北九州市小倉南区朽網の石切場ほか |
その後、また青龍窟周辺に繫がったこと。
それで小倉の石切り場…で検索したら、朽網が出てきた。
以下のサイト。
それで合致するものがあった。
確か、朽網には、岩村さんのご親戚がおられると聞いたことがある。
よく考えたら貫の松尾神社も、景行天皇の井戸があり、土蜘蛛退治前にここに寄った…という伝承があった。朽網の貴船神社にも、景行天皇、土蜘蛛退治についての縁起が残されている。
このビジョンが意味するものはわからないけど。きっと深く繫がっているのだと思います。
又、今日はサロンに主人の友人も訪れ、たまたまブログを読んでくださっていたようで。いつも冗談しか言わない方なのですが、本領を発揮(笑)。よいメッセージを送ってくれました。(ちなみに彼はクリスチャンです。徳力小学校、公徳小学校と通い、当時池があった権現堂の回りで走り回って遊んでいたそうです。)
以前、土地の売買に関わっていて、ある土地の話をそこの地域のある方に話していたら、その男性が突然神がかって、ここはたくさん埋の骨がまっているから、絶対にこのうえに建物をたててはいけない…トランスして言われ、怖くなって逃げ出そうかと思ったらしいのです。その後、その土地からは銅鏡などいろいろなものが出土し、国が買い上げ、調査されることになったようです。田熊石畑遺跡と命名されたようです。3年前といいます。
また、うるおぼえで…その土地と宗像鐘崎の地島とが繫がっている…と彼が今日、何もいわないのに見せてくれました。地島といえば、鐘崎の織旗神社近く、青龍窟周辺にも多い、壱岐氏のエネルギー強い場所。以前、Yさんらが、強く反応していた場所で、私も前回の宗像磁場調整の時、繋げたいとしきりに言いながらイメージしていた場所です。
切支丹大名で知られる黒田如水氏ゆかり深い場所だと初めて知りました。いま、この地島を見せられるのも、意味深く感じます。
また、夕方、八幡皿倉の龍で、主人のいとこであるAさんが来店されました。
昨日、福岡へ帰郷していた原エツコ先生と御会いしています。富士山が落ち着き、阿蘇が気になって帰られたそうです。また中州川も気になっておられたようです。原先生の霊視によると、いとこのAさんの喉に十字架が見えたようです。背中にも十字の剣が見えた…と。先生曰く、熊野の土蜘蛛のエネルギーなどが未浄化だったようで、彼女の顔や体の排出にあらわれ出ている…や、北九州の浄化も最終段階のようで、顔の排出はその意味も。北九州が光に昇ると尾っぽも動き出すと。メッセンジャーとして伝えて来てくれました。
先生も南北朝の戦いの未浄化なエネルギー…について言及していたそうです。
先生のことをいつも感じているので、3日間、福岡を訪れている最中にまた、今の流れ。リンクしあっていることを多々感じました。ハートがびんびん感じました。メッセージが聞こえてくるようです。的確に感じ、連携し、動いていることをしっかり信じなさい…と。なぜか涙が出そうになりました。
以下は、今日、メッセージとして入ってきた地名、場所です。
やはり、祇園…がキーワードです、祇園、稲荷、イスラエル、過ぎ越祭り…など参照。石切はイスキリ=イエス
下記は、www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/6266/sonota21.htmlより
北九州市小倉南区朽網の石切場
1)宗林寺境内の石切場
岩盤に残る矢穴 上場長は約10cm
切り出した石材に残る矢穴跡 やはり上場長は約10cm
2)貴船神社周辺の石切場
切り出し途中の巨石 三分割した状態で切り出し行程が終了?
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http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009020701000020.html
福岡北部にも有力支配層 墳墓から青銅武器15点
福岡県宗像市の田熊石畑遺跡の墳墓から出土した青銅武器=08年10月
福岡県北部の宗像市にある弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)の田熊石畑遺跡で青銅武器の出土が相次ぎ、当時の北部九州の中心地だったとされる佐賀平野や福岡平野に匹敵する有力な支配者層の存在が注目されている。
同遺跡では昨年、6基の墳墓から銅剣や銅戈など計15点の青銅武器が出土した。同時期では佐賀県の吉野ケ里遺跡 (8点)や「最古の王墓」とされる福岡市西区の吉武高木遺跡(11点)を上回る出土数。小田富士雄福岡大名誉教授は「中国の史書『漢書地理志』が『百余 国』と記した有力集落の1つで、中国や朝鮮半島との交易を通して力を付けた集団ではないか」とみる。
宗像市教育委員会によると、田熊石畑遺跡では集落跡とともに9基の木棺墓が見つかり、うち6基から人骨と一緒に 細形の銅剣9点、銅戈3点、銅矛3点が出土した。長さは約13-43センチ。1つの墓に青銅武器が3-5点集中して副葬されているのも特徴で、市教委によ ると1つの木棺墓から青銅武器5点が出土したのは全国初という。
同遺跡では、直径約50メートルの環濠の一部や土坑、約170の貯蔵穴も出土。近くを流れる河川側に船着き場だったとみられる跡も見つかり「水運を利用して宗像地域の富の集積や物流の拠点となった可能性がある」(市教委)という。
当時の北部九州には拠点集落が林立していたと考えられており、力を持った集落の支配者層の墓には青銅武器が副葬されるのが特徴。吉野ケ里、吉武高木遺跡のほかにも佐賀県の宇木汲田遺跡、福岡市の吉武大石遺跡などから多数の銅剣や銅矛が出土している。
これらの遺跡は、魏志倭人伝に登場する「伊都国」や「奴国」など強大な権力を持ったクニが成立する前の段階に位置付けられ、青銅武器の出土数や集落の規模から、互いに力の差はあまりなかったとみられる。
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http://imagic.qee.jp/sima4/fukuoka/jinosima.html
福岡県の島>筑前諸島>地島(じのしま)
地島の地図(Yahoo!地図情報)
●地島(じのしま)
★椿と漁業の島
●住所/福岡県宗像(むなかた)市地島
●面積/1.57km2●周囲/9.3km
●人口/195人(H17)・212人(H12)・243人(H7)国勢調査
●アクセス/【船】鐘崎(かねざき)港→泊港(15分)→豊岡(白浜港)(8分)
★福岡県宗像市の鐘崎港から北西へ約3km、連絡船に乗って20分ほど揺られると地島に到着します。東は響灘、西は玄界灘に挟まれた漁業の島。港には一本釣りや定置網の漁船が並び、周辺の磯にはウニやアワビを獲る伝馬船が浮かびます。
★標高187mの遠見山を頂点に100mを越える山々が連なり、東側には切り立った断崖が 続き、北風が当たらない南側と西側の窪みに集落があります。南側の泊漁港から地島小学校を経て西側の豊岡漁港、さらには倉瀬展望台まで延びる道は“椿ロー ド”と呼ばれ、毎年2〜3月には道の両側にたくさんのヤブ椿が花を咲かせます。そして椿の花でいっぱいになる3月の初め頃には「地島椿祭り」が開かれ、新 鮮な魚介類や椿ごはん等も販売され賑わいを見せます。
★地島は古代海洋豪族として知られる宗像氏の拠点の一つにもなっていた島で、古い歴史を 持っています。泊港のところにある厳島神社は、宗像氏所縁の宗像三女神を祀る神社で、安芸の宮島の厳島神社より先に分霊されたと伝えられています。毎年7 月中旬に催される祇園祭の山笠は、この厳島神社から出発して島を練り歩きます。
★島名の由来として、三女神の一人、市杵島姫(いちきしまひめ)と慈しむ(いつくしむ)の 音が似ていることから慈島となったものが後に誤って地島と表記されるようになったと筑前国続風土記は伝えています。実際に厳島神社の古い鳥居には「慈島 宮」と彫られている文字が見えます。また、お隣りの大島に対して小島と呼ばれていたこともあるようです。
★江戸時代になり福岡藩の初代藩主となった黒田長政は地島の整備も行っています。長政が命 じて造らせた波止場を殿様波止と呼び、参勤交代で立ち寄った時に使った井戸を殿様井戸として後々まで語り継がれているようです。殿様波止は慶長8年 (1603年)に父、黒田孝高(如水)が造ったものを1618年に長政が補修したという記録もあります。
★人柱伝説供養碑というのは、殿様波止を作るときに工事が難航したので、神の怒りを鎮める ために若い娘2人をこの波止に埋めたという言い伝えです。人柱伝説は全国の所々で聞かれますが、どこまで真実か分かりません。波止を造る時に事故か何かで 亡くなった人がいたのでしょうか?
★小学校の近くに「孝女こやの碑」が建っていますが、これはこの島に住んでいた九郎右衛門という人の娘“こや”が大変な孝行娘だったために、語られ碑が建てられたものです。ただし、資料が見つからずその内容は分かりませんでした。
★昭和60年に放映された東芝日曜劇場「天ノ島地ノ島」(樋口可南子主演)はこの島が舞台になっています。(参考:シマダス)
※黒田長政[永禄11年(1568)〜元和9年(1623)]:関が原の戦いでの功績を認められ筑前国福岡藩の初代藩主となる。キリシタン大名。父は豊臣秀吉の軍師として有名な黒田孝高(よしたか)(官兵衛、如水)。
※人柱というのは大規模な建設事業などで安全を神に祈るために人身供養することだが、大昔にはそういう事があったかもしれないが、江戸時代にあったかどうかは不明。ただ伝承だけはあ