うなて…ウナタリ |
今日、文珠山から戻り、昼寝をしたら…海龍王寺(奈良法華寺)の風景が。あ、あの奥にあった神社。閉じられてあった。
うなで…昨日から響きます。
行橋、中臣集落、豊前国崎八幡宮の祭神は(うなで)禹名手。
あっそうか。うなたりはうなで。
青龍窟、宇原神社のグリッドポイント。
宇奈多理坐高御魂神社 うなたりにいますたかみむすびじんじゃ
祭神は高皇産霊神、天太玉命、天思兼命。別名を「桜梅天神」といい、「宇奈多理」はまた「菟足」「菟名足」「宇奈足」祭神である高皇産霊神、天太玉命、天思兼命を一間ごとにおまつりしています。
本殿の左右に小祠が二棟ずつ並んでいます。右からそれぞれに猿田彦神および手力雄神、天鈿女神、大宮媛神、豊岩窓神の五神がまつられています。
この神社の創祀がいつかは分かっていません。ただウナタリと読む神社については、持統天皇6年(692)の12月に新羅からの調物が奉られた5社のなかに「菟足社」が含まれているほか、天平2年(730)の「大倭国正税帳」にも「菟足神」の名が見えます。
しかしこの「菟足社」「菟足神」が現在の神社にあたるのかどうかは不明で、もともと「菟足社」「菟足神」は別のところにあったとみる説があります。なか でも現在の奈良市横井町にある穴栗神社の近くにあったとする説が有力なようです。その穴栗神社は式内社の「穴吹神社」にあたると考えられています。
そして…本日訪れた文珠山、成仏周辺。藤井…高良…典子ちゃん、ゆきちゃんにも繋がり深い文字がいたる場所に。
トミ 富来、ふき、富山 富気etc トミアキナカオキタラシヒコ
そして昨年訪れた金富神社=元八幡といわれている場所。も藤井と関係深いようである。
金富神社
聖武天皇の神亀元年(724)豊前守男人、藤井連毛が勅を奉じて宇佐小倉山に神殿造営の命で築城郡安岐之水戸(湊)の金冨の岡に神幸されることになり、社殿を建立した。参拝者の中には、金冨の名前にあやかって、宝くじ当選祈願に訪れる方もいらっしゃいます。
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=93-4
N子ちゃんのセッションから…夢のメッセージ 明石
そして西戸崎 藤井のキーワード
http://44051510.at.webry.info/theme/a04a9e43f6.html
3年丙寅秋9月15日、幸 於播磨国印南郡 時、笠朝臣金村作歌一首 并 短歌
万葉集
935 松帆乃浦 藻塩焼
936 船梶毛欲得
938 藤井乃浦 鮪釣 塩焼 蟻往来
場所は福岡市博多である。
難波の歌にある「欲」 の字は首羅の「商羯羅天」 に通じる。
志免町には字「松浦」 がある。
播磨国は志賀島〜鴈の巣で、藤井の浦は西戸崎「藤棚」 である。
藤井の浦の塩焼きは海の中道遺跡「シオヤ鼻」 である。
「蟻往来」 ・・・・ 香椎に字「蟻道」 がある。
通説では藤井浦(藤江浦) は兵庫県明石市西部の藤江の海とされる。
また以下のような説も。
http://akadama.blog.shinobi.jp/from%E3%80%80%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F
そもそも藤原と言う姓は、飛鳥・大原の地が藤井ヶ原と呼ばれていたことに由来します。
『大和志』高市郡の項に 「大原 大原村一名藤原。又名藤井原」とあります。
橘 守部の『万葉集檜嬬手』に
「往古藤井と云う名水あり。清水の上に松栢掩ひたるに、大なる藤はひかかりて日の影を見ざりければ、水無月の望にも歯にしむばかりなりき。其の藤の古株、鷺栖ノ杜の傍に近来までも遺りてありと云々」
ここに書かれた「鷺栖ノ杜」は、「飛鳥座神社」のある鳥形山の東隣にあった
鷺栖神社で、現在は茶畑と稲田になっているが、かっては飛鳥座神社の社地とほぼ同じくらいであったといいます。
そしてその鷺栖神社の社地の東端に鎌足誕生堂(大原神社)に接して藤の木があって、その側に「藤井」と称せられる名水があったところから、この地を「藤井ヶ原」略して「藤原」と呼んだということです。現在も野井戸があるとのことです。
中臣鎌足はその地で産まれ、天智天皇に死の直前、天智8年(669)10月、「大職冠」と「大臣」の称号とともに、地名に基づき藤原と言う姓を与えられます。
ただ木の又から出てきたわけではないですから、その親はと言えば、おそらく河内出身で、中臣氏系図にある、最初の中臣黒田は河内から身をおこしたのでしょう。
但し、「おそらく常陸から河内にでてきたのであろう。」と言うのが、私が導き出した結論です。
それ以前の中臣氏が何処から来たのかは、現時点では不明です。そして何より、中臣氏と言う氏族がどれぐらい遡れるかも確定できません。
藤井が原については…以前ブログ記事にも書いています。
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八幡神とは
八幡神社の総本社は、大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。
元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。
農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。
欽明天皇代(五三九年ー五七一年)に、大神比義という者によって祀られたという。
宇佐八幡宮社伝『八幡宇佐宮御託宣集』では、欽明天皇三二年(五七一年)に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとし、八幡神は応神天皇であるということになっている。
この宇佐八幡宮のいわゆる元宮とされる、福岡県築上郡椎田町の矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮)、現在の金富神社は、「原始八幡神顕現の霊地」であり、他に類を見ないと言う。
宇佐八幡宮の由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」には、今の福岡県の飯塚市大分(だいぶ、嘉穂郡旧筑穂町)にある、大分宮(大分八幡宮)が宇佐神宮の本宮で、筥崎宮の元宮であると書かれている。
現在では、応神天皇を主神として、神功皇后・比売神を合わせて、八幡神(八幡三神)ともしている。
神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれる。
比売神は八幡神の妃神と説明されることも多いが、その出自はよく分かっていない。
八幡神は外来神で、比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説や、比売神は宗像三神または市杵島姫命であるという説、近年では、比売神はヒミコでありアマテラスであるという説も登場している。シラヤマヒメとも。
「八幡」の文字が初めて出てくる『続日本紀』天平九年(七三七年)で、読み方を同書天平勝宝元年(七四九年)の宣命に、「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のよ うに「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読だったが、 のちに神仏習合して仏者の読みの「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
「ハタ」とは、「神」の寄りつく「ヨリシロ」としての「旗」を意味する言葉のようである。託宣をよくする神としても知られる。
称徳天皇が道鏡を次期の天皇にしようとしたときは八幡神の託宣があったとし、和気清麻呂は、宇佐八幡の託宣を受けてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(七四九年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。
天応元年(七八一年)、仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられた。これにより全国の寺の守護神として八幡神が勧請され、八幡神が全国に広まることとなった。後に本地垂迹においては、阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。
また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。
源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれた。
石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。
治承四年(一一八〇年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が、富士川合戦を前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。
静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったという対面石がある。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。
それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。
明治元年(一八六八年)、仏教的神号の八幡大菩薩は明治政府によって禁止され、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の放生会は、中秋祭に改めさせられた。
しかしその後も根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には、「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。
以上が八幡神社の定説である。
イスラエルの転化説?
八幡ー、これは「ハチマン」ではなく、当初は「ヤハタ」と読まれていた。
八幡神社は「ハチマン神社」ではなく「ヤハタ神社」だった。
「ヤハタ」のハタは、秦氏のハタでもある。
八幡の「八」は「多くの」という意味をもち、「八幡」とは「多くの秦氏」のことで秦氏すべての氏神だとも云う。また、八坂(ヤサカ)を弥栄(イヤサカ)と云うように、八幡は弥幡(イヤハタ)だとも云う。
秦氏は本来は「ハタ」ではなく「ハダ」だった。
「秦の字を訓みて、これを波陀(ハダ)といふ」
イヤハタはイヤハダであり、八幡神はイヤハダ神となる。
秦氏がユダヤ人だという仮定がある。
古代ユダヤ人の国は古代ローマ帝国にあった。ローマ帝国は中国では「大秦」と呼ばれ、ローマ帝国から来た者には「秦」、つまりローマからきた人という名が付けられた。
多勢の他国人が集まる中国では、それぞれ自分の出身地が分かるように、名前が付いていたのである。それは日本でも同じだった。
古代の日本列島には、北方・朝鮮半島・江南、あるいは、南洋の島々から、あらゆる民族がやって来た。紀元前には、百余りの国に分かれていると記されていたが、あらゆる人種が出身別に住んでいたのである。
その他国者人同士が交流を持ったとき、どのように名のるのかー。
これは今の日本でも同様であり、××出身の○○と名のるはずだ。当時でもそうだった。
××国から来た○○、と名乗ったはずだ。
ユダヤから来たと自分の言葉で発音する。
ユダヤはヘブライ語で「イエフダー」。
イエス・キリストのアラム語でも「イエフダー」。
これが母音変化した。「イエフダー」が「イヤハダ」に変化したのだ。
つまり八幡とはー、
「イヤハダ」であり「イエフダー」でありー、そしてそれはまさしく「ユダヤ」のことー。
八幡神社とは「イエフダー神社」つまり「ユダヤ神社」。
そして、この「イヤハダ」は地名にもなった。
イヤハダが、イヤハタとなり祖谷端となった。
これがイスラエルからの転化説。
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以上が定説・イスラエル説だが、神代文字の存在を置くと全く異なった解釈が出てくる。
●原典は神代文字・・「八幡」は「ヤハウェ」か
日本では漢字、イスラエルでは古代ヘブライ語で記されていた。
この原典が神代文字で記されていたものを翻訳したものだとすると、事態はまったく異なってくる。
●日本の文字と古代のヘブライ語の共通点は、
二つとも、右から左へ書く文字だった。
日本の左からの横書きは終戦後(昭和20年)以降からで、それまでは全て、右から左へ書かれていた。
●神代文字も、おそらく、原則は縦書き、横書きの場合は右から左へ書いたものと思われる。一例下記。
トツミラヒ神代文字には濁音がない
●元は神代文字
竹内文献は元は神代文字で書かれていたものを平群真鳥が漢字に翻訳したと云われる。
八幡神については、上古25代・ホホデミの命が、その死後、八幡の神として勧請されたと記している。これが原典ではどのように書かれていたかー。
漢字は当て字で、書き手が読み手にどのように読ませたかったのか・・である。
(例)たとえば、下記のような神代文字ではなかったかと思われます。
つまり、八幡神=ヤハウェである。●八幡神=ヤハウェ
●八幡神=ヤハウェで、その元の原典は同じような内容のもので、神代文字で書かれていた。
●古代ヘブライ語自体が、神代文字のひとつだった可能性がある。