山口、島根の旅/地底奥国とダイレクトにアクセス3 |
やつかみすおみつぬのみこと…は土蜘蛛でしょう。
土蜘蛛の長。出雲の雲は土蜘蛛の蜘蛛。
いつかメッセージで聞いた言葉。
藤原のくもなる存在。
古代の鉱床、水脈を守るアースキーパー。
以下はhttp://woodenplane.air-nifty.com/log/cat21239483/index.htmlより抜粋
クモ――雲と蜘蛛
◆山城の伝説
「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録されていた「雲とクモ」という伝説(36P)。
島根県邑智郡邑南町(旧石見町)にある雲井山。標高430メートルほど。山城があったという伝説がある。蜘蛛が雲を吐いて敵を惑わせる守りの固い 城だったが、沢に水を汲みにいった娘が姿を消すことが度々あった。老人たちが引き止めたにも関わらず、人々は蜘蛛を殺してしまう。結果、守るものがなくなった山城は落城したという話。
http://iwami.web.fc2.com/ibara.htm
島根県邑南町(旧:石見町)の城 ←こちらのサイトで雲井城が紹介されていた。
いわがみさん――石見天豊足柄姫命
◆石神社
碑文の解説
石神は石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神でありその伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見国をお開きに なって民に功徳を与えられたので民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであったその位式内にのっているのを観ると当時の御殿がいかに大きく しかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが数百年明治の世になって藩を廃し県が置かれ信寛この地方を治める 事になって朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を造ってお祭りをし県社とすることを議り県民をして末 永く尊崇するようにしむけた
この事をしるす為に石に刻みつけた
碑文の解説。
「岩上は今の石神にて岡田氏の邸やかて其舘の跡ならんと想はる。此の邸内に式内の石見天豊足柄姫命神社あり今は懸社にて郷社を兼ぬ是は穀麻に就て大麻三宮と同時に祀られ給ふ」
「濱田鑑」(藤井宗雄, 安達共栄堂, 1905)p.7
※大麻三宮は大麻山神社と大祭天石門彦社(三宮神社)。
この三社について、「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)に収録された藤井宗雄「石見国式内神社在所考」から引用。
大麻山神社
祭神天日鷲命にて、天石門彦神社と由緒ありて、同時に祀られ賜ひし社なるべし。在所は室谷村にて、大麻山といふ是なり、石見天豊足柄姫命神社
石見は地名なり、祭神世襲足媛命といふは採らず、是は天石門彦神社の攝社ともいふべき社にて、彼神に由緒ある神に坐す、在所淺井村にて、濱田郭内に鎭座す、世に石神と稱する社なり、
大祭天石門彦神社
祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348
邑智郡邑南町の龍岩神社の伝承も紹介されている。姫の名はないが、龍岩神社に掲示された由緒書(「古時抜粋」からとある。おそらく「浜田古時抜粋」かと)では天豊足柄姫命と明示されている。
龍岩神社と古事抜粋(由緒書)、および龍岩(※クリックすると画像が拡大します)。確かに蛇の頭のよう。
碑文の「石と化した」という件は「石見海底の伊久里」という本で引用・紹介されてる。
浜田古事抜粋に曰、八束水臣津野命あもりましゝ時、ひとりの姫神[御名ハ石見天豊足柄姫命]あらはれて、告げていはく、此国ニ八 色石あり。山をから山となし。川を乾川となし。蛇と化て、常に来て民をなやますと、命国蒼生の為に之を亡さばやと、おもほして、姫神のたつきのまにまに (※くりかえし)、其所に到り、其石を二段に切たまへば、其首、飛去て邑智の郡龍石となり、其尾は裂て、這行美濃郡角石となる。是より国に禍なしとて、姫 神いたく喜悦て、やがて吾廬にいざなひて種々に、もてなしつ。かれ命いなみあへで廬にやどりて、夜明て見たまへば、其姫神忽然にかはりて、一の磐となり き。命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき。かれいはみといふと。
独酔園独醒「石見海底能伊久里」(『石見国名所和歌集成』収録, 工藤忠孝/編, 石見地方未刊資料研究会, 1977)p.53
おおざっぱに訳すと……八束水臣津野命(出雲風土記に登場する神)が天下ったとき、ひとりの姫神が、八色石のため石見の国の山は枯れ川は干上が り、蛇を化して民を悩ましていると告げた。命は国と青民草のためにこれを亡ぼそうと思し召し、姫神の手引きのままに赴き、八色石を二段に斬ると、その首は 飛んで邑智郡の龍岩となり、その尾は美濃郡の角石となった。これで災いがなくなったと姫神は喜び八束水臣津野命をもてなした。命はどうにも否むことができ ず、庵に宿をとったが、夜が明けると姫は忽然として一つの磐となっていた。命は訝しくお思いになって、これは不思議な岩を見たことだなあとおっしゃっ た……という内容。「いはみつる哉」を石見の語源とした地名説話的なものか。姫の名を石見の語源とする説もある。
龍岩神社由緒書の後半部分。
「石見八重葎」でも同様の伝説が収録されている。
又有説に邑智郡神稲の郷雲州の八岐大蛇の末葉出て山ハ枯山となし、川ハ干川となして、民を苦む故大穴持命、是を三段(キタ)に切 給ふ。頭同郡邑智郡之内八色石村へ飛て、人馬を苦む。依て村民須佐能男命を祭りて鎮之ハ其霊八色の石となり、須佐能男尊と一所に祭り込、八色大明神と申ス よし、村老人の傳にいへり。此所より石見と申由。(以下略)。
(「角鄣経石見八重葎」石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)pp.5-6
と、八岐大蛇と関連づけされている。ここでは姫神が石と化したという記述はない。石と化したという結末は後に挿入された可能性 もありえるか。
ちなみに、鹿足郡の奇鹿神社にまつわる八畔鹿の伝説でも八岐大蛇と関連づける内容のものもあり、共通性が見受けられる。
「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覽会協賛會/編, 臨川書店, 1986)に掲載されたものでは、茲に又石見にては、石見天豊足柄姫命によりて、開拓豊足(ひらきたら)され、民皆皷腹せる時荒ぶる神あり、東西呼應蜿蜒(えん えん)長蛇の形となりて民(中略)を襲ふ。今ぞ危急といふ秋、姫神出雲朝廷より八束水臣津野命(やつかみづをみつぬのみこと)の來援を得大に撃つて之を三 分し遂に衰亡に終らしめきといふ。かくて凱旋(かちいくさ)の宴(さかもり)に八束水臣津野命以下の將士を慰勞(ねぎらひ)し、夜姫はみまかりて、石とな りたまひぬと傳ふ。
(略)
姫命の身は、まかり給ひぬとも、其功績は常磐堅岩に石となりて傳はるべし(71P)。
これを大ざっぱに要約すると、天豊足柄姫命によって石見の国は開き豊かに満ち足りた。腹鼓を打つように民は平和を謳歌していたが、そのとき荒ぶる 神が現れ東西に呼応、蜿蜒たる長大な蛇と化して石見を襲った。今ぞ危急の秋、天豊足柄姫命は出雲の国・八束水臣津野命の救援を受けてこれを迎え撃ち、大蛇 を三つに断ち切って滅ぼした。その労をねぎらう宴が催されたその夜、天豊足柄姫命はみまかって石となってしまった。姫はお亡くなりになったながらも、その 功績は盤石のものとなって伝わるだろう……という筋になっている。
邑智郡の龍石や美濃郡の角石だけでなく、浜田城・亀山(浜田城創建以前は鴨山)にも祟る石の伝承があったようだ。ただし、江戸時代初期くらいまで 遡るのはともかく、神社創建時代からこのような石の伝説があったとまでは言えないだろう。姫神の荒御魂という見方もできるかもしれない。
◆七条村と孝霊天皇
「石見八重葎」では下記のような伝承も記されている。
石見郷之内
七条村
抑七条村と号以所ハ昔考(※原文ママ)霊天皇此里を帝都にせんとひらき七条迄調、今二条不足に付留り玉ふ故名とす。此天皇陵ハ今吉野にあり。然共実は濱田浅井村の岩神則此御神なり。
高弐百六拾壱石五斗
東上來原村、南ハ長見村、西ハ細谷村、北は伊木村隣り。民業農事を勤。
「角鄣経石見八重葎」(同)p.108
孝霊天皇はいわゆる欠史八代の天皇。後世の創作だろう。
孝霊天皇の母は押姫で天足彦国押人命の娘。
石見を開いたという石見は石見国というより石見郷か。「那賀郡誌」によると石見(いはみ)郷を「石見、濱田、長濱、三階の一部」周布(主不)郷を 「周布、大内、漁山、三階の一部、大麻の東部、井野の一部」としている(91-92P)。浜田川流域から周布川流域、大麻山周辺となる。
まだ続きます!!→http://trakl.exblog.jp/20673832/