魂からのメッセージ 3/3 |
人生遍歴にそなえて故郷から授けられる、善き天使である。
それは人生の旅路を通じて、人間の忠実な伴侶である。
そして、それが人間に付き添うことによって、
人生は、真に内的に生き生きしたメルヘンとなることが出来る。」
これはシュタイナーの有名な言葉。
私たちは20年学んだ人智学から多くを得ました。
人と人との間で生きる光、自己と他者を観じ生きることの大切さを。
最近、又今の意識の光でシュタイナーの言葉をとらえなおしています。
いま、なぜシュタイナーを時間をかけて学んだかも、わかる思いがします。
そして、それを踏まえて、今に生きています。
何か出来事がおきて、感情がわき上がる、それを統合しようとするプロセスの中に
魂の記憶が起動する。そことここがつながる•みたいに。
そこで必然の出会いがある、人、神話、場所、聖地…
誰の中にも生きている神話、伝説。
使って来たー守る為に、生き抜くためにー
エネルギーのバイブレーションを統合するための歴史、神話、物語、何でもいい。
それぞれがイメージしやすいものを選んでいる。
その土地の霊的なマスターが教えてくれるたとえ話、精霊や神々が語ってくれる物語に耳をすませているのだ。地球の叡智が教えてくれる。
もう、守り続けなくてもいい、恐れなくてもいい、手放すのがいい、と。
誰の中にも“仲哀”はいて、神功皇后はいる。夫婦のカルマを映し出す鏡のように。
ツインフレームの物語。統合するために、見せてくれていること。
今,巡り会う奇跡を日々生まれ変わる今を…
タイムラインの統合
すべてにとらわれず、夫婦で心をあわせて 融合し、本来の光を拡大させなさい
wilkipediaより抜粋
秦氏 [編集]
秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万(19万ともいわれている・諸説あり)もの人々が日本に帰化したと伝えられている。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住んだのだが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったという。
秦氏は非常に有力な一族で、794年の平安京は秦氏の力によって、事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があった(ちなみに、羽田孜元首相は秦氏の遠い親戚に当たるという[要出典])。
秦氏に対し、佐伯好郎が1908年(明治41年)1月に『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」で秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であると考察した。その内容は、「大闢大主」は、中国の景教の経典においてはダビデの意味であり、秦氏の建立した神社である大避神社(大酒神社)と、また景教の寺は「大秦寺[28][29]」で太秦と関係があるといったものである。
秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰にも、古代ヘブライの信仰と類似している点がある。八坂神社や伊勢神宮の周辺などに、「蘇民将来」という伝承にまつわる護符があるが、ここにもダビデの紋章が出てくる。また、Yashashkar(ヤ、シャッシュ、カル)とは10支族の一つイッサカル族( Issacar,יִשָּׂשׁכָר)のアラム語における呼び名である。
宮沢正典は著作『増補ユダヤ人論考-日本における論議の追跡』(新泉社 1982年)64-65ページで「うづ」はアラム語・セム語のイシュ・マシャであり、イエス・メシアを表す言葉であるとした[30]。
太秦にある秦氏の神社である蚕の社には三位一体神を意味する三柱鳥居という変わった鳥居があり、アメノミナカヌシ神をその祭神としていたが、元伊勢である「眥(籠)神社」に伝わる海部氏勘注系図(国宝)によれば、日本の天地創造の三造化神の筆頭である天御中主神(アメノミナカヌシ神)は、伊勢神宮外宮の祭神、豊受大神のことであると明記されている。
秦氏は弓月の君(ゆづきのきみ・ゆみつきのきみ)と呼ばれていたとされる。弓とは英語でアーク、そして、弓に矢を通した形状は三日月に似ている。つまり、月と関係している何かを持っていたのではないか、弓矢などの武器を扱っていたのではないか、と推測出来ないことも無い。
留意点(秦氏) [編集]
日本とイスラエルの類似性については、ユダヤ系キリスト教徒ともいわれる秦氏(秦一族)の活動が影響している部分があるとの指摘がある。ケン・ジョセフ『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』徳間書店 では以下のように述べられている。
秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰しアッシリア以降の中東の共通言語であるアラム語を話していたとされ、ユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年ころから数回にわたって日本に渡来したとされ5世紀末には2万人程度になり、背が高く特徴的な容貌であったとされている。5世紀末に、秦酒公は日本酒技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされている。秦氏は絹技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕え、絹事業(ハタ織り)で財をなして豪族となり、皇極天皇(642〜645)に関する日本書紀(720年成立)ではウズマサ(アラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)(インド北部ではユズマサ)に由来するともいわれる。)(ヘブライ語でヨシュア・メシア:選ばれた者ヨシュア、ギリシャ語でイエス・キリスト)を信仰する豪族として秦河勝という人物が登場する。さらに、秦大酒は748年に大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれる。秦氏は京都の太秦を本拠地としつつも、一部は大分の宇佐に住み、一説には710年ころに成立したともいわれるヤハダ神(YHWDH:ユダ/ユダヤ)を信仰し八幡神社を創設した。Yahawada (יְהוּדָה)とはアラム語で失われた支族のユダ族を意味する。八幡神社は749年ころに急に勢力を持ち始め、大きな勢力となって奈良に上京し、このときはじめて神輿をもたらし、これが神輿の起源ともいわれ、八幡神社は全国に広まった。
ユダ族のスケッチ
秦氏は平安京の造成に尽くしたとの説もあり、仏教勢力から逃れるため794年平安京遷都が行われ、その直後に京都で祇園祭が始まった。また、秦公伊呂具は稲荷神社(イナリ:JNRI/INRI:ユダヤの王・ナザレの・イシュ(イエス):当時の支配者ローマの公用語ラテン語でのキリストの別称)を創建したとされ、さらに元伊勢には秦氏の関与するものが多く、伊勢神宮の遷宮に関与したとの説もある。松尾大社は秦都理が創建したといわれる。京都の下鴨神社は秦一族の族長を記念して建てられたともいわれ、皇室の儀式を多数執り行ってきた。景教はユダヤ教に近いとされるがキリスト教であり、秦一族は南王国に由来するユダヤ人との見方が有力である(ただし、秦一族には舟の家紋を持つものが多く、十支族のゼブルン族が舟の紋章を持つこととの関係も指摘されている)。ウズマサ明神を祀る京都太秦の大酒神社は古くは大辟神社といい、大辟は中国ではダヴィといいダビデを意味するとされる。また、秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)はユダヤ人あるいは天狗のように鼻が高い。
なお、神社神道の起源に関して、そもそも神社の創建は、仏教の寺院に触発されたものと推測されており、神社の創建は仏教伝来(538年)以降とする説が有力であり(『神道概説』学生社)、最初の本格的仏教寺院は飛鳥寺(596年)といわれる。そして例えば最初の伊勢神宮の創建は674年とする説が多数説とされる。
画像//秦氏の拠点、香春神社にて2012.4.2
龍の彫り物(しめ縄に隠れ、見えずらい)
ロングイと鳳凰(電灯に隠れている)
観音様、後ろに鹿