「あこうのくず」を辿って1/2 |
今日は5時30分からのセッション。すばらしい気付き合いでした。
そして今日は新たな1歩、大いなる1歩を踏み出せた日でした。
グループソウルの方々にとっては歴史的な日となるでしょう(笑)
昨日、やってきたもの、風、黒雲、荒神谷…茶話会の後の風の中で、お腹からネガティブなものが出ていったのを感じました。そして槻田葛城城跡のエネルギーを感じながら。ブログを書き、朝を迎えました。
これ以上、進めない自分を感じ、統合しながら…自分の中の抵抗…を四国以来、感じました。
そして21日までに大きなシフトポイントを迎えることはどこかでわかっていました。
今朝は…荒神谷…赤のつく場所、土蜘蛛の女性シャーマンが祀られているという神社へ。赤村とありましたが、香春山を越えて夏吉という地名。ディープな霊地である…
今日はあえてそこに行きたいと思いました…昨日、ブログであげています。(今日はすごく長いブログになるので、いくつかにわけています)シリーズでとらえてください。
昨日のブログより…
「人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し天皇を周防の佐波 (今の防府市)迄出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。“榊の枝に八握剣八咫鏡、八尺瓊をとりかけ、船の舳先に素幡 をたてゝ参向した”と日本書記には記されています。年代は下がって姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を授けんと軍勢を 催してかけつける途中で妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て篭もったところを追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐社横の洞窟との説もある) それ以来夏羽焼−夏焼と此の村が呼ばれる事になったのです。後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に宇佐より八幡宮が勧請されましたが(光仁年中1173〜4 年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に若八幡と となえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後いかなる理由でか当 社に鎮座されたのです。江戸時代小笠原藩祖忠真公巡国の折り当社に参詣され困窮のどん底にあった村民を救うため色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村 名を夏吉と、改称されました。
村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が、小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。」
宮司 原田丈路 謹識
一の鳥居奥
○ひもろぎ逍遥さんのブログから転載(一部抜粋)
若八幡神社(2) (福岡県田川市夏吉)
神夏磯媛と香春岳と新羅
この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)
この顔ぶれを見ると、本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
後に八幡信仰の「仁徳・応神・神功」の三柱がかぶさって来たのが伺えます。
この田川地方は宇佐に近いために、そのようになったケースが他にも見られました。
今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。
景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。
そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。
そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。
一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。
三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。
この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。
そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。
天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。
まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。
景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。
各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順したという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。
これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊。
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊。
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。
香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。
仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽と田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。
仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)
神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。
この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。
銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。
田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。
小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。
考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。
物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
赤い●が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。
一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは山の方に住み分けして金や銅を生産し、あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。
川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。
しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。
その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)
鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。
そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。
夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。
仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)
(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)
以上、引用終わり。次へ…