あま満つる…5/7 高良大社へ向かう前に |
さて、高良大社および高良山へ行くまえに。おさらいです。
5月31日の資料引用より抜粋
葛と藤にまつわる参考資料
古田史学会報
1998年 6月10日 No.26
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/kaihou26.html より抜粋//
楕 円 国 家 論 と 幻 想 史 学
大阪府泉南郡 室 伏 志 畔
わたしは前号でかぐや姫は倭国のラストプリンセスで、その光輝ある血を貰い受けようと大和朝廷(日本国)の成り上がりの大臣が求婚者となって群がったの が、『竹取物語』の背景であったと述べた。しかしその倭国王朝はわれわれのよく知る天(阿毎)王朝ではなく、藤王朝であるという耳慣れない言葉を記した。 わたしはこの王朝名に至った経緯について少しく述べたいと思う。
倭国から日本国(大和朝廷)への転換過程で、その神統譜が天照大神を中心に書き換えられたなら、その神統譜の内に案外、倭国主神は残存しているかもしれ ないとして考え、私は、前著『伊勢神宮の向こう側』で伊勢神宮の別 宮の中から月読命を 掘り出した。しかし天皇制はもうひとつ蕃神として仏教にも片足かけていたことに気づいたわたしは、わが国仏教布教の大功労者として仏教 界に君臨する聖徳太子という金看板を掲げた法隆寺もうさん臭く覚え、もうひとつの「明白すぎる神秘」を明らかにすべく『法隆寺の向こう側』を今度書き下ろ した。発刊は少しずれて七月となったが、わたしはそこで聖徳太子が『日本書紀』に登場する蘇我・物部戦争とは、いわゆる磐井の乱に始まり白村江の戦いに至 る倭国と大和朝廷の深刻な対立の中間決算であるとする幻視を飛ばし、大和朝廷内のコップの中の嵐として処理している通 説に対し、倭国論を大和朝廷史に内的に導入して解こうとした。(以下省略)
思えば倭国は遠い昔から姫彦制を取り、兄弟統治制を取っていたことは中国文献に詳しい。わたしはこれをほぼ同所における姫彦と兄弟の存在を仮定していたのだが、これを別 所における倭国二中心の暗示ではないかと読み替え、倭国楕円国家論を次第に膨らませていったのである。
博多湾岸にある太宰府に本宮を置く天(阿毎)王朝に対するその東宮としての豊国(現・豊前)の藤王朝の出現はこれまでの古田倭国論を楕円国家論に切り替えるという苦しい模索の中から出現を見たのである。
太宰府の倭国は大和朝廷のかつてのまたの名であったとして、大和朝廷史に溶解しつつもその名をかすかに留めたが、もうひとつの倭国である豊国東宮はまっ たく正史からその影を断った。その理由は大和朝廷が継承した王朝は倭国本宮ではなく倭国東宮の藤王朝であったがため、天皇制を最後にものにした藤原氏に とってそれはタブーと化したのである。
私は『二中歴』の倭京二年(六一九年)の書き込み、「難波天王寺、聖徳造」を食い入るように眺めたのは、摂津の四天王寺の造営は推古即位 前紀の記述からすると五九三年となり、これこそもう一人の聖徳の九州における存在を語るものではないかと見たからである。ところで大芝英雄は『九州の「難 波津」発見』(「市民の古代」十二集)は、もう一人の聖徳に至らずとも、もうひとつの難波の発見に至っていたのである。
新たな打開を求め、昨夏、山崎仁礼男を誘い、もうひとつの難波である豊前に私が跳んだのは、対馬で今に至るも亀卜神事を続けている岩佐教治が信州での 「邪馬台国徹底論争」の際、「それはだれの為に行っているのか」という質問に、ためらわず「豊国の大王」と答えた声がふいに記憶の深層から浮かび上がって きたことに重なる。
国東半島の沖にある比売許曾神社に始まり宇佐神宮を回り、行橋市を中心とする廃寺跡を訪ね、田川市の香春神社に立ち寄り筑前の宮地嶽神社に至ったその旅行については、本紙の二一、二二号で山崎仁礼男が詳しく述べている。
その中で豊前の国府跡を見て、そこから直線距離にして四、五キロメートルのところにある御所ケ岳神籠石を 見るために山に分け入った先に、高いところでは 切石を二〇段近く積み上げられた城塞が逃げ城(山城)として営まれていた。その山腹に立って我々は、その本丸はおそらく国府跡にあって、それがあの辺りな ら、向こうが三韓の古瓦が出土した椿市廃寺ではないかと指さしていた。
その前日、別府埠頭で大芝英雄に会い、先の大芝難波論で、倭国は多利思北孤より以前から太宰府に本朝(本宮)を置き、豊国に東朝(東宮)を開いており、実権は東朝がもっていたという瞠目すべき見解について問いただし、その東宮の位 置について尋ねたがところ、大芝英雄は今は忘れられたように叡野山願光寺が立つ椿市廃寺跡近くの別 所を示した。その近くを徘徊した私は国府跡にそれを求めている山崎仁礼男に軍配を上げていた。
ところで最後に立ち寄った宮地嶽神社が幸運なことに古墳公開日に当たり、その長い羨道深く奥処まで立ち入ることができ、我々はその被葬者を通 説は天武天皇の妃となった尼子娘の父・胸形君徳善とし、古田武彦が多利思北孤としたげであったのに対し、その祭神が、勝村大神(藤の高麿)、息長足比売命 (神功皇后)、勝頼大神(藤の助麿)とあるところから、息長足比売命(神功皇后)は後の大和朝廷の付会と考え、勝村、勝頼の二神に注目した。山 崎仁礼男は これこそ倭国の兄弟統治制の残存と考え小躍りし、かつてこの洞窟で西山村光寿斎がくぐつによる十三人立の筑紫舞を見たという証言から、『二中歴』の教到二 年(五三二)「舞遊始」の記載から、磐井の乱(継体の乱)の後継王・葛子を示すファックスを送ってきた。わたしはこの葛子をクズコと読むのは大和朝廷の言 い方で本当はカツコ、つまり勝子だとしたことによって、宮地嶽古墳の被葬者は、磐井の乱後の倭国復興王朝の始祖となった葛子(勝子)一党の兄弟・勝村、勝 頼のものであるという思わざる結論に至った。
その後、大海人皇子(天武天皇)の東宮大皇弟の分析から、大芝英雄がその東宮は皇太子を意味するのではなく倭国東宮の表示とした画期の論稿に出会い、わ たしは聖徳太子もまた東宮聖王と呼ばれていることに気づき、『日本書紀』の東宮の表示を洗って見たところ、東宮(春宮も含む)の表示は十二を数えたが、そ の表示はなんと継体紀以後に頻出し、それ以前はまったく皆無であることを知った。この発見は、葛子を倭国復興王朝とする先の見解にぴたりと重なり、倭国東 宮の出現はこの葛子をもって始まったとするほかないのである。つまり、継体紀以降に倭国は筑前の太宰府と豊前の難波に二中心をおく楕円国家へ変貌したので ある。しかし正史は継体紀以後頻出したにちがいないこの倭国東宮の表示を、後に皇太子の意味に回収しようとしたのは、東宮大皇弟(天武天皇)を皇太子(天 智天皇)の弟とすることなくして、その後の天皇制はありえなかったからである。かくして四歳年上と伝承される天武の栄えある系図はかき消され天智系図の中 に取り込んだのは藤原不比等であった。この天皇制の変質とねじれの詳細について次号に回したい。
ところで聖徳太子の異名である東宮聖王の意味は、倭国東宮の聖なる王、つまり豊国仏教の興隆の中心者の意味であり、そのまたの名である豊 聡耳皇子が豊国 の聡い耳と呼ばれる高貴な階級出身の皇子の意味と解するとき、この二つの異名は豊国の倭国東宮を置くとき、矛盾なくぴたりと重なるのである。とするとき、 正史『日本書紀』の記す大和の聖徳太子とは倭国東宮の聖徳の付会なら、天武天皇とは白村江の敗戦後の混乱を利用して近江革命王朝を起した天智王朝を倒し、 倭国東宮を大和に復活させた天皇とするほかない。
しかし天武天皇に始まる天皇制構想は、持統天皇死後の不比等の画策の中で、 『日本書紀』は天智天皇をもって大和朝廷の開祖とするによってまったくその実 質を失い、不比等は母系系譜を利用して天皇を天武系から天智系にひねり、娘・宮子を文武天皇に妻はすことによってついに藤原氏から聖武天皇を出すよう謀 り、天武の血脈を引き継ぐかに見えて天武構想とはまったく違う天皇制を創り上げたのである。
かくして倭国東宮の奥所にあった倭(山跡)の再現と して天武構想された大倭(大和)は、いつしかかつてから近畿にあったとする大和観へ変貌し、その結果 は、倭国は大和朝廷のかつてのまたの名として取り込まれ、天武の原郷としての倭国東宮の歴史も王朝名もまったく失われたのである。そしてこの王朝名の紛失 は天皇家の姓の紛失と別 ではない。
一体どこにその光輝ある名は隠されたのであろうかと私が疑ったのは、倭国の主神が伊勢神宮の天照大神を中心 とする神社系譜の中に月読神社として収まっていたことに鑑みる。とするなら倭国東宮の王朝名もまた「明白すぎる神秘」の内にあるので、我々はそれを別 のものとして見ているから失われているにちがいないと幻視したとき、そそり立つように厳然としたのは藤原の名であった。
思えばこの名は、中臣鎌 足の死の直前に天智天皇が東宮大皇弟をして大織冠とともにさりげなく与えられたのである。しかし天武が構想したわが国最初の大都 は藤原京というのだが、それは持統の即位 した鎌足生誕地の藤井ガ原に因んだものだというが、それこそが後世の正史記述者の天才的な付会ではなかったか。藤原の原には源、はじめの意味があることを 知ったことによって、藤原は藤氏の源泉という意味があったのだ。とするとき、近江王朝を潰し倭国東宮を近畿に再興した天武天皇には、今こそ私は藤王朝の源 泉に立ったのだとする自負があり、それが都の名となったのは、天武には昔の神々の居ますところが高天原なら、いま現人神の居ますところこそ藤原なのだとす るところが、この名にあったからである。わたしは誣妄の言を弄しているのであろうか。実際、藤原氏は自家の家伝を『藤氏家伝』と銘打ったし、わたしが山崎 仁礼男とともに、磐井の乱後の倭国復興王朝の祖とした葛子一統の兄弟とした宮地嶽古墳の被葬者の勝村大神、勝頼大神のまたの名は、それぞれ藤の高麿、藤の 助麿と呼ばれていたことが、そのことを何よりも立証していたのである。倭国東宮及びそれを継承した天武王朝が藤氏の王朝であったことは、その名を消すこと によってその実質を簒奪したその後の大和朝廷にあって、なぜに紫位 の位が尊ばれたかは、藤そのものがそれを指し示していたのである。
抜粋以上//
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○宮地嶽古墳の被葬者、久留米見沼の被葬者、八女岩戸山古墳の被葬者…は同族で繫がっている?
○豊前と筑紫野、そして九州の兄弟王朝説…豊前の墓や塚は多く壊されているが筑紫野は残っている。
○太宰府の存在
○すり替えられた神々
そしてまたまた…久留米へ行く前日のブログを思い出してみましょう…
高木神のすげかえ…葛城の神ー高木の神であった…
この事が意味することは、とても大きいようです。
そして大和に対し、倭国皇統は、本来、海(あま)阿毎(あめ)をウジ名とし、海の民を統率し、月神を祭祀していた…
また九州の神である高木神がいたるところですりかえられた…
根の深い相克が今、浮上してきている、その事を強く感じています。
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ほう…そうだった、この事を証明するために、私たちは筑紫野へ来たのだった!繋がりました。
以下はおさらい
葛城の神とは高木の神である http://kamnavi.web.fc2.com/jm/eiko.htmより引用
「葛城」とはどういう名であろうか。「葛」は蔓(つる)の「かずら」と思われがちだが、むしろ「桂」、すなわち落葉種の高木と解すべきではないか。また先述からの「高城」は「高木」とも書き習わされる。つまり、「葛城」とは「高城=高木」に他ならないのではないか。
そうだとすると、「葛城の神」とは「高木の神」だということになる。最高の皇祖神である「タカミムスビ神」である。そう言えば、前に挙げた葛城の五大社に「高天彦神社」があり、この祭神がタカミムスビ神であった。
実 は、藤原氏の前身である中臣氏も「タカミムスビ神」の信仰を持っていた。名はともかく「高木の神」である。葛城氏も名はともかく「高木の神」の信仰を有 していた。どちらが先に「タカミムスビ神」と称したのかは知れぬが、あるいは名族・葛城氏(そして蘇我氏)の神であったからこそか、紀記編纂を主導する藤 原氏(と天皇家)は「タカミムスビ神」を最高神の一つとした。それどころか、天孫降臨で「タカミムスビ神」が果たす役割は、地上での藤原不比等そのもので ある。もしかすればだが、「タカミムスビ神」も藤原氏による葛城氏からの纂奪であったのかも知れない。
高木の神
高木の神は金剛・葛城の神でもある。金剛山は高天山と呼ばれていた。この山の中腹に、古社である高天彦神社が鎮座し、高皇産霊神を祀っている。この社の背 後に神籬山がある。 この神は遠い古代に日本に渡ってきた神である。その記憶は対馬の高御魂神社にその御神体がうつほ船に乗って漂着した霊石であるとの伝承が残っている。九州では筑紫、豊の国に今でも多く祀られている。
葛城は[高]を付けるのが好きな地域である。多くの神々の名に[高]がついている。高木の神の木の神の葛城風の呼び方と言えよう。
木の神、それは素盞嗚尊の御子神とされる五十猛命も木の神である。 それも紀の国を本貫とする神で 伊太祁曽神社の 御祭神であるが高木の神と同様に対馬壱岐に足跡の多い神である。また五十猛命を[いそのたける]と読めば安曇氏の祖神磯武良も[いそのたけら]と読め、こ の二つの名は酷似しており、この神を祀る和多都美神社の社前の渚に[磯良エベス]と称する霊石の原初の神体があるのも、高木の神との深いつながりをも思わ せる。
五十猛命は[いそのたける]で[いそ]は磯すなわち渚である。渚の建、この神はまた、神武天皇の父神の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命にも通じる。
また、和歌山市の射矢止神社の伝えに、五十猛命、天香山命、一言主命が共に天降ったとある。一言主命も有力な葛城の神になっている事、天香山命は高倉下であり、葛城の高尾張の祖神として葛城王朝創建に貢献している。
葛城王朝の遠い祖先は対馬、九州地域から、瀬戸内海を通り、大和葛城にたどり着いたのであろう。この記憶が神武東遷の物語として再生したのであろう。
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さて、以上の事をふまえ、大きな事を確かめに高良大社へ。
あま満つる…6/7 高良大社、毘沙門天へ つづきます!