◎宇佐神宮の由来と歴史/引用 |
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。
また社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)とある。
そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている和銅元年(708年)頃までには大神比義と関係がある大神一族が大和朝廷より宇佐の地にやってきて、あるいは大和朝廷と手を結んで、神仏習合、八幡神創出を行ったと考えられている。
また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。
そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙咩(おとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。
崇峻天皇(588 - 592年)の御代に鷹居社(たかいしゃ)(宇佐市上田字1435)が建てられ、和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄える[1]。宇佐にある葛原古墳は辛島勝氏の墓である、という説がある。
社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)、一之殿を建立、天平元年(729年)には二之殿、弘仁14年(823年)には三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成したと言い伝えられている。
704年の藤原広嗣の乱の際には、官軍の大将軍の大野東人が決戦前に戦勝を祈願し、743年の東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて上京し、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、769年の宇佐八幡宮神託事件では、皇位の継承まで関与する等伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した信仰を集めていた。
隼人の反乱・行幸会・放生会
708年創建と伝えられている大隅正八幡宮は、隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に由来するもので、興味深いことに平安末期の記録には、辛島氏出身の漆島氏および酒井氏がその神官を務めたとあり、地主神に、おそらくは豊の国から移住してきた、秦一族の八幡神信仰が合祀されたと考えられている。
続日本紀の和銅7年(714年)の記事に、「豊前国の民二百戸を移して」曽於郡とそこから分かれた桑原郡に住んだ、との記録がある。
「曽於」も「桑原」も、豊の国に縁の名であり、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられていることから、この頃には隼人の勢力圏内へ秦一族が浸透していったと考えて良いかと思われる。
むしろ、秦一族の持つ農耕や畜産、養蚕に鉄や銅器等の製造技術や気象や天体に関する知識などを隼人に広めたとも考えられている。
隼人は700年には川内国府を、720年には大隅国府を襲撃、反乱の烽火を上げる(隼人の反乱)が、万葉集歌人として高名な大伴旅人が率いる大和朝廷軍および辛嶋ハトメ率いる宇佐「神軍」により鎮圧されてしまう。
この隼人の反乱の際、大分県中津市大貞の薦神社の三角(御澄)池に自生する真薦(まこも)を刈って枕形の御験(みしるし)、薦枕を創り、これをご神体として神輿を奉じて日向まで行幸、乱を鎮めたと言われている。
参考:
筑紫君磐井の反乱(527 - 528年)は、豊・肥の二国で蜂起、磐井は宇佐を目指して敗走中、山国川沿いの「豊国上膳(かみつみけのこおり)の峻しき山の曲(クマ)に身を終りぬ」と される。しかし当時宇佐は豊の国の中心地ではなく、中津付近が最も栄えていたとされ、しかも山国川の下流平野部に位置し、その中心的存在であった中津薦神社はその後、歴史の表舞台から姿を消す。
同時に繁栄を誇っていた秦氏も姿を消していることから、この頃、多数の秦一族が豊の国から日向・大隅地区に移動したのではないか、と考えられている。
祭祀を司っていた辛嶋氏の一部は宇佐辛嶋郷に移り住んで再起を期し、稲積六神社をはじめ、郡瀬神社等を建築するものの、欽明天皇32年(571年)の大神比義の託宣以降、崇峻天皇(588 - 592年)の御代に大和朝廷の息のかかった鷹居社が造られ、元明天皇和銅元年(708年)、社殿を建築、同5年(712年)には官幣社となり、こちらが繁栄することとなる。
九州最大の荘園領主
律令下での宇佐神宮は、神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であった。また当時の社寺の例にもれず神人(じにん)による武装もしており、このため近郊の(特に豊後国の)有力武士としばしば敵対している。
源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司宇佐公通が平氏方につく。屋島の戦いから敗走する総大将平宗盛ら平家一門は宇佐神宮を頼って束の間安徳天皇と共に公通の舘に滞在していたが、豊後の緒方惟義が源氏方について叛逆したこともあり庇護しきれなかった。
またこのとき緒方氏によって神宮が焼討ちにあったという。この焼討ちの時、ご神体が強奪された。この後発見されるが、朝廷の裁定により石清水八幡宮が管理することになった。
鎌倉時代の元寇でも当時の社寺の例にもれず加持祈禱を行っている。この際に活躍した宇佐公世(公通の玄孫)は、社領回復に成功して中興の祖と仰がれ、その子宇佐(到津)公連は鎌倉幕府倒幕においても活躍して、後に懐良親王擁立に参加している。
さらに下って戦国時代 (日本)には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、キリシタン大名の大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司らが現在の北九州市到津付近まで逃げ延びる羽目になる。
大友氏はその後の島津氏との戦いで勢力をそがれ豊臣秀吉による九州平定を招くこととなり、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐する。江戸時代には、宇佐一帯は中津藩、佐賀藩飛び地、天領などが複雑に入り組む土地となったが、その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。