キロばかり東南の斜面に社があった。決して、広くない空間である。水場にもなっていて、信心厚い人 が訪れているようだ。中世には、征西将軍懐良親王の陣にもなったと伝わる。狭い斜面には、武内宿禰を連想出来るものは何も見出せないが、戦うための山城に は、水は不可欠のものである。水場として使われたのだろうか。高良山の辺りは、古代から中世・戦国時代まで戦場になった。水場として確保されたのなら大事 な場所であろう。
高良大社が水沼君と深くかかわり、戦場となることが多かった高良山稜線上にあり、高木神と入れ替わったという伝承を持 ち、六世紀後半の古墳と結びつくとすれば、その鎮座時期は六世紀半ば以後となるだろうか。そして、鎮座された目的は「水沼君の守護?」だろうか。それが、 十世紀に式内社に奏上された時「国家守護」の神に変わった。「高良の高良たる由縁」と皇室の尊崇篤かったのは、そういう事だろうか。
古代の王や 有力者達は、海抜の高い山を祖先の魂が天に昇る霊地として崇敬したようだ。そして、居住地の近くの山を使って、霊地とつなぐ手掛かりとしたり、山当てをし たりして、墓地や神社の造営地を決めた。だから、大事なポイントに氏神を祀った。と、少しずつだが、はっきりしてきたのではないか。有力者が入れ替われ ば、氏神も入れ替わる。そのため、筑紫君の神と水間君の神が、交錯してしまったのだろう。
(エ)最高峰は釈迦岳
しかし、である。九州北部の最高峰は釈迦岳(1231m)で、しかも福岡県南部の筑後地方の山である。御前(権現)岳(1209m)も近くに並び、同じく近くに渡神山(1150m)もある。釈迦岳に登ると、御前岳と渡神山の山頂が左右に来る。地図でも調べても、三山の山頂は一列に並び、釈迦岳ラインは耳納山地の高良山(312m)を通過し、耳納山地の西の端、高良大社に当たる。見事である。
同時に新たな疑問もでてきた。高良大社に当たるという事は、当然、このラインを意識して、神社を造営したことになる。では、それは何時? それ以前の古代 の首長達には、釈迦岳や御前岳の存在は遠かったのだろうか。それとも、高木神も釈迦岳を背負って鎮座されていたのだろうか。高木神が高良玉垂神に一夜の宿 として譲ったという伝承が本当なら、同じ場所に鎮座されていたことになる高木神を守護神とした豪族も、釈迦岳を神の山として崇めていたとなる。しかし、ど のようにこの事を証明できるだろう。この事は、心に止めて次に進もう。答えは、何処かに転がっていると思う。
確認しておくが、私がラ インを引くのは地図の上である。それも、当然ながら地図上に記されている古墳や、遺跡や、山頂を結んでいる。更に付け加えれば、五万分の一の地図(国土地 理院)を糊でつなぎ合わせた広い微妙なズレの可能性もある代物の上に、ボールペンや鉛筆で引く線である。また、市販されている県別の道路地図を組み合わせ て、場所と固有名詞の表記を確認している。パソコンで調べるのは、緯度と経度。それも、カーソルを当てる位置が適当かどうか悩みながらである。これが二万 五千分の一の地図になると、線が引きにくい。遠くの山を見ながら結んだであろうラインは、広い山頂から一点を選ぶには微妙なずれや、到達する古墳の大きさ に左右され過ぎる。曖昧だが方向性がはっきりする五万分の一の地図が、ラインを引いて調べる場合は適当である。
こんな条件の中だが、ライン上に登場する地名・神社・遺跡は名だたる名所旧跡が多いので、筆者自身も少々戸惑っている。しかし、地図に書き込まれているのは、そういう所である。しかし、地図記号だけの神社でも、歴史や由緒のあるところは数多くある。
それは、それぞれの地方で編纂されたパンフレットなどを見て確認している。地図を何度も片付けたが、気になっていたことが急に解決に向かって展開すると、再び地図から目が離せないようになる。