魂の壮大な旅 |
先ほど、主人はハートからこみ上げるものがあったようで、また泣いていました。泣沢女神(なきさわめのかみ)のようです。
泣沢女神(なきさわめのかみ)シリウスDの神様だそうです。
ニャントーローともいいます。
まさしく妙見神社横で一匹の猫が私たちにずっと話しかけるように鳴いていました。妙見神社は宇宙神である、造化三神が祀られている神社です。
北辰北斗(北極星、北斗七星)を信仰する妙見信仰の霊場、妙見神社の全国総本宮です。
泣沢女神(なきさわめのかみ)…火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を生んだ事によって命を落としたイザナミ。最愛の妻の死を目の当たりにして、イザナギは号泣した。泣沢女とは、その涙から生まれた神である。「さわ」とは、水の流れを表していると考えられる。水神として祭られている。
今日はいざなみさんのエネルギーの方のセッション。前回のセッションにて四国へ嫌々行くのです…と言われていたので、どうぞハートから喜んで行かれてください!今、この時、おめでたい流れ…でいくのですから。どうせ行かれるなら、そこへ行く本当の意味を見いだしてください。四国はいざなみさんの国ですよ!と言いました。今日はいざなみさん、蒲生の女神、不動明王さん、3人のセッションです。最強のサイキックトリオです(笑)うち2名は60代、70代の女性、です。
それで…私たちも四国行きの計画をたてているところです。それはいくつもの必然性が重なっての流れです。剣山がメインでしたが、ほかにももりたくさん。
もうシンクロし過ぎて、押し寄せてきて、止まりません。
○伊射奈美神社 いざなみじんじゃ
徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島52
今回、主人が、2、3日前に、たまたま予約できた宿のすぐ近くにありました。
今回の旅の流れを加速させてくれるのは、いろいろな方々からのインフォメーションです。
伊予にある 大山津見神社 もそうです。ここから私は父方の祖先の流れを辿る流れを見いだしました。この四国には安徳天皇の聖地も多々あります。
それは期せずして…でした。豊ー周防ー伊予を繋げ は先月の徳山周南ー宮島弥山の旅の時にメッセージは受けていました。けれど…
母方の祖父を繋ぐ旅が、実父のルーツに繋がる旅になるとは。おまけに周防灘を挟んで宇佐、国東は主人の血族の流れです。
私の父方の河野(川野)性は越智性から来ている流れだそうです。それでいろいろとわかることがありました。
(河野氏起源)wilpedikia
越智玉興と越智玉澄の兄弟が699年(文武3年)に都落ちする際、瀬戸内海の備中沖で飲料水が無くなり、玉興が弓を海中に差し込み潮を掻き分けた所、真水が湧いてきて渇を癒す事ができた。これが水島の地名の由来となり、この故事に鑑みこの水の源は越智氏の領地である伊予国高縄山から流れてきたものであるとし、「この水の可なること、予が里よりす」と玉興が言った事から「水」「可」「予」「里」の4字を組み合わせて「河野」とし、居館の地域を「河野郷」と称し、養子となった玉澄が「河野氏」を苗字とした。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.htmlより引用抜粋
越智氏を語る時、避けて通れないのが大三島に坐す「大山祇神社」である。
<大山祇神社>
●所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦
●祭神:大山積神(和多志大神、三島大明神)
古事記「大山津見神」風土記「大山積神」
日本書紀「大山祇神」と記され、現在は神名「大山積神」神社名「大山祇神社」と分けて記されている。
・その他祭神:岩長比売、木花開耶姫、
●祖神:饒速日尊、又は伊予皇子
●神格:全国の山祇・三島神社約11,000社の総本社。
●由緒:①山の神、海の神、戦神、武運長久の神
②この地への鎮座由来:諸説ある。
・大山祇神の子孫「乎千命」がこの地に築いた。
・静岡県三嶋大社から分霊した。(三嶋大社が、大山祇神社の分社であるとの説もある)
・朝鮮半島から渡来した神。
・大阪三島江から移動した。(一般的)
③四社詣(大山祇神社、出雲熊野大社、厳島神社、宇佐神宮)
五社詣(さらに太宰府天満宮)の中心的神社。
④伊予風土記「御嶋、坐す神の御名は大山積の神、一名は、和多志の大神 (海上安全守護神)なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此の神、百済の国より度り来まして、津の国の御嶋に坐し き。ーーー御嶋というは、津の国の御嶋なり。」***古来から山神と同時に海神でもあった。
⑤大三島記文「仁徳天皇の御宇に、乎知命が祖神・大山祇命を祀った」
⑥三島宮社記「推古2年大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年現在地へ遷座。16年の歳月をかけ社殿を造営。719年遷宮の儀が執り行われた。」
⑦社記「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神で日本民族の総氏神 として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に鎮座されたのは、神武天皇の砌、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸 内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。---本社は、社号を日本総鎮守、三島大明神、大三島宮と称さ れ、歴代朝廷の尊崇、国民の崇敬篤く、奈良時代までに全国津々浦々に分社が奉斎された。
1534年大三島合戦、鶴姫戦死。
伝1607年(1602年)拝殿建築。
●社家
大山祇神社所蔵文書によれば、社家は三島大祝家と呼ばれ、伊予小市国造の越智氏の後裔であり、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その弟玉澄の子供にあたるとされる「安元」が、三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える。以後現在までこの一族が社家として神社を祀っている。(諸説あり)
高知に越知町という地があるようです。ttp://tosareki.gozaru.jp/tosareki/ochi/yokokurayama2.html引用
越知町の市街西方にそびえ立つ独特の形のピークを持つ横倉山。平家滅亡の 折りには安徳天皇を秘密裏に預かった阿波の田口氏が祖谷の山々から、池川の山奥椿山を経由して逃避行を重ね、安徳天皇はここ横倉山で少なくなった家臣とし ばらく暮らし、そして亡くなったという伝説があり、宮内庁指定の安徳天皇陵墓参考地もあります。宗教的には人があまり入らない険しい部分を持つ山なので、 修験道の修行の山でもあったようです。
横倉宮の祭神は安徳天皇です。天皇は再起の日を祈られたが病魔に襲われ正治二年(1200)八月八日、御年23歳をもって遂に悲運な御生涯を閉じられた。
横倉山鞠ヶ奈路に天皇を奉葬、同年九月八日に知盛は御神号を奉じ玉室大明神と崇め山上に祭祀された。
その後、横倉大権現と称された時代もあったが、明治元年(1868)四月、御嶽神社と改称、更に昭和二十四年(1919)十二月、神社本庁により横倉宮と改称された。(横倉宮の由緒より)
*横倉山に祀られているのは、平家の守護神、熊野権現であるとはじめて知りました。熊野権現のご本体は瀬織津姫と聞いています。
昨日も書きましたが、エジプト文明においても、シリウスの女神イシスさんの背後に隠された女神の存在が瀬織津姫さんソティスさんということです。
主人がたまたま宿を予約した、場所の周囲にイザナミ神社があり、その回りには水波能売命神社もあるようです。なんか凄すぎます。
http://sueyasumas.exblog.jp/14094988/より引用!
徳島県を東西に流れる大河「吉野川」東西に流れる大河って。
そして「吉野川」は、朝日と夕日を見る事の出来る貴重な大河なのです!!
そのまた下流には、日本最大級の川中島の「粟島(現善入寺島)」には、「阿波忌部」の聖地がありました!!
すべてが、洪水のハンディはありますが、見返りとして肥沃な土壌となり、多くの作物が豊かに育ちました!! 引用終わり
まさにエジプトナイル川氾濫の女神ソティスだ。
越智氏の祖は物部…ニギハヤヒ?
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.htmlよりふたたび引用抜粋
「旧事紀」では、越智氏は「饒速日」を祖とする物部氏の出であるとしてある。
「物部大新河」の孫「小市国造小致」を越智氏の祖としている。
越智氏が古くから奉祭している「大山祇神社」の祖神は「 饒速日命」であるとも言われている。この神社については謎が多いが「神武天皇の東征に先駆け祭神大山積大神の子孫にあたる「小千命」が四国に渡り大三島を 神地と定め御島として大山積神を祀ったのが初めである」と由緒されている。
(大幅に省略)
ここで宇佐神宮の社家に伝承されているという宇佐氏伝承系図なるものを紹介しておこう。これは宇佐八幡宮の宮司であり、宇佐氏の当主であった宇佐公康氏が近年(1990年)書いた本の中で記したものである。参考系図参照。宇佐氏そのものの論考は別途行う予定である。
信憑性は、全く疑問らしいが、非常に変わった系図である。
ここで登場する神武天皇は、記紀に示された神武天皇とは全くの別人である。
著者は、記紀の記した神武東征神話は、実際はここに記した神武天皇なる人物をモデルにしたもので、この人物は安芸国厳島で死亡している。時代も全く異なるとしている。
この神武天皇と宇佐氏の当主、宇佐津彦の妻(宇佐津姫)との間に産まれたのが「宇佐都臣命」で、これと越智氏から略奪してきた「越智宿禰女常世織姫」との間に産まれたのが、「宇佐押人」でこれこそ後に本当の応神天皇となる人物であるとしている。
この流が現在の天皇家であるとしている。一方その天皇家の弟流が宇佐氏である。としている。
宇佐八幡宮が何故応神天皇を祭神としているかは、このことからきているのである。
いやはや、とんでも系図である。一般公知の宇佐氏系図とは、ある点では似ているが、その初期部分が全く異なるものである。これはずっと秘伝として宇佐氏の当主にのみ伝わってきたものらしい。
ここに越智氏の娘が関与している。応神天皇の母である。応神天皇のところで皇統譜は途切れているという学説は、現在も根強くある。河内王朝説もその一つである。
神功皇后は、記紀の万世一系の天皇家を貫く為の創造人物である。とする説濃厚。
それでは15応神天皇はどこからどういう素性の者かは、学者は語ってくれてない。
宇佐氏は、これぞ極秘の古代史であるとしている。この伝承系図もよく見れば皇統譜は繋がっているのである。ここでは触れない。
奈良時代、宇佐八幡宮は、格別の扱いを受けてきたことは事実である。それにしても?の系図である。歴史の謎である。この本は一度読むことを薦める。但しかなり難解である。以上、引用終わり
ここで唐突に…宇佐神宮が出てきたので驚きました。
また、物部氏の拠点の一つであった、北九州小倉南区の神理教の幼稚園より、今年もハーブの講習会を頼まれています。
伊予の国にはまた、徳島の霊山 剣山と並んで名高い石槌山がある。この山は主人の母方の祖父がよく登っていた山だそう。主人が幼いころ、祖父の家に行くと、ホラ貝、天狗のお面、つえがあって、おじいちゃんが吹いてくれていたと記憶しているようです。
私は実の父と4歳で別れ、主人は実の母と5歳で生き別れています。
http://yogananda.cc/spiritual/141.htmlより引用
かごめかごめ 籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀と(が)滑った
後ろの正面だあれ?
四国は八十八カ所巡礼が有名ですが、
その四国には霊山と呼ばれる山がふたつあります。
ひとつは石鎚山、もうひとつは剣山です。
四国はこの東西二つの山を中心に
気が横向きの8の字形に巡っていると言われています。
剣山の山肌には自然石で作られた鶴と亀の形をした岩があり、
昔は鶴亀(つるき)山と呼ばれていたそうです。
その鶴と亀がまだ薄暗い黎明の時刻に滑り、
あわ(最初の文字と最後の文字が合わさって “神” の意味)の道(淡路島)を通り、
神の戸を開いて中に入っていった、・・・
○まとめ
昨日の夢 海神族の父からのメッセージをはっきりと受け取り、育ての父ー生みの父の愛がひとつに繋がった気がしています。
そして地底と海底がひとつになったようにも。
プレアデスーシリウスの統合がいま、じぶんの中で成されようとしています。
天皇ーイスラエルー過ぎ越祭り 出エジプトの記憶が…よみがえる時、大いなる旅の目的は成就するのだろうか。
壮大な旅をいま、生きています。