太陽と月のシンクロ |
周波数の似ている方々とは、どんどん豊かさを伝播し合うことが出来ます。
ハートで繫がると、疲れません。
また、ヒーリングを受けた方々の多くが、ライトボディ化のプロセスが進んでいることを実感されているようです。
感応しあって、空間は輝きに満ち満ちていました。
仲間の方々とは歓びのシェアが続きました。
岩村ご夫妻とも短い時間でハイアクセス意識交換することが出来ました。
今回、複数名予約が溢れた為、急遽7日(木)の午後にまたお見えになる可能性濃厚です。
その後、主人と子どもたちと食事へ。
家に戻り、主人のお誕生日をケーキを囲んでお祝い。
昼間に私の母と主人の姉から、思いがけずケーキが届きました。
夜、ありがとう、と電話しました。すべてが柔らかくなっています。
今日も…仲間の方々から戸畑や若松の情報が多く届き、戸畑の菅原神社の事を言われる方もおられて、また呼ばれている…ことを感じました。
明日は久留米、高良山を訪れる予定にしています。戸畑も久留米も育ての父に関連する場所。
九州の古代王朝の秘密へもさらに近づけることでしょう。
先月5月のブログの更新は激しかった!(笑)5月の記事を読み返してみると、今に新しく、さらに前へと進めます。
明日の磁場調整の旅を経て、ようやく仲間の方々と6日頃、サークルを繋いでお会いできそうです。昨日、お風呂の中で閃きが来ました。
今ある豊かさを存分に受け取ってください…その準備が出来ました。
弥栄のワークを予定しています…閃きとともにまたお知らせします。
午前から午後2時くらいまでの時間を予定しています。
雨天の場合は茶話会をしたいと考えています。
一昨日、香月、金剛山トンネル、福智山のエネルギーグリッドに無意識に繫がる…直方方面に買い物に行き、思いがけず書店にて、6月5日刊行の新しい書を一冊、手に取りました。「盗まれた日本建国の謎」斉藤忠著 です。昨日は大変忙しかったので、今朝6時に起きてすべて読みました。
この本の中でも、高木神のすげかえ…というのが述べられていました。5月25日のブログでも触れていますが、葛城の神ー高木の神であった…
この事が意味することは、とても大きいようです。そして大和に対し、倭国皇統は、本来、海(あま)阿毎(あめ)をウジ名とし、海の民を統率し、月神を祭祀していた… また九州の神である高木神がいたるところですりかえられた…根の深い相克が今、浮上してきている、その事を強く感じています。
また、昨夜ケーキを食べていたら、ある本がチラリと目に入りました…いつか小田さん(OAのエンジニアの方)の事務所でいただいた、古田武彦著の「失われた古代王朝の謎」ー天皇家以前の古代史 です。いま、ようやくハートで読み理解できる時…と思います。先週は、「大和朝廷の前身ー豊前王朝」大芝英雄著 を購入し、読んでいます。 今、まさに封印が解かれる時、日本人の集合意識の奥深くに眠り込んでしまった叡智を取り戻す時なのだと…
感じています。
葛城の神とは高木の神である http://kamnavi.web.fc2.com/jm/eiko.htmより引用
「葛城」とはどういう名であろうか。「葛」は蔓(つる)の「かずら」と思われがちだが、むしろ「桂」、すなわち落葉種の高木と解すべきではないか。また先述からの「高城」は「高木」とも書き習わされる。つまり、「葛城」とは「高城=高木」に他ならないのではないか。
そうだとすると、「葛城の神」とは「高木の神」だということになる。最高の皇祖神である「タカミムスビ神」である。そう言えば、前に挙げた葛城の五大社に「高天彦神社」があり、この祭神がタカミムスビ神であった。
実は、藤原氏の前身である中臣氏も「タカミムスビ神」の信仰を持っていた。名はともかく「高木の神」である。葛城氏も名はともかく「高木の神」の信仰を有 していた。どちらが先に「タカミムスビ神」と称したのかは知れぬが、あるいは名族・葛城氏(そして蘇我氏)の神であったからこそか、紀記編纂を主導する藤 原氏(と天皇家)は「タカミムスビ神」を最高神の一つとした。それどころか、天孫降臨で「タカミムスビ神」が果たす役割は、地上での藤原不比等そのもので ある。もしかすればだが、「タカミムスビ神」も藤原氏による葛城氏からの纂奪であったのかも知れない。
高木の神
高木の神は金剛・葛城の神でもある。金剛山は高天山と呼ばれていた。この山の中腹に、古社である高天彦神社が鎮座し、高皇産霊神を祀っている。この社の背後に神籬山がある。 この神は遠い古代に日本に渡ってきた神である。その記憶は対馬の高御魂神社にその御神体がうつほ船に乗って漂着した霊石であるとの伝承が残っている。九州では筑紫、豊の国に今でも多く祀られている。
葛城は[高]を付けるのが好きな地域である。多くの神々の名に[高]がついている。高木の神の木の神の葛城風の呼び方と言えよう。
木の神、それは素盞嗚尊の御子神とされる五十猛命も木の神である。 それも紀の国を本貫とする神で伊太祁曽神社の 御祭神であるが高木の神と同様に対馬壱岐に足跡の多い神である。また五十猛命を[いそのたける]と読めば安曇氏の祖神磯武良も[いそのたけら]と読め、こ の二つの名は酷似しており、この神を祀る和多都美神社の社前の渚に[磯良エベス]と称する霊石の原初の神体があるのも、高木の神との深いつながりをも思わ せる。
五十猛命は[いそのたける]で[いそ]は磯すなわち渚である。渚の建、この神はまた、神武天皇の父神の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命にも通じる。
また、和歌山市の射矢止神社の伝えに、五十猛命、天香山命、一言主命が共に天降ったとある。一言主命も有力な葛城の神になっている事、天香山命は高倉下であり、葛城の高尾張の祖神として葛城王朝創建に貢献している。
葛城王朝の遠い祖先は対馬、九州地域から、瀬戸内海を通り、大和葛城にたどり着いたのであろう。この記憶が神武東遷の物語として再生したのであろう。
神武東遷
生駒山の北部に饒速日山がある。虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに)すなわち邪馬台国を建国した神の聖地である。 東遷した部族の長(五瀬命、神武天皇)はこの聖地を押さえる事で一挙に大和を手に入れ、部族の安住の地を求めようとしたのである。しかし、飛火で通報を受けた長髄彦は山上から攻撃を加え、東遷部隊を一蹴したのである。
紀の国の征圧、葛城へ
破れて傷ついた東遷軍はやむなく南下し、五瀬命を竈山に葬り、名草戸畔、丹敷戸畔の支配する紀の国を征圧し、紀ノ川を押さえた。 紀の国名草を征圧した神は名草の建と呼ばれた。渚の建であり、鵜葺草葺不合命である。この神を五十猛命として祀ったのではとの推測も成り立ちうる。
紀の国から大和金剛葛城へは紀の川をさかのぼればすぐである。東遷部隊はついに大和攻略の戦略拠点を手に入れた。
葛城周辺から吉野宇陀へ
大王の婚姻から支配していった氏族、地域を推測する。
①神武天皇、②綏靖天皇、③安寧天皇の三代の妃は鴨氏の娘である。鴨氏の神は事代主命であり、一言主命とも同一視される事がある。
④懿徳天皇、⑤孝昭天皇の代に高尾張氏を支配下にいれた。⑤孝昭天皇は高尾張氏の瀛津世襲命の妹の世襲足命を妃にしている。この代で金剛葛城一帯を制覇したのである。
⑥孝安天皇の子の⑦孝霊天皇は磯城の細媛を妃に迎えている。吉野、宇陀を征し、兄磯城を滅ぼしたのである。物部氏の一角を崩したのである。また宇陀は金属を産し、これで耕作と武力を飛躍的に伸ばしたのである。
⑦孝霊天皇は国中に進出、物部氏を征したのである。邪馬台国はここに初期大和王権に替わった。大和、河内、吉備を支配下に入れるべく、王子を派遣している。
⑧孝元天皇は山城、丹波を征した。美少女であった物部氏の伊香色謎命を手に入れたのである。
物部氏の血を受けた⑨開化天皇が即位、物部王朝の復活がなった。先代が手に入れた伊香色謎命を妃にした。
⑩崇神天皇を祭神としている神社は多くはないが、筑後に多い。筑後生葉(福岡県浮羽郡吉井町)の金刀比羅神社や筑後三瀦(福岡県大川市大字小保)の琴平神社が代表的な存在である。崇神帝はこの付近の出身と推測できよう。
物部氏に取り返された王権を奪回するべく鴨氏物部氏が一触即発の危機を迎えたが、九州で有数の豪族になっていた水沼君を天皇として迎える事で折り合いを付けることとなった。後世の継体天皇の先例である。鴨氏の縁につながる王であったのであろう。
なお、この王朝は、後世に新たな王朝の始まりと認識されたのである。
しかし、承伏できない開化天皇につながる一族の間から散発的に皇位奪還の企てが起こっている。
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隼人とは高木一族http://homepage3.nifty.com/rokujigen/syoukyusyu.htmlより
景行天皇の九州遠征
13代景行天皇は、
4世紀に九州遠征をして、クマソを討伐しています。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなってから、およそ100年後のことです。
この時の遠征は、福岡に始まり大分、宮崎、熊本、長崎と、ほぼ九州全域に及んでいます。
:高城山(苅田町)
天皇は、まず福岡県京都(みやこ)郡みやこ町に到着しています。
すぐ東に上稗田町、北西に勝山池田、北東に高城山(苅田町)があります。
福岡県京都郡みやこ町勝山上田
次に大分郡(おほいたのこほり)に行っていますが、
大分は『おほきだ』呼ばれていたので、大・気多です。
大分県竹田市で戦をしています。
竹田市には飛田川が流れ飛田川という地名もあるので、
竹田も高田であったと思われます。
そして高千穂の高屋に宮を建て、6年過ごしています。
高千穂町河内と日之影町岩井川にも高城山があります。
<地図>宮崎県西臼杵郡高千穂町
高千穂から児湯郡木城町高城、小林市などを経て、
熊本県八代市高田から長崎県諫早市高城町に到っています。
<地図>長崎県諫早市高城町
そして高田行宮(かりみや 福岡県みやま市高田町)に滞在した後
うきは市浮羽町高見を経て大和へ帰っています。
いずれも高屋、高城、高田、高見と高木一族の居たと思われる地名ばかりです。
高良山に祀られていた高木神が、高良大神にその地を奪われたのも、この時のはずです。
天皇を守っていた高木一族は、
2世紀のやまと大乱で出雲三輪氏に敗れています。
神武東征後の九州に残った高木一族は、
大和の出雲政権には従わなかったと考えられます。
その高木一族が卑しめられて、クマソと呼ばれたのではないかと思われます。
邪馬台国の卑弥呼が、魏の国に朝貢したのも、
出雲政権からの独立を考えての権威付けのためです。
追放された高木神> 隼人とは高木一族 > 有明海の支配
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「盗まれた日本建国の謎」斉藤忠著 によりますと…
北九州に所在する英彦山の周辺、筑前、豊前、豊後各國の数郡のうちに高木神社が多数所在し、全国の高木神社の9割越が集中するとされる。
むろん、それにひとつとして式内社はない。この英彦山の頂には古に遡る磐座がのこり、中腹のかつて修験道場の代表的存在であった豊前坊、現在の
高住神社の近くから縄文土器の出土を見ている…
かつて奈良朝の代に、中央の神祇官は高木の神を抹消すべく、高木神の名は、タカミムスビの神の別名なりと布告し、高木神を祀る神社をしてその祭神
の名を改めさせた…と考えられる。
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あっという間に時間が来て、今朝の探求はここまで…
宮地嶽神社の古墳の被葬者も、藤王朝のことも、探求し続けています…
明日の旅にて、このあたりが繫がりそうです。
今日は、2人の方の…統合クラス5回目のセッションになります。
霊的にもパワフルな2人。まさに太陽と月。とても楽しみです。
明日の久留米方面への旅も、ますます楽しみになりました。また詳しくレポートします♪