グレートレイを通過する…蛇の洞穴2/2 |
●【予章記】伊予の伝承
河野通清が大蛇と人間の女の間に生まれ、その顔面と両脇に鱗のようなものがあった。緒方三郎惟義も河野通清と同じ時代に活躍した。
河野通清:伊予権介。瀬戸内海に強大な水軍力を持つ。
河野通信:平安時代末期〜鎌倉時代初期、河野通清の子。伊予水軍の将。子に通政、通久。出家し観光と号す。一遍の祖父。
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5月に四国伊予大三島を訪れ、国東にても伊予河野氏とのつながりを強く感じ、津久見で落ノ浦(河野氏の祖は落氏)に巡り会い…何度も何度も、河野氏が出てきます。(4歳で別れた父の姓)
ここで津久見を訪れる前後からずっと出て来ている宇和島の島々、南予の三浦半島…
まだ今でも、あの地で出会った、イルカ、クジラがアセンション情報をずっと夜な夜な、注入してくれています…
ここに来て、藤原純友なんだ…やはり…という感じで受け止めています。
こんなブログ記事を見つけました…
www.iyashihaku.jp/shimin10/2012/04/post.html
藤原純友の財宝伝説と日振島
はじめまして。南予癒し博の宇和島情報発信のテーマに今日から、宇和島市沖合いにある日振島を根拠地として、十世紀初頭瀬戸内海の海賊の首領と呼ばれ時の律令国家に反旗を翻し、暴れまわったという藤原純友の歴史と財宝伝説についてお話していきます。
宇和島市沖合いにある日振島には古くから、藤原純友の莫大な財宝が隠されているという伝説が残っています。
その伝説を示す暗号は、
「金壺は七つに分けて七並べ、紫つつじのもとにこそあれ」
と言い伝えられていました。
さて藤原純友ってどんな人? おそらく宇和島の人は ほとんどの人がこの藤原純友のことをよく知らないのではないでしょうか? 何と言っても十世紀初頭ですから、一千年以上も前の歴史の話です。
これまで、というか約30年前までは、藤原純友は時の朝廷に叛逆した海賊の首領というレッテルを張られた反逆者というイメージだったんですね。こうしたことは、約30年くらい前に海音寺潮五郎原作の小説「平将門」をもとにした平将門・藤原純友の乱を合わせた天慶の乱を映画化したNHKの大河ドラマ 「風と雲と虹と」で、定着してしまったようです。
これは、歴史上純友が最終的に不本意ながら朝廷と敵対することになったので、間違いではないのですが、はたして藤原純友は叛逆者だったのでしょう か? 藤原純友の歴史における実像が見直されてきたのは、この30年程のことで実は藤原純友は、朝廷と対決して戦うことを目的としていたのではなく、全く別の目的を持っていたのではないか?ということが状況証拠から間接的に説明できるようになってきたのです。
そうしてそういう純友の本当の目的を知っていくことが、ひいては日振島とその周辺に財宝が隠されているという話を導いていく根拠になっていくのです。
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宿毛市史【古代編-平安時代の宿毛-】
藤原純友の乱
日吉神社(仲須賀)
延長8年(930)から承平4年(934)まで第47代目の土佐国司であった紀貫之が、帰京の際記した『土佐日記』のなかに「卅日。雨風吹かず。海賊は夜ありきせざるなりと聞きて、夜なかばかりに舟をいだして、阿波の水門を渡る。夜なかなれぱ、西東も見えず、男女からく神仏を祈りてこの水門を渡りぬ。」とある。
貫之が土佐守の任を終える頃の承平3年から同4年頃、山陽、南海両道にかけて海賊が横行した。承平3年12月には「南海道国々海賊レ未従二追捕一遍満云々」(『扶桑略記』)といっており、同4年5月には「詔奉二俸幣使於山陽南海道諸神一。祈レ平二海賊一。」(『日本紀略』)といって、海賊の平定を祈っている。
貫之は土佐国司の時、海賊の平伏を祈って、宿毛市宿毛仲須賀にある日吉神社(もと山王の宮)に、正一位大山咋命 と記した幟を寄進したと、次のように社伝に記してある。「宿毛郷宿毛村山王田鎮座、日吉神社、祭神大山咋命−幡多開闢の始め幡多総鎮守として大山咋命を奉 斎す。延長、承平の頃、紀貫之土佐守たりし時、尤当社を信仰し志願賽礼の節、正一位大山咋命と記せし幟を寄進すると云。…略…」
宿毛は、土佐の国府とも遠く西に離れ、西方は豊後水道を経て、瀬戸内海に通じていたので、この海域を舞台とする海賊にとっては、絶好の隠れ場所となったと思われる。
さて、このような海賊の騒擾は、承平6年(936)6月には「南海道賊船千余艘浮於二海上一。強二取官物一。殺二害人命一。仍上下往来人物不レ通」(『扶桑略記』)という状態となり、南海道の沿岸に海賊がはびこり、沿岸の村々は非常に困っていた。これを知った朝廷ではたまりかねて、紀淑人(きのとしんど)を伊予掾として海賊を取締まらせた。藤原純友は、伊千檬であったので、紀淑人を助けて討伐にあたり、海賊は降伏したのである。
ところが、純友は任期が満ちても帰ろうとせず、手下の海賊どもと宇和島港外にある日振島に根拠地をつくってしまったのである。ちょうどこの頃、平将門が関東に兵を挙げたので、純友はこれに応じようとして、ひそかに部下を京都に遣わして放火させた。
天慶2年(939)朝廷では純友を諭し、従五位下の位を授けたが、純友はこの官位をはね付け、ますます海辺を荒しまわった。讃岐守藤原国風が純友を攻めたが、国風はかえって阿波に追われ、純友は讃岐の国府を焼き、伊予や讃岐、更に山陽道や幡多郡を焼いた。「天慶3 年(940)12月藤原純友土佐国二入テ幡多郡ヲ焼ク、戦争ノ際官軍並二賊類箭二中テ死者多シ」(『日本紀略』)とある。
純友が幡多を焼いたのは高岡郡日下別府城主別府新九郎が加勢した(『土佐国編年紀事略』)とあり、小筑紫方面の 伝承によれば、小筑紫湾に上陸し(伊与野)、南方及び東方を攻め、村々を焼き払った(天慶3年12月)といわれている。このような、海賊の横行は、律令国 家の厳しい収奪に対する民衆の抵抗の一面を現わしているという見方もある。
朝廷では、小野好古を追討使長官として戦艦200余りをもって、日振島を襲おうとした。純友は1500余りの船 を並べて待っていたが、純友の部将藤原恒利が寝返りをうち、純友の本拠に朝廷軍を案内して攻めたので、純友は敗れて九州の太宰府に逃れた。純友はここで勢いを盛り返したが、小野好古は陸路より、藤原慶辛等は海上から純友軍を博多に攻めた。この博多湾大合戦で、純友の本隊はほとんど壊滅の状態に陥った。 800余りの船を奪われた純友は、その子重太丸と共に辛じて伊予国に逃げ帰ったが、6月中旬警固使橘遠保に捕われ、6月29日獄中で死んだ。『日本紀略』 によれば、遠保が純友を殺害したとあり、『大日本史』には、斬られて首を京都に送られたとなっている。
こうして純友らは討伐されたが、その残党や伊予来島などの海賊は、これから室町時代に至るまで、長くこの地方の 海域を横行して、幡多郡沿岸も、しばしば彼等の侵害を受けたことが伝えられている。だが、中世の海賊はみだりに掠奪を目的とするものばかりではなく、彼等 によって、この地方の村落は、ある程度の治安が保たれ、また、海上交通の便が与えられていたことは見逃せない。
純友は伊予を逃げる時、その妻を土佐国松尾坂(伊予土佐の国境)の純友城に隠したが、純友以下一族残らず討たれ、その子重太丸も京都で斬られたとの報告を聞いた妻は、悲しみの挙句ついに気が狂い、天慶4年(941)8月16日に死んだと『前太平記巻11』に次の ように記されている。
「ここに栗山将監入道定阿という者あり、これは伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去ぬる承平の頃、純友 隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立退き、土佐国松尾坂と云所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ重太丸も縲紲の 辱に逢うて京都にて誅せられぬと聞しより彼母恩愛の悲歎に堪えず、慟哭のあまりにや物狂はしくなりて巫医の功を尽すと云へども更に験もなく今年(天慶4 年)8月16日に思死にぞ失にけり」
このように、純友の乱や将門の乱はあっけなく終わったが、この事件は歴史の上で大きな影響を与えた。すなわち武 士というものが新しく歴史の上に現われるようになり、貴族では乱を鎮めることができず、武士達もようやく自分の力に自信をもってきたことを物語っているようである。
松尾坂の純友城跡
純友城跡(大深浦城ヶ山)
県境松尾峠の南西にあたる宿毛市大深浦字城ヶ山を純友城と呼んでいる。
松尾坂の峠に2個の石柱が立ち「従是東土佐国」「従是西伊予国宇和島藩支配地」の文字が刻まれているのが見える。この標柱の南西、谷を隔てて約200メートルの所に2つの嶺が続いた山がある。この山頂の南側の嶺が純友城跡である。ちょうど宇須々木港の背後にあた る。土地の人々は「シロトコ」と呼んでおり、前方は宿毛湾を一望に見下ろせる位置にあり、しかも傾斜は極めて急で、外部からは容易に発見できない所で、文字通りの要害堅固の地で、逃げこもる山城としては申し分のない所である。
城跡には1アール位の平地が3か所段々になっており、その回りには石垣の跡が所所に残っているのが見られる。頂上付近には、石を70糎4方の四角形に置いた所や、大小の石を積み重ねた所もあり、墓石かとも思われるが確認はできない。墓石だとすると、これらのうちに 純友の妻の墓があるのかもしれない。
現在、この城跡には国土地理院の三角点が在り、標高331.4メートルである。この位置に城を構えていたことから考えると、宿毛湾一帯は藤原純友の勢力範囲にあったのであろう。そして宇須々木港はこの地の根拠地にされていたものと考えられる。
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宇和島市遊子蒋渕(ゆすこもぶち)の”水ケ浦の段々畑”から 日振島、純友…
日本の歴史において、伊予の国(愛媛)から時の中央政権に叛旗を翻(ひるがえ)した人物はただ一人、その名は”藤原純友(ふじわらのすみとも)”
平安時代の歴史書に「承平6年(936年)6月、南海の賊首”藤原純友”が党を組んで、伊予国”日振島(ひぶりじま)”に結集し、多くの舟で官有私財を略奪す」とあります。
”藤原純友”らが結集して本拠地にしたのが、宇和島市から約38キロ沖合いにある”日振島”で、ここ遊子蒋渕とは目と鼻の先にあります。
ですから、この辺りに住んでいる人の先祖達は、地方の役人であった”藤原純友”を旗頭に京に攻め上ろうとしたのです。
彼らも、好き好んで海賊になったわけではありません。
中央政府からの過酷な税の取立て、貴族達は法を破って”荘園”を切り開き贅沢な暮らしをしていた時代の話です。
一般の農民や漁民は、私的な開墾が禁じられていましたから、厳しい税の収奪から逃げるには海上に逃げるほかなかったのです。
裏山は、今までご紹介してきたような切り立った山が連なり、食料の自給が出来なかったのです。
”藤原純友”の出生には諸説あって、京の都の藤原家の主流である北家の一門、”藤原良範”の三男という通説と、伊予の司(つかさ)”高橋友久”の子で、藤原家へ養子に行ったという説もあります。
何れにせよ、官僚として京の朝廷に仕えていて、京で朝廷と藤原家との権力争いや、貴族達の腐敗した生活に嫌気がさして伊予に帰ったのだと言われています。
伊予に帰って、疲弊した農民や漁民の姿を目の当たりにした”藤原純友”は、1,000艘の舟・船を組織し公然と朝廷に叛旗を翻しました。
伊予の漁民を”海賊”と言って取り締まる朝廷こそ、庶民から”税”を搾りに搾り取る”大賊”ではないかと。
ちょうど、時を同じくして、関東では”平将門”(たいらのまさかど)が中央政権に叛旗を翻し、京に攻め上る勢いを見せていました。
純友も将門も、京での政治の腐敗ぶりを見ての叛旗だったと言われています。二人は謀議して決起したという説すらあります。
関東と瀬戸内海でほぼ同時期に起こったこれらの反乱を、世は”承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)”と呼びます。
世直しをと決起した純友の反乱は、一時は瀬戸内海全域を制圧し、京からの追討軍を蹴散らして京に攻め上る勢いを見せました。
ただ、関東の”平将門”の反乱も平定され、東と西から京を挟み撃ちにするという構想もあっけなく潰えました。
そして、”藤原純友”は、味方の裏切りもあって追い詰められ、最後は松山の”古三津の砦”に立て籠もりましたがついに捕まり、一子”重太郎”とともに処刑されました。
彼らの軍勢や軍船が、瀬戸内海を制圧したかに見えた戦いも、最後はあっけなく制圧されたのです。
今も、この水ケ浦の直ぐ先の”日振島”には”純友”の砦跡が残っていると言います。
宇和島市遊子蒋渕(ゆすこもぶち)の”水ケ浦の段々畑”に立ったとき、”純友”と共に立ち上がったこの辺りの漁民の姿が、ふと目に浮かんだような気がしました。
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12月20日から…どんどん繋がり、拡大しています。
http://ameblo.jp/kajikanet/entry-11438639193.html
第7宇宙 シリウス星系(スーパーユニバース銀河母体)、ソラリス太陽(新生地球太陽) 未来タイムライン
第6宇宙 プレアデス星系(ユニバース銀河母体)、レムリア・クラリオン・クリスタルシティー、地球テラノヴァ(中心ハートウェイ天蓋)
第5宇宙 アガルタ(天使界) トリムルティ(三神一体)
第4宇宙 イリュージョン(木星地球) 過去タイムライン
第3宇宙 物質界(火星地球) 過去タイムライン
●第5宇宙パラレル宇宙(変成意識)のパラダイム
私達はソウル意識(変成意識)で、パラレルワールドを満喫することができます。明晰夢(変成意識)とアストラル離脱(モナド意識)の隔壁は無くなり、エルダ 意識(現実界)とソウル意識(意識界)を自由に行き来するようになります。自分自身の中心ハートウェイ(マインド宇宙)に自分自身のファミリー世代が成長 していきます。すでに、私達の妖精(インナーソウル)が天使界に存在していて、対面しているライトワーカーの方達も多いでしょう。
5-0 イデア界
5-1 ソース界
5-2 エネルギー界
5-3 物質界(メンタル意識界)
5-4 イリュージョン地球
5-5 天使界
5-6(5-5.,1) アガルタ(テロス)
5-7(5-5.,2) レムリア宮殿(クリスタルシティー)
5-8(5-5.,3) シャンバラ
5-9(5-5.,4) アメンディ
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今回のミッション、またシフトした先の新天地における活動の意味が何となく見えてきました。
この地域の磁場調整、また国東より注がれし光、国東の波動上昇…
ある意味で北九州の波動をさらにあげていく意味でも。
そしてまたミッションを終えて、北九州、小倉に戻るのかも知れない…
今年はどんどん動かされる年になるやも知れません。
ますます母船が近くなり、未知との遭遇、光のファミリーとの再会、が起きてくるでしょう…