大神氏(蛇、水神の伝承)と3本杉 |
国東の都甲(とごう)であらためて確認できたこと…
主人の中にも流れているもの。
都甲氏…地頭、都甲は、*大神氏である。
また来縄郷…という響き。
鹿島、松重説では…
*藤原の「トウ」は「トウ(ホ)カミエタヒメ」の「トウ」で、東日流に亡命した狗奴国王長スネ彦の兄弟王であった東表国安日彦の蛇トーテム信仰「トウビョウ」をあらわす倭人語であったことを示している。
*ガド族の猿田彦と大物主家のイッサカル族とは兄弟関係にあり、猿田彦は陸路、大物主家は海路によるユダヤ系の東方亡命者であった
*ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着した。
筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担った。
*古代神官の三輪氏は蛇神である三輪山の大物主をまつった祭主、
オオタタネコの子孫である。
民族学でいう、蛇巫(かんなぎ)の家系なのだ。その起源は、バンチェン王国のシュメール人王家、ナーガ族の蛇トーテムから始まっている。
*亀トーテム族と蛇トーテム族とはもともとパートナーなのである。
*ホツマツタエを作成した、大物主(公孫氏)三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神(龍神)信仰の新羅王家、あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的なかかわりがあった。すなわち、「蛇神」と稲としめ縄からいって、インド、インドシナ半島以来の三輪氏の祖先は南韓の蛇トーテム信仰、亀トーテム信仰と同族関係にあったといえる。
(松重揚江著、倭人のルーツの謎を追うより)
^^^^^^^^^^^^^^^^^
何だか、龍から蛇になってきたぞ。
大物主はずっと生き続けている…
そして、またまた今度は3本杉(杉=松かな)です。
大神氏 (蛇、水神の伝承)
豊後大神氏の家紋
名字と家紋 鱗 紋
【 http://www.harimaya.com/kamon/column/uroko.html 】より
豊後大神氏流緒方氏の家紋が「三つ鱗(三つ鱗杉)」であった。豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった 大神氏の一族で、祖大太(惟基)は高知尾明神の神子、あるいは祖母嶽大明神と堀河大納言伊周*(藤原伊周)の女との間に生まれた 神子となっている。大神氏は大和大神神社とも関係があり、大神神社の神紋である三本杉を家紋としていた。 のちに三本杉がデフォルメされて「三つ鱗」紋が生まれたようで、その原型は三本杉に他ならない。もっとも、 大神神社の神使は蛇であり、豊後大神氏の祖は蛇神の子であることから、蛇の鱗をも意識していたものと思われる。 佐伯氏、藤林氏など緒方氏の一族の多くが「三つ鱗=三本杉」紋を用いている。幕末の蘭方医緒方洪庵も 大神姓緒方氏の後裔で、「三つ鱗=三本杉」紋を用いていた。
三本杉
豊後大神氏(ブンゴオオガシ)抜きに豊後の姓氏は語れない。
豊後大神氏は平安後期、豊後國南部、大分、大野、直入、佐伯地方を拠点に活躍した武士集団である。拠点の大野直入の原野で馬をを飼育、馬を巧みに操り弓矢打ちに長け、武力を背景に要職を手に入れ、農民支配を行い、武士集団として豊後國における武家世代を成立させていった一族である。
豊後大神氏は大和大神氏(ヤマトオオミワシ)の流れをくむ一族とするのが有力である。大神氏(オオミワシ)は、大和大神社神(ヤマトオオミワジンジャ)の大神主家(オオカンヌシケ)に由来する一族で、大神姓三輪氏にも繋がる高家である(後に高宮氏)。大神神社の由緒によれば、大神神社は遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチノカミ、大国主神に同じ)が自らの幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(オオモノヌシノカミ)の御名をもって御祀りしたのが始まりという。
以来、大三輪之神(オオミワノカミ)として世に知られ「大神」を「おおみわ」として崇敬を集めた。大神氏は崇神天皇の御代に大神君(オオミワノキミ)姓を、天武天皇の頃大神朝臣(オオミワノアソン)を賜ったという
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
*藤原伊周(これちか)とは…
平安中期の廷臣。道隆の子。内大臣。関白を争い叔父道兼・道長と対立、花山法皇に矢を射かけ、大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷された。翌年許され儀同三司の待遇を得たが、道長に抗し得ず失意のうちに没した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
系譜
父:藤原道隆
母:高階貴子 - 高階成忠の娘、掌侍
妻:源重光の娘
長男:藤原道雅(992-1054)
長女:藤原頼宗室
二女:藤原周子(帥殿の御方) - 中宮藤原彰子女房
妻:源致明の娘
男子:藤原顕長
妻:伊勢大輔(大中臣輔親の女) - 藤原彰子女房
男子:藤原忠周 - 大森氏・葛山氏祖
妻:有道氏
男子:有道遠峰(?-1069) - 児玉氏祖
*娘のひとりは…伊勢大輔【いせのたいふ】
生年: 生没年不詳
平安時代の歌人。大中臣能宣の孫,輔親の娘。寛弘5(1008)年ごろ,20歳前後で中宮彰子の女房として出仕。献上された八重桜の受け取り役を紫式部から譲られ,「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の一首をとっさに詠んで歌才を認められた。やがて高階成順と結婚,康資王母などを生んだ。和泉式部,赤染衛門,源経信などと交流を持ち,藤原頼通の時代には永承4(1049)年内裏歌合など多くの歌合に出詠。ながく後宮歌壇の中心として活躍,大中臣家の和歌の伝統を子孫に伝えた。『後拾遺集』以下の勅撰集に入集。家集『伊勢大輔集』がある。<参考文献>保坂都『大中臣家の歌人群』
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
私、いつか夢で、藤原彰子の家庭教師をしている女性であったこと…そんな前世がある…んじゃないかなと思ったことがある。ブログにも書いたことありました…何だかドキドキ。
藤原伊周…此の人物がまた悔しい思いをしているのです(藤原広嗣に似てる…と思いました)
藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年不詳 - 天平12年11月1日(740年11月28日))は 、奈良時代の廷臣。藤原式家の 祖、参議・藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には 蘇我倉山田石川麻呂)の女。官位は従五位下・大宰少弐。
2人とも、大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷されている…という共通点。
きっと、この人はこの人の過去生…みたいに、何度もチャレンジしてるのかな、なんて思います。
*藤原伊周について詳しく見てみましょう。(
以下のブログにはもっと詳しく書いています)
生涯http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/chakunan1.html
天延二(974)年に藤原道隆(ふじわらみちたか)の嫡男に生まれる。伊周は道隆の第三子に当たるのだが、母親である高階貴子(たかしなたかこ)の身分が高かった(貴子の父は公卿にして学者)ことから、異母兄・道頼(みちより)を差し置いて嫡男となる。
寛和元(985)年一一月二〇日に一二歳で元服するやいきなり従五位下に、翌寛和二(986)年七月二二日に一条天皇(生母は伊周の叔母・詮子)の即位式に昇殿して侍従・左兵衛佐に、永延元(987)年には左少将とトントン拍子に出世した。
更に正暦五(990)年七月二日に祖父・兼家が薨去して父・道隆が後を継ぐと、五月八日の道隆が摂政に、一〇月の同母妹定子(ていし)が一条天皇中宮になるに伴って、伊周の摂関家嫡男としての格も上がった。
父・道隆の引き立てで、伊周は正暦二(991)年一月二六日参議に、同年七月二七日従三位に、同年九月七日権中納言に、翌正暦三(992)年八月二八日正三位権大納言に、丁度二年後の正暦五(994)年八月二八日には内大臣に就任した。
しかもこの内大臣就任は伊周の叔父・藤原道長を含む三人の先任者を追い越すもので、藤原一族全体で見ても、伊周の上に立つ者は、叔父の道兼(兼家二男・右大臣)しかいなかった。時に藤原伊周二一歳。
だが、長徳元(995)年二月に道隆が元来の大酒のみが祟って重病となるや、伊周及びその弟妹の運命も暗転する。
死期を悟った道隆は自らの権力と関白位を伊周に委譲しようとして一条天皇に奏上するも、三月八日に内覧(重要書類の確認)を許されるに留まり、同年四月三日の再度の奏上も実を結ばず、六日に最期を悟って出家した道隆は一〇日に薨去した。
結果、一七日間の空白を経て四月二七日に藤原道兼が藤原氏の氏長者並びに関白に就任するが、当時流行した天然痘に侵されていた道兼は就任挨拶の為に参内してから僅か七日後の五月八日に世を去った。
だがそれでも伊周にお鉢は回らず、一条天皇は寵愛する定子の兄にして従兄である伊周よりも、実母が強く推す叔父の藤原道長を五月一一日に内覧に任じた。
八日後の五月一九日には道長は伊周より上位の右大臣に、また同時に氏長者にも任命された。
氏長者を巡っての伊周と叔父・道長の対立は衆目にも明らかなほど激化(凄まじい激論が交わされ、伊周の弟・隆家の従者と道長の従者が大乱闘までしている)し、長徳二(996)年一月一六日に花山法皇が伊周・ 隆家の従者に矢を射かけられる、という事件(所謂「長徳の変」)が起こるや、道長は素早く検非違使を派し、家宅捜索の結果、四月二四日に、花山法皇に対す る不敬・東三条院詮子への呪詛・秘かに大元帥法(真言密教における呪法。臣下が行うのは許されていなかった)を行った咎の三ヶ条を持って、伊周は大宰府権帥に、隆家は出雲権守に左遷しされた(「権」は「副」や「仮」の意)。
伊周は懐妊中だった妹・定子の身を案じ、重病と称して出立しなかったが、五月一日に強制捜査が入って逃亡(この強制捜査を恥じた定子は落飾した)。その後紆余曲折を経て、五月一五日には伊周を播磨に、隆家を但馬に留め置く旨の詔勅が出たが、配流の同行を許されずに病に倒れた母・貴子を案じて秘かに入京したことで、今度こそ大宰府に護送された(貴子は一〇月末に没)。
長徳三(997)四月五日、東三条院詮子の病気平癒を祈る恩赦で隆家ともども帰京を許され、その年の一二月末に帰京するが、伊周を巡る周辺状況は安定しなかった。
長保元(999)年一一月七日に定子が一条天皇の待望の第一皇子・敦康親王を出産し、伊周に次期天皇の伯父となる可能性が巡ってくるが、同日、道長の長女・彰子(しょうし)が一条天皇の女御となり、翌長保二(1000)年二月二五日には中宮に立后され、定子は皇后(この辺りの違いは薩摩守にはよく分からない)となった。
その年の一二月一五日に第二皇女を出産した定子は後産中の産褥が元で息を引き取り、座したまま世を去った妹を抱きながら伊周は周囲もはばからず号泣したという。
長保三(1001)年閏一二月一六日、崩御する六日前に東三条院詮子は、道隆一家に辛く当ったことを悔いるように伊周兄弟の復位を一条天皇に促し、長保五(1003)年九月二二日に至って伊周は従二位に、寛弘二(1005)年二月二五日には座次を「大臣の下・大納言の上」とされ、翌日昇殿を許され、一一月一三日に朝議に参加した。
伊周への風当たりの緩衝には、中宮彰子がなかなか皇子を産まず、いざという時には定子が産んだ敦康親王を擁立することを考えていた道長からの懐柔もあった(母・定子を亡くした敦康親王は彰子に育てられていた)。
それゆえに寛弘五(1008)年九月一一日に彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王(後の後一条天皇)を産むと再々度伊周の立場は暗転した。
政治的に伊周を今度こそ落ち目と見た世間の風当たりは冷たく、敦成親王百日の儀にて見事な和歌を親王に贈るも、人々は請われもしないのにそれを行った伊周を非難した。
追い打ちをかけるように、寛弘六(1009)年一月七日に正二位になった伊周に対して、翌月二〇日に中宮と親王への呪詛事件に対する容疑で叔母の高階光子が投獄され、伊周も参内停止を命じられた。
六月一三日には参内を許されるようになったが、これは最早伊周が道長にとって政敵に値しない、と見られればこそで、失意の伊周にそれ以上の活力はなく、心労から翌寛弘七(1010)年一月二八日薨去した。享年三七歳。
死に臨んで伊周は嫡男・道雅(みちまさ)には「人に追従して生きるよりは出家せよ。」と、二人の娘には宮仕えの重要性を、弟の隆家には彼を息子のように想っていたことと、道雅の行く末を託す旨を遺言した。
伊周死後、その屋敷に盗賊が大挙して入るほど荒廃し、道雅も然したる出世をしないどころか乱行に終始したが、僅かに長女が道長の息子・頼宗と結婚し、正室として重んぜられたことから頼宗の後を継ぐ子供達を生み、伊周の血を後世に残した。
^^^^^^^^^^^^^^^^^
またこんな記事もありました…
www.coara.or.jp/~shuya/utahime/utahime.../udahimejinja.htm
続きはこちらへ