時を次ぐ声 1/2 |
そして娘には「不安な時は、おばあちゃんがいつでも、みもちゃんの味方。電話して来ておばあちゃんには何でも言うのよ」とそっと囁いていました。母も円熟味を増して、本来の賢く気高い存在に近づいています。ひとりでしっかり生きている姿に大切なことを教わっているような。逃げずに伝え、向合ってぶつかりあってきた…これまでの経験を経て、いま、母や主人、主人の姉…とこれまで以上に強い絆で結ばれているように思います。これも先祖の地を訪れ、心で繫がって、自分たちを浄化してきたことと大きく関係していると実感しています。
小倉では朽網のMさんをはじめ、今回も大事なふれ合いを持たせて頂きました。亀ちゃんやS宮さんとMさんが交流できたこと、よかったです。S宮さんにいつも見守られていること、強く感じます。
皆さん、同時進行でK田さんの門司港での3人展に繫がっていました。今回は行けませんでしたが、皆さんから様子を聞いていたので、無事良き流れで展示会が行われたこと、しっかり感じていました。K田さんから今朝、嬉しいメッセージが届いていました。光のメッセージレターであげています。
また、ブルードラゴンを通じて(メールリンク)皆さんのリアルな今を観じとっています。素直に、自分自身のありのままを見せていくこと自体がギフトなのだと、それぞれが深い部分で癒されているのを見て、本当に私たちは成長しているのだと実感しています。素晴らしい皆さんと出会え、交流できて誇りに思います。
昨日、メッセージレターを送ってくださったイシスさん、メールを粟島神社で受け取りました。広島安芸の弥山に行かれるとのこと、またどんなギフトを受け取って帰られるのか、楽しみです。
一昨日は国東へ戻る、車中にて、幼なじみのべんちゃんからのメールを受信。べんちゃんは、東京芸大を経て、独特の活動をしている人。彼女のおかげで私の青春時代は楽しかった!アーティスティックな感性は高校生の頃から。主人と私を結びつけてくれた、存在。このタイミングで!凄いな〜 何だか胸がときめいて、眠れませんでした。会いたいな〜今度自転車で九州横断するのだそう(笑)やっぱりべんちゃん。彼女は現在、大学の先生らしいのに、変わってないな。嬉しい〜
そして昨日は…なんと、国東に初めて北九州の友人たちが来てくれました!祝。朝からわくわく、皆に挨拶の練習をしていました(笑)それくらい、ハイテンション。「ようこそ、国東へ。」ようこそ、ようこそ♪きゃ〜嬉しい。まだかな。ちゃんとわかるかな。
たーたん、よっぽど嬉しいんやね、と子どもたちもワクワクして、皆さんを待っていました。最初に着いたのはK西さん。きゃ〜と抱き合いました(笑)もう喜びマックス。そして亀ちゃん、ひとみちゃんと皆スムーズに、村長の家に(笑)到着。(村長の家とは引っ越し屋さんのお兄ちゃんが
我が家の雰囲気を表現したのを子どもたちがいまだに使ってる)お天気は最高。子どもたちも再会を喜びあっています。夢のよう。いいところだね〜周波数が違う〜と仲間が言います。
お茶を飲んで、今日の流れを説明。亀ちゃんが言います。ここに来る時に森、森中の地名を通ったよ!おっ。それ。大事。森という地名があるのは知っており、朽網のMさんに伝えたばかり。森中がすぐ近くにあるのはやはり…と。苅田宇原にルーツを持つ、Gさんのお母さんの事を思い出します。国崎八幡宮とは。。この繋がりなのかしら。と胸がにわかにざわめきます。
ひとみちゃん、時間があまりないので、早めに移動することにしました。今日は娘のMちゃんを置いてきたので…一緒とばかり、思っていました。さあ、それでは出発!3台で移動することに。真玉の猪群山へと。昨日、登山口を確認、臼野登山口の方が早いとの事。小さい子がいるので、ソフトコースにしました。
一番最初に、飯牟禮神社中宮を参拝。
この神社と猪群山については以下の方のブログに詳しく書かれています。
また数冊読んだ本にも詳しく。古代ユダヤの祭祀場。縄文の宇宙船発着場など、いろいろです。
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/d079ea54297f1c0b13b37a7f09c7261b
上記のブログによりますと…
飯牟礼神社の祭祀由来、「飯牟礼山縁起」には、この山上の遺構が彦火々出見命の神蹟として描かれている。仁賢天皇の時代、沖辺村の武内宿祢の九代の孫という「武内彦祢」という老人が、泊浦の浜で月を見て神の化身を懐妊した竜女に出会う。その姿は七、八才の幼女。彦祢老人は幼女を猪群山の峯に案内して出産させる。生まれた御子が彦火々出見命。
命の誕生の時に、山上の神体石上の窪みの潮水を産湯に用いたとし、のちに彦火々出見命は神体石から飛んで姿を消す。竜女は神体石に供物を捧げて拝み、「この峯の石の上に神殿を立て、飯峯礼山大明神を祀れ。」と述べ、竜女は大蛇となって泊浦から竜宮に戻る。
「真玉」の地名がこの縁起にある竜宮の潮干珠、潮満珠に由来する名であり。泊浦の傍の海岸には「粟嶋神社」が鎮座、猪群山の幼女が上陸した地とされる。
近辺には伝承に纏わるとみられる「御玉」、「玉津」地名等が散在し、綿津見神社、海神社、月読神社などの社が鎮座する。また「龍守」や「竹内」といった縁起に纏わる姓もみられる。
「飯牟礼山縁起」はこの里の本源であるようだ。
山上の遺構には、縁起以外にも多くの伝承がある。
この山には雨乞いの神事が伝わる。神事は泊浦から汲んできた潮水を、山上の神体石の窪 みに入れる。そして「千把焚き」なる神事を行う。注連縄を張った神域で神官と二匹の鬼が舞を奉納し、組上げた薪に火を点ける。炎が立ち上がり、炎とともに 竜神が天に昇り、雨を降らすとされる。
この火焚きを伴う雨乞いは、江戸期に盛んに行われた習俗であるという。山上に水神としての「竜神」や「八代竜王」が祀られていたものとみられる。
また、国東半島は「山岳仏教」の霊地。国東半島は天台に宇佐の古神道、八幡信仰を取りこんだ「六郷満山」の信仰の地。飯牟礼神社の中宮には仁王像が並び立ち、「飯牟礼山縁起」には神宮寺名の記載もある。
山上の遺構が「山岳仏教」の霊地であったことも間違いないであろう。遺構からは平安期の土師器片等も出土している。また猪群山は女人禁制。女人禁制とするのは主に修験のしきたりとされる。
(以上、引用終わり)
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本当は先週、両子寺の植樹祭の翌々日に登山したいと思っていましたが、植樹祭の翌日、娘の排出、仲間の皆さんの排出…が身体に如実に現れてきており、タイミングが4月1日になりました!凄く統合した1週間でもあり…昨日は流れるようにスムーズ。天気も最高。体調も抜群。そのことを感謝しながら登山しました。
大叔父さんと涙の再会、我が家の祖先霊とカルマを感じ続けた1週間でした。両子山ではゆきちゃん(Gさん)manaさん、そして行橋の庸君とお父さん(K西さんの実父)といっしょに行動しました。ハイヤーセルフレベルで、そのまた光のファミリーレベルで交信しまくり(笑)あの日の輝きを忘れません。それは。青龍窟、宇原の磁場調整(30名)、扇のイニシエーション。そこから大きく繋がっていて。だからこそ、森、森中の地を認識し、その流れで猪牟礼山に登れる事は、更なるゲートオープンに繫がることと既に知っていました。
ひとみちゃんがあまりにもナチュラルに、そこにいました(笑)一番喜んでいたのは彼女かも。もうストーンサークルに行ければ、それでいいというわかりやすい心持ち(笑)
そして、最初はかなり急勾配の山道を確かめるようにゆっくり登り始めます。
亀ちゃんとはかなり、間が開いたので、時間の関係上、最終的には山頂でお弁当を食べながら、シェアリング、待機。藤原さんが亀ちゃん親子を迎えに再び、戻りました。
ひとみちゃん、K西さん、おもいっきり無邪気に解放〜
空と海と山がひとつに溶け合い、まるで天国。凄い見晴らし。まるでパノラマ。
そして磐座の上で、しばし瞑想したり、仮眠したり…ひとみちゃん、10年前にタイムトリップしていた…ようです。亀ちゃん、ちえちゃんも元気に到着〜皆で喜びをシェアしました。
ここは宮島の弥山にエネルギーが似ている…と仲間同士で話していました。先日、宇佐の御許山に登山したので、そことここが繫がっているイメージで。空には羽根のような雲。まさに羽根ライン。喜びがマックスになりました。子どもたちも意気投合、お弁当よりも駆け回り、身体で嬉しさ表現。
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ふたたび、上記のブログによりますと…http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/d079ea54297f1c0b13b37a7f09c7261b
そして、山上の遺構が「おみせん」と呼ばれる。この「おみせん」が宮島の「弥山(みせん)」を思わせる。宮島の弥山の名が仏教などの聖山「須弥山(しゅみせん)」からきているとされ、須弥山が「輪」に囲まれて、「須弥山様式庭園」では中央に突出する岩を須弥山に例える石組とされることで、山上の遺構が須弥山の概念を具現化したものとも思わせる。
また、宇佐氏の伝承によると、宮島の「弥山」は菟狭津彦の妃、菟狭津媛の墓所であるとされる。猪群山が「御弥山(おみせん)」であれば、宇佐氏に拘わる墓所である可能性もある。猪群山が宇佐の大元、「御許山」の丑寅の方向にあたるという「御許山」と「御弥山」の関係を指摘する説もある。
どうも山上の遺構には、いくつもの遺跡や神蹟が、時代を経て重なっているようにみえる。
古く、宇佐や国東は特殊な地域であった。氏族の坩堝である九州内から、また大陸、半島から渡来した氏族の多くが、この地を拠点としたのちに列島に広がり、逆に畿内からは九州、大陸、半島への基点として、殊に「国前」であったとされる。
そこには多くの氏族の出入りがあり、支配層の交代劇も繰り返されたであろう。宇佐神宮にも同様の多層構造がみえる。
(以上、引用終わり)
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鹿島氏の説によると、菟狭津彦、菟狭津媛は東表国の王族(エブス人)中臣氏とも繫がり深かった…とされる。
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