カル、カラの響きにこだわりハートで辿り続けてきた理由は深かった。その1 |
カリア人とは何だろう。エジプトの古い言い伝えによれば、紀元前の地中海は「カルの海」と呼ばれ、小アジア(トルコ半島)のカリア人や、エーゲ海のクレタ人、北アフリカのカルタゴ人やフランス、イギリス、アイルランドのケルト人も同じカル族(カラ族)の仲間だったという。
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下記は、 http://xn--pss25cwymizf.net/link8.htm さんより引用!!
世界最後の謎を解き明かす
ムー大陸探検事典
アトランティスとムーの戦いはいまだやまず……
ヒトラーの最終指令「失われたラ・ムーの空艇と地下都市を発見せよ!」
探検仮説
1)伝説のアトランティスとは歴史上のアッシリア、ムーとはカーリア(カラ族=原日本人)のことである。
2)C14年代の1万2000年前は、文献・碑文から明らかになった歴史年代の紀元前687年に相当する。
3)太古の高度な文明は“バーラタ=トロイ核 戦争”で滅んだ。
4)この戦争にともなう地軸の変動で太古の宇宙文明が滅んだことが、当時の地下都市に残された碑文などによって確かめられる。
5) ムー文明は太古日本の宇宙文明であった。
6)ムー王国は夏・殷・周の名で知られている古代日本の世界王国だった。
7)世界各地の文明は、日本人の祖先 カラ族が建設した。
8)日本は地球最初の国家ティルムン(東大国)の継承国家であった。
9)太古日本の王は世界を治めたーそのことは世界各地に残され た日本の神代文字碑文の解読結果から証明できる。
10)太古日本のムー文明が今や21世紀によみがえろうとしている。
世界最後の謎を解き明かす
ムー大陸探検事典
監修:高橋良典
編著:日本探検協会
ナスカ平原に描かれた地上絵
チャーチ ワードは語るー「今から一万二〇〇〇年以前に栄えたムー大陸の住民カラ族は、イースター島からアメリカに植民してカラ帝国をつくると同時に、インド方面にも植民してナーガ帝国、ウイグル帝国などをつくった」と。彼の説く「ムー文明」がかつて宇宙規模の広がりをもつ「空艇文明」であったことは、のちに概説す るとおりだへ第8章参照)。 が、はたして、チャーチワードの仮説に登場するカラ族が世界各地にムー文明の都市をつくったというのは、考古学その他の学問から明らかにできる確かな事実 なのだろうか。この点に関し、地球文化研究所の高橋は、ムー文明時代のカラ族が世界各地に雄飛していた当時の証拠を求めて、過去二〇年余り調査を進めてい くうちに、以下に述べる貴重な手がかりをつかんだ。つまり、われわれは今のところムー王国の実在を直接的には証明できないが、『契丹古伝』という稀有の書物に記された東大国と、そこに登場するカラ族の存在を明らかにすることによって、間接的にムー王国の実在を証明できるのではないか、という見通しを得たのだ。
「いさかひを避け、とこしへに温れむいのちを重ねしめよ」と記されたエクアドル地下都市出土の黄金の胸飾り
証拠1
大いなる『契丹古伝』
今から一〇〇〇年ほど前(九四二年)に遼の史官を務めた耶律羽之の手に成る王家の書『契丹古伝』は、.や まとふみししとさつかみすち『耶摩駝記』『氏質都札』『汗美須鍾』さいせいしようしよひ『西征頚疏』『秘府録』『神統志』『費みこくししんいんたいき彌国 氏洲鑑』『辰殷大記』『洲鮮記』の九つの史料をテキストとして編纂されている。そこには、今日のわれわれが三〇〇〇年の時の流れの中で転変と流移の果てに 忘れ去ってしまった、はるか昔の日本人の祖先の歴史が脈々と息づいている。『契丹古伝』の目的は、建国まもない遼(契丹)の 王家がみずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原支配に抵抗する周辺諸民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。が、同書は結 果的に、われわれ日本人が今となっては入手できなくなった、『耶摩胎記』をはじめとする八世紀以前の古代史料を駆使することによって、記紀や他の古史古伝 から洩れてしまった渤海滅亡以前の高句麗・日本の太古史を明らかにしている。
太古日本の歴史は、その内容があまりにも通説とかけ離れているため、これまで欧米や中国の学者が流布 してきた世界史の常識に従えば、全くの空想としか見えない。が、『契丹古伝』によれば、われわれ日本人と契丹人の共通の祖先である東大神族の歴史は、過去 三〇〇〇年にわたってエジプト、シュメール、 インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアトランティス人、つまり漢人として知られる欧米の支配階級アッシリヤ人〜アーリヤ人の手で抹殺され、 改ざんされてきたという。つまり、われわれがこれまで教わってきた紀元前の日本と世界の歴史はすべて虚構であり、われわれの祖先の真実の歴史、カラ族(タル族)と呼ばれてきた東大神族がかつて地球のすみずみに築き上げてきた輝かしいムー文明の歴史は、アトランティス人(漢人〜アーリヤ人〜アッシリヤ人)の手で巧妙に流布されてきた歴史の通説にひそむウソを暴かなければ明らかにできない、ということを同書は訴えているのである。はたして、『契丹古伝』に書 かれていることは、全面的に信頼してよいものか。そこに記された東大国は本当に紀元前七世紀ころ、地球の大部分を治めた国だったのか。
↑サハラ砂漠に描かれた太古日本人の岩絵と文字
↓アフリカに侵入したアトランティス(アッシリヤ)の同盟軍と戦うムー(カーリァ)の戦士たち
↑サハラ砂漠の伝説の都イジュンハンの位置を示す地図
また、当時の東大国王スサダミコが歴史的に実在したとすれば、その証拠は、世界各地にどのような形で残っているのか。今、われわれが明らかにしなければならない疑問はあまり にも多く、一朝一夕には解決できそうもない。けれども、高橋は、彼自身の専門分野である古代文字の研究を通じて、今では『契丹古伝』に書かれていること が、ほぼ全面的に正しいのではないか、という見通しをもつようになった。『契丹古伝』に記された東大国の伝説の都をいくつか現地調査していくうちに、彼 は、日本神話の高天原が東大国の中原地方(日本からインドに到る地域)に実在したことや、アンデス・ヒマラヤの奥地にムー文明の痕跡が残されていることを突きとめた。そればかりではない。以下に記すごとく、『契丹古伝』に書かれたとおりの「歴史の抹殺」が、奈良時代以前の日本で実際に行なわれた証拠をつかんだのである。
ムー(カーリア)との戦いを示すヒッタイトの壁画
抹殺された神代の記憶
一九九三年に遷宮せんぐうの 大祭を二十年ぶりに迎えた伊勢神宮。その伊勢神宮の境内にある神宮文庫に古くから収められた史料は、奇妙なことに、漢字でも仮名でもない不思議な文字で書 かれている。この由緒ある神社に源義経や平将門が残した歌、菅原道真や稗田阿礼が奉納した詩歌に、現在のわれわれが知らない文字が使われているのはなぜ か。これまでわれわれが学校で教わってきた歴史によれば、古代の日本に漢字以外の文字はなく、漢字以前の文字もなかったことになっている。ところが、実際 に古墳から出土しかめかんた鏡や、甕棺に副葬された弥生時代の遺物、各地の博物館に収納された縄文土器を丹念に調べてみると、それらの表面には、伊勢神宮 の奉納文に使われているものと同じ文字が刻まれている。
新しい読み方 ヒツキヲアタヘム
従来の読み方 日之光天下大明見
鏡(模写)と解読結果(東京国立博物館蔵)こ の章で紹介したいくつかの例を見てもわかるとおり、漢字伝来以前にそれらの文字が使われたことは確かである。にもかかわらず、奈良時代に成立した『古事 記』や『日本書紀』に漢字しか使われていないのはなぜか。今日の学界では、江戸時代に本居から宣長が「上古文字なし」「漢ごころを廃せ」と主張して以来の しきたりに従って、古代の日本には文字がなかったことが通説とされている。が、事実に即していえば、古代の日本には縄文時代から文字があったし、漢字以外 に旧字と新字の区別があったことは文献にもはっきり記されている(書紀・天武十一年の記載ほか参照)。宣長は『日本書紀』を軽視するあくだりまり、同書の天智六年の条に記された「築紫都督府」の設置とそれに伴う「漢字使用令」が、カラ心を廃してアヤ心を育てたことを見過ごしてしまった。再び事実に即していえば、古代の日本から神代の文字とカラ心が消されてしまったのは、六六三年の臼村江の戦いで、カラ族(日本)がアヤ人に決定的な敗北を喫したからである。つまり、われわれがカラ族固有の文字で記録された太古日本の輝かしい歴史をことごとく見失ってしまったのは、臼村江の大戦後、九州の大宰府に進駐して日本占領軍司令部、築紫都督府を設置したアヤ人ら(唐の軍人官僚二千余人/書 紀・天智八年の記事参照〉の陰謀により、それまで使われてきた神代文字の使用を禁止され、漢字の使用を強制されたことが最大の原因なのだ。「築紫都督府」 が唐の占領軍司令部を意味していることは、この時期に日本とともに唐と戦った百済と高麗のそれぞれの都が、唐に敗れたのち、「熊津都督府」「平壌都督府」という、同じ「都督府」の名称で唐軍の占領管理下に置かれた例を見れば明らか太 古の秘密を記した宮下文献である。この時代に、われわれはそれまで使ってきた固有の文字を公式の書物に用いることをやめ、神代文字で書かれた古史古伝を、 『古事記』『日本書紀』のような漢字表記の書物に書き改めた。その結果、白村江の敗戦以前にわれわれの祖先が世界各地に雄飛していた記憶は、地名・人名の 漢字化とともに次第に失われ、日本の有力氏族がかつてインド、ヒマラヤ山脈の麓にも高天原の都を定めて、アジアからアフリカ、アメリカ大陸に到る九州全土 を治めていた時代の輝かしい歴史も徐々に失われてしまった。『契丹古伝』は、紀元前の日本人が、東大神族と呼ばれたカラ族(クル族)の一員として、紀元前のインドでもテイルムン(太古の日本)の高度な建築技術のあとを示すモヘンジヨダロ遺跡活躍していたことを伝えているが、当時の記憶は、九世紀の初めに万多親王らが編纂した『新撰姓氏録』という有力氏族の家系由来記に化石的な形でかすかに痕跡をとどめるのみである。
カル、カラの響きにこだわりハートで辿り続けてきた理由は深かった。その2へ続く!