未来タイムラインの創造へNo,4 |
そうだ〜その通りだ。今日は思いがけず、繋がったことで、「そうなのです。それがあなたの知りたいことです」と言われているかのような流れ.探求する者として、これほど嬉しいことはない(笑)
ということで丹生神社は素晴らしい輝きだった。とても大事にされている感じがするし、凛とした空気。鳥居に五芒星が掲げられていましたよ!
神社を出た後、すべてのことが自分の中で繋がってきたように感じられ、思わず京田辺のN子ちゃんに電話。ちょうど京都でもマリアさんたちとのワークがあったようです。ここでも同時ワーク!典子ちゃんのご主人のご実家がまさにこのあたりだといいます。
ここは本当に奈良と繋がっています。熊野神社でも。奈良爺碑が立っていました。
今年1月最初に2家族で豊後大野、緒方、祖母山への旅をしました。そのことが思いだされます!
佐賀関…ここは臼杵ととても近いのですね!あらためて地理的な繋がりを認識、出来ました。ここから海を繋いで帰ろう、四国の海だ〜!でもよかったんですが、もう少し時間があります。ここから津久見、四浦半島へは昨年12−12−20に訪れ、プラチナブルーのイルカのエネルギーに浸りました。
四国の神々がたくさんおられました。赤穂樹と夕陽の輝く風景が深く刻まれています。
それでは、臼杵諏訪芝尾(曾祖母の姓は芝尾)の地へと。
ここに確か三嶋神社があるはず!
残りは1時間。(子どもの帰宅時間が気になりはじめます)
主人がいうには、案外近い!
じゃあということで、本当にあっという間に着きました。
下山古墳というのがあります。
そして三嶋神社。下山古墳から5分くらいの場所にありました!
じゃ〜んやはり河野姓。私の実父(4歳で別れた)の姓です。
愛媛県の大三嶋神社へは昨年5月に訪れています。(昨年5月4日〜5日)
その時まで自分自身の名前が四国に関係しているなどどは思っていませんでした。
私は4歳の時に父を失っているし、河野姓をどこかで遠ざけていました。
でも父も亡くなりし今、産みの父、育ての父ともになくてはならない大事な存在だったのだと昨年のルーツを辿る旅を通して深く知りました。昨年の五月にはこの海の向こうの大分県に住んでいるとは思いも寄らなかったので、本当に巡り会わせとは不思議。
とても開かれている印象の神社。拝殿もどうぞお上がり下さいと書かれていて、祖先神によく来たね!と迎えられているような気持ちになりました。ここにこんなにスムーズに、しかも今日、来れるとは思っていなかったので感激です。
私も主人も何度も…同じ祖先を持っていることを見せられています。今生において何度も結婚している、そんな気持ちです。
以下は三嶋社の資料です。
三島神社(みしまじんじゃ)は、大分県臼杵市大字井村に鎮座する神社である。大友氏時代の臼杵五社の一。
武人たちの篤い尊崇を得た伊予国大山祇神社(愛媛県)の分霊を祀った神社ということもあり、戦国大名大友宗麟が丹生島城(臼杵城)に入城して以来、大友氏、太田一吉、稲葉氏などの歴代領主らの崇敬を集めた。
大山祇神を主祭神に、菅原神(2柱)、大年神(2柱)、豊受神(2柱)、品陀和気命、高龗神を配祀する。配祀の神々はすべて神社合祀に伴うものである。
徳治2年(1307年)、弘安の役で武勲を立てた伊予国の豪族越智氏の流れを汲む河野六郎通有の嫡男、河野通忠(柚木谷八郎通忠)が、西海の海賊退治のため、大山祇神社の分霊を奉じて渡海し、臼杵市芝尾に着いたとされる。着岸後、通忠は、芝尾地区にある椎の木(通称「山の神様」)の下に仮殿を造り、その分霊を祭祀した。これが、当神社の旧宮である。延慶元年(1309年)、神宣があって、三ツ梅が実ったという現在の地に遷った。
慶長元年(1596年)から卯の市が始まり、明和9年(1772年)には疫病除のため獅子舞が始まった。文政10年(1827年)、臼杵藩第11代藩主稲葉雍通が老臣岡部隼人治方を遣わせて代拝、幣帛を奉献し、安政6年(1859年)には臼杵藩第14代藩主稲葉観通が参拝している。
明治9年(1876年)に臼杵市大字井村に鎮座する4社を合祀して「井村神社」と改称し[1]、同18年(1885年)4月にも同市大字大野村に鎮座する1社を合祀[2]、同年9月には藤河内神社を合祀した。昭和4年(1929年)3月に拝殿を改築し、同28年(1953年)10月8日、「三島神社」と社名を改称。
三輪流臼杵神楽は、当神社の社家が歴史的にも深く関与していたことが、様々な郷土文献によりうかがえる[3]。
また獅子舞も行われ、これは明和9年に始められ、臼杵では最も早いとみられている[4]。獅子舞の特色は、獅子が胴衣の中ほどに「弓」と呼ぶ胴輪を入れる事、尻には「篭」と呼ぶ尻当てを入れる事、猿面の太鼓打ちが付く事、笛吹きが肩衣を着けている事、の4点である。
稲荷神社(祭神:保食命)、祇園社(祭神:素盞嗚命、大己貴命、稲田姫命)、地主神社(祭神:軻遇突智命)の3社がある。
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とても壮快な気持ちで臼杵の最終ポイントを終え、帰り路、気になったので亀塚古墳、海部歴史資料館に回って帰りました。
ひいばあちゃん、芝尾カメさんのカメに惹かれて。思いがけず、立派な古墳。古代史上でも重要な場所なのですね。思わず柳井を訪れた時の茶臼山古墳を思い出してしまいました。資料館も急ぎ足で見学。海人族の流れを確認させられました。
以下は写真です。
1時間と少しで国東まで帰りつきました。途中、面白かったのは、日出の藤原小学校のそばで電話がかかり、NYから里帰りしているhiroくんが「こうちゃん、今平尾台なんだけど、青龍窟がわからない」との事。ここでまた青龍窟とリンク!車を脇にとめ、説明してました。そうだ、彼もルーツが国東にあるらしい、とこのあいだ、伝えられ知りました。青龍窟、是非行ってね〜と主人は言ってました。後で電話があり、たどり着けたけど夕暮れで、小さな子ども連れのため中まで入れなかった、との事でした(笑)でもたどり着けたんだ。興味あったんだな〜と思いました。
おまけですが、田染を通った時、空にUFOのようなものをはっきり見ました。
サインというかメッセージ。戻ると、またいろいろな事が準備されていました、なるほど!と思いましたよ。