不弥国と富美国(登美国)…裏と表 |
古事記と日本書紀は陰と陽で一対か
不弥国といえば…以下は7月14日のブログから抜粋です。
繋いでください。
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不弥国からの旅の指標となる綿津見神社に注目!
日本とユダヤのハ一モニー 古代史を散策して楽しみながら紐解く!というホームページです。http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=182
すごく興味深いことが書いていますので、是非直接サイトに行かれてくださいね。
少しだけご紹介します。なぜなら、感じていることが同じ…というか合致していたから…
郷土史になるときわめて資料が少ない…ゆえにこのように書かれていると不思議な気持ちになりますね、
それによりますと…不弥国は北九州東海岸沿いの交通要所…
邪馬台国へ向かう途中、伊都国より東南へ100里ほどすすむと現、小倉南区役所や北方と重なるエリアに奴国の中心地があります。
そこからさらに東へむかい、竹馬川に沿っておよそ7km進むと、九州の東海岸周防灘が広がる海岸線に追り着きます。河口付近はそのほとんどが埋め立てられ田畑や住宅街となっていますが、以前は海にむけデルタが大きく広がっていました。…と書かれています。
〜 北側に鳶ヶ巣山と高蔵山が並び、2つの山の中間部分は近年まで海水が満ち、河口に直接繋がっていたようです。双方の山の麓からはとてもなだらかな斜面が河 口にむけて広がり、今日では鳶ヶ巣山のそばには吉田公薗や陸上自衛豫の訓練場が、そして高蔵山の裾には多くの住宅が見られます。3世紀に北九州に存在した とされる不弥国はこのこの竹馬川河口北側、高蔵山の麓に発展した集落だったと考えられます。そこは狭いエリアながら、筑紫国の北部からその東海岸沿いを行 き来するために必ず通らなければならない、陸海路を交えた重要拠点でした。
船が行き来するための港として好立地条件を備えていただけでな く、奴国からも近距離にあり、また不弥国のすぐ北西に足立山がそびえ立ち、山からの展望も大変良いという位置づけにありました。このように九州東海岸沿い の交通の要所となる地の利に恵まれていたことから、小規模な港町が古代社会において発展し、不弥国の原点となったのでしょう。ここから邪馬台国にむかうに は、南にむかって再び船による航海を続けることになります。こうしていつしか不弥国は邪馬台国への道のりの中継地点として、陸から海へそして海から陸へと 旅人が行き来する九州東海岸沿いの基点として認知されたのです。
これまで不弥国は同じ福岡県でも福岡市に近い宇美町や穂波町が、おもな比 定地の候補として挙げられていました。宇美町は神功皇后や応神天皇を祀る宇美八幡宮が知られ、古事記や日本書紀にもウミと発音される地名が登場することか ら、その発音がなまって不弥となったのではないかと推測されています。遺跡講査から有力な考占学的物件や遺物が発掘され、弥生土器が多数発見されているこ とも、その説が支持される要因です。
一方、穂波町においても前漢鏡をはじめとする多数の遺跡が発掘されています。それらの多くが弥生中期後半のも のであり、糸島郡(一般的な 伊都国の比定地近郊で発掘された遺跡との類似点が多いことから、伊都国と関連する集落として発展した村である可能性が指摘さ れています。村の名前の発音であるホナミがフミに類似しているとして、そこが不弥国の比定地であると推定するわけです。(省略)
対馬と同 規模、1000戸余りの集落からなる不弥国は、その数宇が示すとおり決して大きな集落ではなく、奴国の東方に位置した海岸沿いの小規模な古代葉落です。今 日では竹馬川の海ロ付近が埋め立てられているため、かつての海岸線がわかりづらいですが、現地を確認すれば一目瞭然、地勢図や航空写真を見るだけでも鷺巣山と高蔵山の南側に干潟がひろがっていた形跡が伺えます。その河口付近の北側にあたる山裾にあった古代集落が不弥国と呼ばれるようになったと考えられる…
と書かれています。(省略)
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足立山は以前、竹和山、ちくわやま、竹波山ーつくばやまとも呼ばれていた…と書きましたよね。
そして沼…はたけぬまかわのみこと…にゆかりがあるとも…そう考えるとすべてが合致してきますね。
そして竹馬川が流れている…吉田綿津見神社の裏が古墳、川が禊場になっています…
もう少し見てみましょう…
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今 日では海から1.3kmも離れていますが、明治時代までは神社の正面まで海岸線が迫ってきていました。つまり、綿津見神社は岬の最先端に造営されたので す…綿津見神社の宮司でおられる平野家には平野文書と呼ばれる14〜16世紀にわたる中世の文書が伝来され、現在は私立自然史歴史博物館に市指定有形文化 財として保存されています。また明治時代に描かれた綿津見神社境内の図と題された神社全体と周辺の見事なスケッチ(上記表示)も存在し、これは平野家にて 保存されているようです…(◎◎さんはいつもこちらで活動しているのです…)
以下も貴重なことが書かれています…是非、ごらんくださいね…
この絵を見ているとほんとうに海のお宮だったのですね…感動してしまいます。
どうりで…古墳もおおいわけだ…
そして重要なのは…この綿津見神社が、対馬の綿津見神社と深い絆で結ばれていることです。対馬の綿津見神社には5重の美しい鳥居が海岸に向かって一列に並んでいますが、これらの鳥居の方角ははるか彼方にある狗邪韓国の港を指していました。…
これは旅人を迎え入れるべく、渡来するものが目指す方向を目指す方角をしめす道しるべの意味を示し、また逆に旅人が訪れてくる方角を示していたとも言えます…
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いっぽう不弥国の綿津見神社の鳥居も…同様に歴史的地理的意味をもっていると言います。
これは私たちが感じている通り…宇佐神宮と繫がっている…のです。古代海域ルートからも、旅人が宇佐と、北九州の綿津見神社を海岸線沿いに船て行き来していたことを裏付ける…ものでもあります。
東表国…宇佐〜豊前に存在した1000年王朝の都(みやこ)を中心にして、重要な海域のルートになっていたことが想像されますね…
前回の茶話会の時に、やはり仲間と地図を見ながら、伊予の国へも繫がっている…ことをあらためて認識しました。
そのように考えたときに、この重要なライン上にいくつかのドラゴンゲートがあるのです…
みやこと香春に近い…平尾台青龍窟は意味深い大きな大きな龍穴です。
石田の綿津見(守恒の山を超えた向こう)と吉田の綿津見…ももちろん繫がっています…
龍王神社であります…ドラゴンネットワークだ。