玉依姫の生誕地の推定 |
2.5 玉依姫の生誕地の推定
http://kenkokusi.web.fc2.com/tamayori/2.5.html より
ここで、宮処郡(みやこのこおり)とは、現在の京都(みやこ)郡と近年そこから分離独立した行橋(ゆくはし)市を含む地域であるが、さて、では玉依姫はそのどのあたりに住まわれていたのであろうか。
ずばり推定すれば、私は京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の宇原(うばる)神社あたりが最も可能性が高いと考えている。
我々は、「幻の皇祖神系譜」を検証する過程の最終段階(1.4節~2.1節にかけて)において、玉依姫の母が豊玉姫であるとの推論に到達したのであるが、その過程で、豊玉姫が福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の宇原(うばる)神社に、ヒコホホデミと共に海神(わたつみ)の宮から帰ってきたという帰還伝承がある(1.4節)ことを知った。
実はそこでは省略したが、由緒中にはその前後に二神の動向が詳しく示されている。それによれば、二神はまず、宇原神社の沖合いに船をつないで上陸したのであるが、その船は今は化して神ノ島(こうのしま)になったという。これは神ノ島を経由して上陸したという意味であろうから、上陸地はその対岸と思われる。伝承では上陸後、そのあたりの鵜原崎(うばるざき)という清地(すがち)で産屋を造り、そこで豊玉姫が子を出産したとする。
そこから、浮殿に移って、後に今の宇原(うばる)神社の地に移ってこられたというのであるが、神社の東南750㍍ほどの地に九州最大級、最古ともされる前方後円墳の石塚山古墳があってその前方部分に浮殿神社がたっている。おそらくこの地がかつての浮殿であったのだろう。だとすれば豊玉姫の産屋があった鵜原崎という地は神ノ島と石塚山古墳を結ぶ線上にあったことになるのであるが、そこはまさに周防灘に面した宇原(うばる)神社の先(崎)に該当する。
このように宇原神社の伝承を細かく追っていけば、その出産地鵜原崎(うばるざき)が宇原の先として特定できるのである。これほど詳細な伝承が残っているのをみれば、この地で豊玉姫が実際に子を出産したというようなことをむげに否定する必要はないのではなかろうか。問題は、出産した子が記紀の影響でウガヤとなっていることであるが、おそらく原像は玉依姫であったはずだ。憶測を重ねれば、玉依姫はここで誕生し、ニニギこと大己貴と共に日向に天降るまではこのあたりに住まわれていたことを暗示するのが先の『豊前国風土記』逸文の記事ではなかったか。
ちなみにこの宇原神社と神ノ島(こうのしま)を結ぶほぼ線上北側に神田町(じんでんちょう)という地名があって、神という文字が続くことも一層その思いを強くするのである。さらに付け加えるならば、石塚山古墳の南西1㌔ほどの旧苅田(かんだ)村大字(おおあざ)集(あつまり)というところにかつて神集(かんつどえ)神社があって、「往古景行天皇熊襲乃土蜘蛛等親征の砌(みぎり)、周防国より本村大字(おおあざ)尾倉字(あざ)近衛川に着船、一時本所に行在せられ、天神地祗(てんじんちぎ)を拝し、官兵を集め、土蜘蛛(つちぐも )を誅(ちゅう)し、遂に九州を平定す」(『京都郡神社明細帳』)というようなことが伝えられていることや、すぐその南に長峡川が流れていることからすれば、このあたり一帯は景行紀にある長峡県(ながさのあがた)の京(みやこ)とみて間違いなかろう。それを証するように宇原神社と神ノ島を結ぶ線上真中あたりから南側にかけて京町(きょうまち)が神田町(じんでんちょう)に接しているのである。京(きょう)と神田(じんでん)、まさに地名は時間の化石というしかない。
このあたりが、玉依姫の出生(しゅっしょう)、及び生育の地として、その後、日向に降る以前にすでに大己貴とこのあたりで行動を共にしていた様子が田川郡添田町(そえだまち)のホームページから次のようにうかがうことができる。
「昔、大国主が宗像三神をつれて出雲の国から英彦山(ひこさん)北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把(ばひ)を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(そえだ)(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという」
ここで大国主とは大己貴で、宗像三神とは宗像三女神こと玉依姫であることはいうまでもない。伝承では大己貴が出雲から玉依姫を連れてきたような表現になっているが、実情は、出雲からやって来た大己貴が豊前国の都があった苅田町(かんだまち)あたりで、筑紫の妻玉依姫を娶(めと)って(あるいはそれ以前に結婚していたのであれば、当地で落ち合って)、その手勢の協力もえながら、南部の添田町から英彦山一帯の平定や開拓を進めていったということではなかったか。おそらく、二人が日向国へ侵攻したのは、この事業が完成して以降のことであったと思われる。
ところで、九州にはもう一点、三女神こと玉依姫が降臨されたと伝承されている箇所がある。それはかつての豊前国の最南端、豊後国との境の宇佐市安心院町(あじむ まち)の妻垣(つまがけ)神社と三女(さんにょう)神社の二社に残っているのであるが、この降臨の意味は生誕地を意味するのではなく、この地に一時期滞在されたとおぼしき節があるので、そのあたりを次頁で確認したい。