広継の乱と彼を巡る人々 |
藤原広嗣は藤原不比等の孫にあたり、
当時の流行り病で藤原家の実力者が次々と倒れるなか、
天平10年(738)21歳の若さで式部少輔兼大養徳守に任じられました。
ところがその年の12月にはいきなり太宰少弐として大宰府に左遷されてしまいました。これを右大臣橘諸兄に重用される僧の玄昉、吉備真備の陰謀だと考えた。
歴史の中で、どちらが正義でどちらが悪かなどと簡単には言えませんが。
広嗣の側に立てば広嗣は『容姿端正、威厳あり、怒れば適する者なく、優しさは羽毛のよう、文筆仏法の奥義に通じ武芸抜群、天文、陰陽道にも通じた』となり、玄昉は『奴婢を養い、邸宅を興し財宝を集め、酒肉を貯え女色に執着する』と・・・ 玄昉の側から見るとまったく正反対。
朝廷の疫病、飢餓対策の失敗は、玄昉と真備らの責任、二人を追放すべしと朝廷に上表。
気短な広嗣、朝廷の返事を待ちきれず、九州の兵を糾合して反乱を起こしてしまったのでした。天平12年の秋のこと。
下記も引用です。(抜粋引用しています)http://www.ten-f.com/nakamarotachi.htm
仲麻呂そして玄昉、真備たち 広継を巡る人々
元正天皇の霊亀二年(716)八月二十日、朝廷は多治比県守(たじひ・あがたもり)を最高責任者とする第八次の遣唐使の編成を発令、翌、養老元年三月九日、遣唐押使・多治比県守は節刀(せっとう、全権委任の印)を授かり母国の港を後にしたのですが、この時、留学生として同行を許された者の中に阿倍仲麻呂、吉備真備(きび・まび、695?~775)がおり、留学僧の身分で玄昉(げんぼう,?~746)も乗り組んでいました。唐に留め置かれた仲麻呂を除き、十八年後に帰朝した二人は、それぞれ得意とする分野で栄進を遂げたのですが、玄昉については奇怪な最期が伝えられています。それはオノコロ・シリーズの参考書とも言うべき『今昔物語集』巻十一に収められている、次のような書き出しで始まるお話です。
然る間、天皇の后、光明皇后、この玄昉を貴み帰依し給いける程に、
親しく参り仕りて 后これを寵愛し給いければ、世の人不吉ぬ(よからぬ)様に申しあつかいけり。
その時に、藤原の広継という人有りけり。不比等の大臣の御孫なり。
式部卿宇合と云いける人の子なれば、品も高く人様も吉かりければ、
世に用いられたる人にてなむ有りける。
絶頂期から奈落の底へ真っ逆さま
もう、お気づきかと思いますが、この文章は歴史において指折り数えられる謀反人として悪名高い藤原広嗣(広継、ふじわら・ひろつ ぐ、?~740)その人が、主役より目立つ存在として登場する『玄昉僧正、唐に渡りて、法相を伝えること』の一部です。不比等を頂点とした藤原氏は八世紀 初頭に絶頂期を迎え、その威光は未来永劫に光り輝くかに見えたのですが、天平九年(737)悪夢としか言いようの無い悲劇が藤原家一族に襲いかかります。 四月十七日・房前(次男)、七月十三日・麻呂(四男)、七月二十五日・武智麻呂(長男)そして八月五日・宇合(三男で広嗣の父親)と一族の主だった四人が相次いで逝去、勿論、其の当時の流行り病が原因だと思われるのですが、口さがない人々は、根も葉もない、そして不吉な噂話を無責任に広めたりしたものでした。皮肉にも僧・玄昉が「僧正」に任命されたのは宇合が無くなってから一月も経たない八月二十六日のことだったのですが、この余りの手際良い人事が、物見高い都人の注目・関心を集めないはずがありませんでした。そして聖武天皇の朝廷は年も押し詰まった十二月二十七日、国名を「大倭国」から「大養徳国」に改める決定を行ったのですが、同じ日、注目すべき出来事がありました。その様子を「日本書紀」に次ぐ第二の国史『続日本紀』(しょくにほんき)は、次のように記録(文言は管理人が意訳)しています(注・12月27日は、聖武天皇の誕生日に当たります)。
この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて、僧正の玄昉を引見した。
天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が永らく常人らしい行動をしていなかった(人事を廃していた)ためである。
夫人は天皇(聖武)を産まれて以来、まだ一度も御子である天皇に会われたことが無かった。ところが玄昉法師が一度看病して差し上げると、穏やかで悟りを開かれた境地となられた。そんな折、丁度、天皇と合いまみえることが出来たので、国中がこれを慶んだ。
宮子夫人(藤原不比等の娘、?~754)が首皇子(聖武天皇)を出産されたのは大宝元年(701)のことですから、実に三十六年ぶりに「親子」の感 動的な対面が実現し、その直接のきっかけを作り出したのが「玄昉」法師の、ただ一度の「看病」だったと言うのですから、何とも摩訶不思議な超能力の持ち主 ではありませんか!ここで、お話は先の広嗣(広継)に戻らなければならないのですが「叛乱」の原因を推理する上でも、当時の藤原氏の家族構成を知っていた ほうが良いと思いますので、このページに関係深い人物だけに限った略系図を以下に紹介しておきます(「三千代」は橘諸兄を生んだ後、不比等と再婚していま す。従って諸兄と光明子は同母の兄妹ということになります)
読者の皆さんの思考を混乱させることが本意ではないのですが、この系図には書き込んでいない、最も大切な「ライン」が存在していますので、その辺り を言葉で補っておきます。覚えておいて頂きたいのは、まず、文武天皇の宮子夫人と藤原光明子(安宿媛、701~760)が異母姉妹であるということ、そし て、その宮子が生んだ聖武天皇(首皇子)の皇后が光明子である、という二点です。つまり藤原広嗣にとって「宮子・光明子は叔母」にあたる存在だった、という事です。そして、別の見方からすれば「広継と聖武天皇は従兄弟」に相当するわけです、ややこしいですね。では「今昔物語集」に戻りましょう。
お馴染みの「今昔物語集」(京都大学収蔵)
其の中に、心極めて猛くして、智り有りて万の事にいたれりれけば、
吉備の大臣をもって師として、文の道を学びて、身の才賢くして、
朝に仕えて右近の少将になりけり。 (中略)
常には此のようにして過ごしける程に、かく玄昉を后、寵愛したまう事を、
広継聞きて、大宰府より国解を奉りて申して曰く、
「天皇の后、僧玄昉を寵愛したまう事、専ら世の謗りと有り。
速やかに此れを止められるべし」 と。
天皇、かく申したるを糸、便無きことなりと思し召して、
「広継、何の故にか、朝政をしるべき。此の者、世に有りては、
定めて国の為に悪かりなん。
しかれば、速やかに広継を討つべきなり」と定めおかれて、
その時に御手代の東人という人有りけり。
心極めて猛くして思量り賢き者にて有りければ、
兵(つわもの)の道に使われけるによりて、
此の東人に仰せたまいて「速やかに広継を罰て奉れ」
として遣わしければ、東人、宣旨をうけたまわりて鎮西に下りぬ。
式部少輔・大養徳守であった広継が大宰少弐に転じる辞令が下されたのは天平十年十二月のことでしたから、彼も二年余り、九州の地に留まりながら都か ら伝えられる「風評」に耳を尖らせていたものと思われます。ただ広継が「お后」の言動について批判した内容を天皇が「糸、便なきこと(大変、けしからん 事)」と受け止められた事情は十分理解できるとしても、その「批判」が直ちに「広継を討ち取れ」という宣旨につながったとするのには余りにも根拠が薄弱な ように感じられるのですが、読者の皆さんは、どのように判断されるでしょう。と言うのも広継が大宰府の次官として左遷された原因も「続日本紀」によれば『親族を誹謗し た』との理由ですから、その「親族」が「叔母たち」を含む人々であったことは容易に想像できますし、論調は多少違っていたとしても、彼女たちの言動を、そ の頃から批判し続けていたことは間違いないと考えられるからです。閑話休題--弘継の出した「国解(こくげ、公文書)」は八月二十九日の日付で都に届けら れ「続日本紀」は、
大宰少弐・従五位下の藤原朝臣広嗣が表をたてまつって、時の政治の損失を指摘し
天地の災異の原因となっていると陳べ、僧正の玄昉法師と
右衛士督・従五位上の下道朝臣真備を追放することを言上した。
と簡潔に記しています。また『松浦廟宮先祖次第併本縁起』という文書によれば、広継は、
天地の災異は「賊人による君位奪取の兆候」
玄昉は僧であるにも関わらず財を積み、天皇皇后を騙し密かに宝位を狙っている
また下道真備は玄昉と契って国を転覆させようと企んでいるから二人を朝廷から除かなければならない、と自らの正当性を主張しています。父そして伯父たち亡き後、藤原家のホープを自認していた広継にとってみ れば、正に今こそ己が国政の中心にあって活躍すべき時であるにもかかわらず、彼から見れば数段格式の低い家柄出身者たちに軽くあしらわれている、という思 いが強かったに違いありません。その上、身内であり自分の良き理解者であるべきはずの叔母たちまで実家(藤原式家)の没落を容認あるいは無視していると広 継には感じられていたのでしょう。既に見たように、彼の「上表文」は全くとりあってもらえなかったのですが、広継も、その事は先刻承知の上だったことは 「挙兵」の知らせが一週間も経たない九月三日には都に届いていることでも明らかです。朝廷は直ちに大野東人(おおの・あずまびと)を大将軍とする征討軍を発令、二ヶ月に及ぶ攻防の結果、広継軍は破れ、十一月一日、松浦の地で最期を迎えました。十二世紀半ばに書かれたと思われる「今昔物語集」は挙兵と討伐に関して『我れ公の御ために過つ事無しと云えども、公、横様に(理由なく)我れを討たんとす。此れ偏に僧玄昉が讒言な り』と広継の立場を代弁していますが、真相は藪の中、という他ありません。ただ、広継の「叛乱」が朝廷に与えた衝撃がどの程度深刻であったのかについて は、討伐の軍勢を続々と送り出している最中の十月十九日に「伊勢国に行宮(かりみや)を造る司」を任命し、続いて二十六日には『思うところがあって、今月 の末から暫くの間、関東に行こうと思う。行幸に適した時期ではないが、何分、事態が重大であるので、やむを得ない』という意味の勅を大将軍たちに発している事実が如実に示していると思います。これらの動きは、広継の反乱軍から身を遠ざけるというよりも、むしろ朝廷の内部に広継に同調するような、不穏な勢力が存在していたことを示唆しています。だとするなら、強ち広継の言い分も的外れなものではなかった可能性も十分残されていると考えるべきでしょう。
疑念を生む「続日本紀」の記述内容
また「続日本紀」は月日を整然と並べ、あたかも記述された内容が時間の経過を正しくなぞったものであるかのように装っていますが、広継の最期、処刑 の日時に関して、妙にちぐはぐな書き方で何かを糊塗しようと試みたのではないか、との疑念を払拭できません。それは、次のようなものです。
十月二十九日、伊勢国に行幸が行われた。
十一月一日、伊賀郡安保に着き、宿泊した。
十一月二日、伊勢国壱志郡の河口頓宮に到着した。これを関宮と称した。
十一月三日、この日、大将軍東人の言上があった。今月二十三日に逆賊の広嗣を捕まえた、とのことである。天皇は「今、十月二十九日の奏上を見て、広嗣が捕らえられたことを知った。広嗣の罪は明白なので、法の規定により処断し、報告せよ」と詔された。
十一月五日、大将軍東人が「今月一日、広嗣と網手の斬刑を執行しました」と言上した。
人の目とは案外頼りにならないものです。こうやって日にち毎に記事を並べられると、何の疑いも無く、書かれた内容を素直に受け入れてしまいそうにな るものです。さて、何が、どの様に「糊塗」されているのでしょう?「続紀」の編集に携わった者が意図していたのかどうか、それは兎も角、明らかな矛盾が一 つ認められます。天皇は、弘嗣が「二十三日」に捕らえられた、という報告を「二十九日」に受けていたにも関わらず、それを知ったのは「十一 月三日」である、としています。そして天皇の「法の規定通り」「処断」せよ、と云う詔が東人に下されたのも、同じ「十一月三日」だと云うのに、大将軍は 「十一月一日」に既に刑を執行しているのです。「謀反人は死罪」との「規定」があったにせよ、東人が独断専行したのでしょうか?或いは天皇が詔するより 「前」に誰かが大将軍に「命令」を発していたのでしょうか?また、天皇に「行幸」を思いつかせた程「重大」な関心事であるはずの「弘嗣逮捕」の知らせを、 天皇は何故、数日も「見なかった」(或いは「見せられなかった」)のでしょうか?疑念は晴れません。
あっけない「全員の赦免」が意味するものは?
反逆者「弘嗣」の起こした「乱」に連座し捕らえられた者は、死罪二十六人、官位を剥奪された者五人、流罪四十七人、杖罪百七十七人の計二百五十五人 にも及んだそうですから、若し「続紀」の言うとおり『凶悪な性格で、よく人を偽り陥れる』事で知られた「身内」の叛乱が朝廷内外に与えた影響は大変深刻な もので、弘継一族は勿論、事件に関係した者も再び日の目を見ることが永遠に出来なかっただろう、と思うのが当たり前の感覚なのですが、なんと、一年も経た ない天平十三年九月八日、恭仁宮への遷都に伴う「大赦」の名目で『反逆者広嗣に連座して罪人となった者すべて』が赦免されているのです。寛大なお上の思し召しと言えばそれまでですが、この、あっけない放免の事実も、事件の複雑な性格を物語っているように思います。
国分寺の創建(天平十三年)にも深く関わったとされ『栄寵、日に日に盛ん』であった玄昉でしたが、その実態は、
ようやく沙門の行に背けり。時、人これを憎む(「続日本紀」没伝)
と言う有様だったようですが、この「続紀」の書き方が、それとなく広継の言い分を代弁しているようにも思えるのは、管理人だけの深読みの性でしょうか?「弘継の乱」の余韻も覚めやらない天平十七年正月、注目される詔が発表されます、それが行基法師の大僧正任命でした。朝廷の中枢で、静かに、そして着実に進む地殻変動を「続日本紀」は「地震」の多発という自然現象に置き換え克明に記録していますが、玄昉は、此の年の十一月二日筑紫の観世音寺に「造営のため」の名目で配流され、わずか二週間後の十七日には、それまで与えられていた「封戸と財物」も全て没収されてしまいます。左遷から半年、天平十八年六月十八日、大宰府観音寺に出向き、導師として供養を行っていた玄昉を怪異が襲います。
その後、弘継悪霊となりて、且は、公を恨み奉り、且は玄昉が怨を報ぜんとするに、
彼の玄昉の前に悪霊現じたり。赤き衣を着て冠したる者来て、
俄かに玄昉を攫み取りて空に昇りぬ。悪霊その身を散々に攫み破りて落としければ、
その弟子ども有りて、拾い集めて葬したりけり。
悪霊となった広継(五位の者は赤の衣服を着用する、弘継は従五位下)が突如現れ、玄昉の身体を空高くつかみ上げ、バラバラにして放り投げた、と言うのですから、実に凄まじい「怨念」が感じられます。同様の「お話」は十二世紀初頭に記された『東大寺要録』(とうだいじようろく、1106)にもあり、要録では玄昉の最期を『忽然として空に登ること数丈、地に落ちて既に死せり。更に血と骨無し』と表現、さらに洞院公定の『尊卑文脈』(そ んぴぶんみゃく、1400年頃)でも『空に声がして、玄昉が突然消えうせた』と伝えています。実際に何が彼の身に起こったのか、その劇的な一場面をここで 再現することは出来ませんが、これらの言い伝えは全て「弘継が悪霊となり」「玄昉が突然、死去し」「玄昉の影響力が完全に排除された」ことを証明していま す。そして、世間の人は、広継が「悪霊に成り得る程の怨みを抱きつつ」死ななければならなかった、という実情も察知していたのです。
悪霊となった広継と対峙した吉備の大臣
公式文書である「続日本紀」までが『世間では、玄昉が藤原弘嗣の霊によって殺されたのだと伝えている』と書かなければならなかったのは、広継の悪霊が玄昉抹殺だけでは満足していなかったからに他なりません。その辺りを「今昔物語集」は、次のようなお話として残しています。
その後、悪霊静かなること無かりければ、天皇、極めて怖じさせ給いて
『吉備の大臣は広継が師なり。速やかに彼の墓に行きて、こしらえおこつるべきなり』と仰せければ
吉備、宣旨を承り、西に行きて、弘継が墓にして、こしらえ陳じけるに、
その霊して吉備、ほとほどしく鎮められるべくなりけるを、吉備、陰陽の道極めたりける人にて、
陰陽の術をもって我が身を怖れなく固めて、懇ろにおこつりこしらえければ、其の霊止まりにけり。
「二の宮」に広継を祀る鏡神社(WEBより)
弘継の霊は、吉備真備の術により鎮められ「神」となりました。今、松浦(唐津市)の地に建つ鏡神社です。一の宮の祭神が神功皇后であ ることを、どの様に解釈するのか、それは又、別の機会にゆずるとして、東(都)の方角を向いて鎮座する二の宮を創建した人こそ、天平勝宝二年(750)正 月、筑前守に左遷された吉備真備だったのでした。謀反人・弘継、大逆の罪人を出した藤原氏の名門、宇合-弘継の藤原式家が、その後どうなったと思います か?常識的には「没落」し、その後、歴史からも消え去った、と思われるでしょうが事実は異なります。弘継には「良継」という弟が居ましたが、その娘、つまり姪に当る女性(藤原乙牟漏、 760~790)が山部親王(後の桓武天皇)の皇后となって、平城天皇と嵯峨天皇を産むこととなります。式家は不滅だったのです。一方、帰朝が叶わなかっ た阿倍仲麻呂は七十三歳で異国の土となりました。宝亀十年(779)五月、都を訪れた唐使・孫興進たちから『先の留学生が唐で亡くなり』『家族は大変貧し く、葬礼も十分に行えなかった』ことを聞いた光仁天皇は、葬礼のための費用(あしぎぬ、真綿)を送り届けた、と国史は伝えています。
東京に鎮座する広継命(赤塚氷川神社、WEBより)
時は流れて十五世紀、桓武平氏の一族である千葉氏は関東圏に勢力を持つ名家ですが、東京板橋区に奇妙な神社が存在しています。由緒書きによれば武州・赤塚城主であった千葉自胤(ちば・よりたね)という人が長禄元年(1457)に大宮から勧請したという赤塚・氷川神社がそれで、その祭神は素盞嗚命と藤原広継命の二柱なのです。桓武天皇のお后となった乙牟漏の縁から祀ったものだと想像はできるのですが、それにしてもスサノオと広継の組み合わせは、何とも不思議な印象を与える神社です。今回のオマケでした。