あま満つる…1/7 |
真実を知ることを妨げる自分自身の闇の力です。
けれど、迷いひとつないパートナーの意志に背中を押され…龍の背中に乗って、次元間の移動、大いなる統合へと飛び出しました。
今朝、このブログを書いている時に…主人が。
今朝の朝日新聞を開いたとたんに目に飛び込んできた記事のことを教えてくれました。1957年のこの近く、企救丘地域には茶畑が広がっていたそうです、久留米がすりのもんぺ姿を着た女性たちの姿が茶をつんでいる姿が写真で紹介されていました。茶といえば、八女。八女出身の方のお話も載せられているようです。
太宰府、久留米、八女、浮羽…まさに昨日訪れた場所です。
この近く、昨年からずっと私たちの中で呼び覚ましてきた豊前王朝の方が古く、この古代の栄華はほとんど抹消され、封印されてきたことを今、知っています。
そして兄弟王朝説とも言われている、古代筑紫野王朝へと流れは繋がりはじめています。
昨日は古墳を巡る旅となりました。
先週の鞍手ー宗像ー福津(宮地嶽)から繋がっています。
多次元とリンクしながら、古代のエネルギーー今へと繋いでいます。
私にとってはまさに…私を実の子として愛し、豊かさのすべてを注いでくれた育ての父の故郷へと導かれた旅です。
高速で1時間少しで…太宰府へと着きました。太宰府天満宮へと。
昨日のブログを書きあげた直後に主人が言いました。タイトルは何にする?
私のハイヤーセルフが、眠気と疲労に混濁した私にかわって、いいました。
「あま満つる…」その言葉は、すべてを示唆していました。
昨日の旅の最後に受け取りました。
旅の始まりは太宰府天満宮から。懐かしい場所です。天神さんへ、繋いで…という(皆さんの)子どもたちのハイヤーセルフが、この1か月、メッセージを続けて送ってくれていたから…私にとってはやはり育ての父がつれていってくれていた思い出が呼び覚まされました。
人気が多かったのですが、磁場調整している場所は神社の裏手の方にある聖域です。菅原道真にゆかり深い神々、先祖神が一同に祀られています。
そのすべてをひとつひとつお参りしました。天満宮のシンボルは牛。牛がいたるところに…目につきました。いま、この光で参拝できたこと。その事が意味深いです。
その後、観世音寺へ。磁場調整はある意味でスピードとテンポが重要です。どんどん活性してゆく自分自身を感じながら。
観世音寺は…なぜか懐かしいような、心が何かをたぐり寄せているかのような…そんな場所でした。
この場所に僧侶たちが多数おられ、重要な場所として機能していた古代の風景が思い浮かぶような。いまはひっそりと乾いた池のように…
この日も暑く、草の生い茂る境内を何かを探しながら歩くように…過去の手がかりを探すように…
観世音寺の周辺を歩き続け、ちょうど寺の後方にふと目をやると、日吉神社なる小さな鳥居が目に入りました。道路をわたってその由緒を見るとこの神社が観世音寺の地主神であることを知りました。神社へはかなりの石段が続き、ここから体力的にその先に行くことが出来なかったのですが、鳥居の場所で磁場調整。この土地の神様により深く教えて頂きたく…
その後、先ほど行った寺の後方の池のさらに奥にある、菖蒲の花の園の方へと身体が吸い寄せられました…そして木の看板に人の手で書かれた文字でここが僧、玄昉(奈良時代の法相宗の僧)の墓と知りました。ちょうどひと月ばかり前に彼の事を集中的に学びました。ブログにても詳しく載せています。空海にも大きな影響を与えている僧です。玄昉に関しては奇怪な逸話が多く、後世に残されている逸話から、彼そのものを知ることはなかなか難しいと思われます。史書である『続日本紀』の彼の卒伝に、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時広嗣の怨霊によって彼が死んだとの考えがあったことが知られます。ここ観世音寺の彼のお墓にもそのように書かれていました。
これが後世の書物になると話があらぬ方向に広がっていく。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちており、これが広嗣の霊のせいであったという記事がある。
『元亨釈書』には、「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。宮子との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。
『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。
玄昉の逸話はいろいろありますが、この菖蒲の花の紫ー紫の袈裟が、彼に象徴的なイメージを伝えてくれているように思います。
義淵に師事。717年(養老元年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の735年(天平7年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経を携えて帰国。736年(天平8年)封戸を与えられた。翌737年(天平9年)僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。
義淵の弟子達、玄昉…と宮子との縁の深さ(天皇の国母であるのに30数年、幽閉されているような尋常でない事情)…ここが最大の謎であり、鍵と思われます。
6月1日に香月で購入したばかりの本に書いていました。それを、このブログを書きながら、今見ています。また胸が熱くなるような…せき立てられるような…
これは予想しない流れでありました…この本はまだ出たばかりで、6月5日刊行となっております…
香月では、熊野権現神社があり、そこで毘沙門天が祀られていました…
この事と昨日の流れが仕掛けられたかのように繫がってきています…
盗まれた日本建国 斉藤忠著
より引用抜粋。
//玄昉は彼女に対する何らかの封印を解いてあげようと図った。加えて義淵と不平等、義淵と紀氏、そして不平等と紀氏、宮子と不平等といった結びつきの連環。
だとなると、こうは言えまいか、彼ら仏教指導者たちは、宮子を軸にしたなんらかの重大な縁、政治的絡みがあった。首を生むと、宮子は心の病だからとして
どこかへ封じ込められた。彼女は文武の血と彼女との血を合わせた子を生む、ことが求められただけの存在だった…がそうした意図は不平等、紀氏、および義淵
の弟子達(玄ぼう)が共有して連携して事にあたっていた…//
…ということでただいま10時。今からこの大事な時期に1回目を受ける方のセッションが始まります!
ブログはここでいったん中止。
この後は、観世音寺のさらなる深みへと繋げたいと思います…どきどき(笑)そしてまたその先へと。
(天満宮の麒麟↓)
あま満つる… 2/7 観世音寺の仏たちへ続く!!