知りたい!という願いは愛へとつながっている |
この力強い衝動に従っていると、いつでも胸の中が高まり、
情熱が、自分への愛となってどんどん大きくなってゆくようです。
次々に扉が開いて、その扉の先に広がる光景を見て、
驚き、胸振るえる…この連続です。
私たちが意図し、決意すると、頭では追いつけないほど早く“光”は動き、
自分に必要な豊かさを創造していく…
だから、自分の魂の衝動に正直に。
どんどんスピードは早くなっています。
今日も朝からスムーズに流れるように青龍窟へと向かいます。
スピリットが私とともに共同作業をしているかのよう。
身体が動かない時ややる気が起きないときもあれば
今日のように、朝からどんどん片付けをこなしてあっという間に家を
出る準備が整い、主人も驚いています。
朝は昨晩、書いたような経緯があり、蒲生神社に参りました。
私たちが参拝した直後に、境内にたくさん人が増えていてびっくり。
会社関係の御祓いでしょうかね。
清々しい神社で昨日の3女神を思い浮かべていました…
車の中で…急に昨晩眠る前に、(昨日実は眠れなくて3時頃まで起きてました)、
ある方たちのことが思い出されました。私たちがお慕いする近所の老夫妻です。
はいからで、博識で、チャーミングなご夫婦。ご主人はもう80才になられるとのこと。
一昨年はヨーロッパの建築の映像をお宅の映写機で見せてくださいました。
お2人はきっとこのあたりの歴史に詳しいはず。聞いてみよう!
その事を主人に伝えてまさに5分後!道を歩くご夫人の姿をみかけました。
あっ!先生。ということで主人が車から降り、走っていき、おたずねしました。
あいにく、ご夫妻はいろいろな場所を転勤で動かれていたため、郷土史については
あまりお詳しくないのだそう。けれど、郷土史の先生を紹介しますよ、と云って
くださいました。やっぱり朝から凛として、笑顔で答えて下さったご様子。
いつお会いしても素敵です!
そして思いはすぐに現実化しますね。最近は大変早く!
必要な時に必要な豊かさがもたらされる♪(もちろん、物に限りません)
その後、平尾台方面から青龍窟へ。今日は、椿市の廃寺跡に立ち寄ってみることに。(先日、掲載)
看板も何も出ていない場所なので、非常にわかりにくいですが、畑のちょうど真ん中あたりにそれらしい雰囲気の場所があり、それを目指して歩いていきました。そしてそれはやはりそうでした。
現地には、行橋市教育委員会によって立てられた説明板があり、それには次のように記されていました。
椿市廃寺は、九州における初期寺院の一つで7世紀末から8世紀の初めに建てられた古代寺院跡である。
現在までの調査により、椿市廃寺は塔、金堂、講堂といった主要な建物が南北に一直線にならぶ九州では稀な四天王寺式の伽藍配置である。
講堂跡は、遺構の保存状態が良く乱石積の基壇や礎石が残っている。建物は7間×4間で、基壇の規模は、東西27m、南北18mほどである。
塔は、参道の西脇に心礎が残っている。花崗岩の巨石で上面に直径65㎝の円形の柱穴がある。この心礎は、現在の位置より約20mほど南から出土したと伝えられ、その付近に三重塔が建っていたと推定される。
本尊を安置した金堂の遺構は未確認であるが、講堂と塔の間に位置するものと考えられる。
講堂の東側では回廊跡と考えられる柱穴の列が見つかっていて、東西74m、南北100mの範囲に主要伽藍があったと考えている。回廊の外側でも寺院に関連すると考えられる建物跡が確認されているため、寺域はさらに広がるであろう。
出土する瓦の文様には、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅など三国時代の影響が認められるものが多い。また、奈良の平城宮と同じ文様(同笵)の瓦も出土していて、中央政府とも何らかの関係があったものと思われる。
このように多彩な文化に彩られた椿市廃寺は、古代仏教文化を考える上で極めて重要な史跡である。
なんか凄い…インターナショナルかつ最先端の建物だったようだ。
おそらくこのあたりは古代、非常に重要な場所だったのではないかと思われます。
今はひたすらのどかな田園地帯ではありますが。荘厳な寺院があったことが想像されます。青龍窟との関係についてもまたさらにクローズアップしたいと思います。
私の中にある…
九州古代王朝ー多次元論がますます、リアルに展開する!
今日、調べていて腑に落ちた記事があったので、ご紹介します。
引用抜粋〜http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/mate/on-kaiin/FrtNws931.htm#93mkj 万葉集の軌跡より
しかし今度、藤原京から平城京の遷都に伴い、飛鳥四大寺である大官大寺、法興寺、薬師寺、川原寺(弘法寺)がそれぞれ、大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺と名を変え、またかつての飛鳥四大寺の現物の全部と言わないまでも一部が移建・移座にあったことを見るなら、『日本書紀』が天武による九州から近畿での大和朝廷の開朝を隠すために、筑紫から豊前への神武東征の豊前王朝の開朝を、瀬戸内海経路の一行を造作することによって、天武の大和創業の業績を隠し、天智を新皇祖とする正史を完成したことを思うとき、天武のよる九州から近畿への遷都を我々は押さえそこない、それに伴う九州から近畿への大寺の移建・移座を見失ってきたのだ。
そのことについて私は『大和の向こう側』(五月書房)の「双子寺の遠景」の中で、天武紀の中の飛鳥寺の騒動は、この九州から近畿への移建・移座問題に反対する急先鋒による、豊前の飛鳥にある椿市廃寺跡にあった元興寺に展開した事件であったと、私は今にそこに残る願光寺(ガンコウジ)の音から幻視した。この移建・移座によって近畿の飛鳥寺の金堂に本尊が入らずてんやわんやしたと言う事件が、推古紀にさも創建時に起こった事件のごとく記録されたのだ。しかし本尊の入らない金堂の設計なぞありえないから、これは椿市廃寺跡にあった元興寺からかっぱらってきたのは明らかだ。こうして九州→飛鳥→奈良への遷都に伴い、九州の元興寺は飛鳥の法興寺、そして奈良の元興寺と二遷したなら、他の大寺についても九州からの飛鳥への移建・移座について私は幻視するほかないのだ。
その過程で私は川原寺はカワハラ寺ではなくカワラ寺としたことによって、他の九州の三寺は百済寺→大官大寺、香春寺→川原寺、薬師寺→薬師寺としたが、その九州の薬師寺が、なんと九州の大善寺跡にあったと『吉川旧記』はするのだ。
その部分を『吉川旧記』から摘記するなら、第二十一代吉山久運は僧安泰を六六九年に渡唐させ、翌年に帰朝した安泰は高良社の傍らに、後の天武天皇の為に御廟院高法寺を建立したという。その安泰の弟子となった久運の嫡子秀丸がまた薬師像を安置し薬師寺を始めたらしい。問題はその僧安泰が六八〇年に遷化し、六八八年の久運の死去を境に、吉山秀丸が薬師寺姓に改姓している事実である。
九州における廃仏毀釈は、私の理解によれば六八〇年を境に、「飛鳥寺の西の槻の枝、自ずから折れたり」という記述を引き継ぐように、正史は飛鳥寺の僧弘聡の死、六八四年の僧福楊の獄死を告げる。私はその飛鳥寺を豊前の椿市廃寺跡にあったとし、天武の仏教政策は九州仏教を借りて大和仏教を興すものとしてきた。このとき九州の名刹のほとんどが軒並み移築・移坐を迫られる廃仏毀釈であったというわけだ。このため飛鳥寺あるような抵抗も生じたわけだ。その六八〇年に久留米の高法寺の僧安泰が遷化したことを『吉山旧記』は伝え、天武が同年に飛鳥での薬師寺の建立を皇后の為に発願したと『日本書紀』は記すのは偶然ではありえない。
引用終わり。
まさに、まさに…
さて、その近くにあったのはまた貴船神社。
この神社も独特の雰囲気を放っていました。
大変古い社のようでした。神社横の民家の犬がえらく吠えて…急かされました。
そして今日も青龍窟へ。
子ども連れでないのは初めてです。今週、原エツコさんとまたお参りさせてください、そして、私たちを導き、見守っていてください…と静かにお話しました。
小雨が降っていて、とても静か。青い光が2〜3回フラッシュしたように見えました…すべてが青く、そして龍の姿があらゆる壁面に映し出されるような。これまでとはまた少し異なる感じ方でした!
青龍窟から戻って車に乗り込んだ途端、急に眠くなり、起きていられなくなりました。
時々ある…ド〜ンと多次元へつながる時のような眠気。まさに眠気に落ちる、です。
目が覚めると、もう家の前、主人は車から降りて何かをしているようです。
私がつかの間、竜宮城に行っている間に…物理次元ではずいぶんと事が運ばれていた…
まさにそんな感じでしょうか。
今日も不思議な流れを痛感しました。
人の優しさや愛に触れ、光の次元でいま、
より力強く使命を生きる意志を確認させられました。