いま、ここに生まれ住んでいる理由…その2 |
八坂神社にこのような意識でお参りしたことはなかったな…
いま、手元にあるわたしの子どもの頃の家族写真…両方の祖父母がいる、両親がいる…兄がいて、私がいる…小さな手元には、千歳飴の袋。八坂神社と書いています…
忘れていた思い出が続々に蘇ります。そういえば、ミモザのお宮参りの写真はここでとったんだっけ。主人の幼なじみがカメラマンとしてここに勤めていたので。(藤原さんの父の葬儀の時も写真を)
そして…八坂神社はとても立派でした。こんな大きな神社で、そんなに感じないだろうと思っていましたら、ハートがビンビン感じてしまいました…なんだろう、この思い…少し胸が苦しいような。
本殿裏にある、稲荷神社や水神神社にもひとつひとつ。丁寧にお参りしました…
昨日、播磨からの方が来られてましたが、播磨と深い関わりがあるようで、実に面白いなと思いました。
とにかく、今日、参拝できてよかったです。
参拝後、引き寄せられるように小倉城内へと…少し時間があるので、城内見学をすることにしました。初めて!です。ドキドキ…
入ってすぐに…虎が迎えてくれました。迎え虎なんだそうです。まさにトラークル!です(笑)何か、次々にいろいろと見せてくれます…
足早に見学したのですが、こんど、子どももつれてこようと思いました。きっと興味あるだろうな…
そして2分間、人形劇のようなからくり劇場がありました。そこで、島原の乱、キリシタンの乱の鎮圧…と云われました。十字架が画面に浮かびあがり、驚きました。まただ…やっぱり。これは本当に…と確信させられました。
これはきっと…今日の夕方にセッションを受けに来られる、魚町でアトリエをしている奈良のN子ちゃんの相棒、H美ちゃんへと繫がる流れでもありそうです。
いつかの夢で彼女たちと、ブルーと紺、グレーのリボンエンブレム、洋館が出てきました。それで、洋館は4度くらい出てきたことがあり、ヨーロッパあるいは、キリスト教的な記憶に関係するのかな…と思っていたところです。未浄化のものが、きっと光にあがるでしょう…
小倉城内にもたくさんの資料がありました。
詳しく書かれているブログをみつけました。西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズ「北九州に 強くなろう…からです。 ご紹介します…
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/004/01.html
対談形式で長いので、割愛しています。詳しくはサイトを見てください。
戦国動乱の小倉
細川忠興画像
小倉城は、勝山城、指月城(しげつじょう)、勝野城、湧金城(ゆうきんじょう)、鯉の城などいろいろの優雅な呼び名があるようです。
古い記録はいろいろありますが、小倉城として、私たちのイメージにうかぶのは毛利元就(もうりもとなり) が築かせた平城(ひらじょう)ですね。だいたい今の城と八坂神社のあたり。大友宗麟(おおともそうりん) と元就が北部九州の争奪戦をやっていた時代です。中国5カ国(周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)・備後(びんご)・石見(いわみ))を平定した元就は謀略にもたけていて、宗麟の重臣高橋鑑種(たかはしあきたね) を口説いて寝返らせ、岩屋城と宝満城(太宰府)で宗麟に反旗をあげさせ、毛利の大軍が九州に上陸します。このとき毛利がいまの小倉城のところに、平城をつくったのです。そうして九州北部に毛利の旗色が強くなっていくのです。
宗麟も負けていません。かねてかくまっていた毛利の旧主筋になる大内義隆の叔父の大内輝弘を周防に上陸させ、毛利の後方を撹乱させます。
毛利は国もとが大変で九州どころではないので中国へ引きあげます。高橋鑑種(あきたね)も岩屋・宝満を退去し、毛利の持城の小倉城にはいります。また大友 の勢力が拡大しますが、それも束の間で、今度は、天正6年(1578)、に北上してきた島津に宗麟は日向耳川で大敗、以後じわじわと攻められる。
ねをあげた宗麟が豊臣秀吉にSOSをたのむのですね。
秀吉は天下の勢力です。軍勢20万を率いての九州出兵天正15年(1587)に島津は降伏し、領地は本拠の薩摩、大隅、日向の三州に削減され、秀吉の九州支配が確立します。
そのとき、小倉城は秀吉の子飼いの森吉成にあたえられます。
吉成は地元勢の高橋・宇都宮等の第一軍をひきいて、軍使や治安に活躍し、※企救(きく)、田川の2郡、6万石の城主となります。
※企救−現在の小倉南北区、門司区一帯の旧名称
小倉城主であった高橋鑑種の子、元種は日向延岡で5万3千石を与えられています。
新たに小倉城主になった森吉成は、毛利勝信と改名しています。
なぜ毛利姓に。
対岸の毛利は西海の大勢力ですから、気をつかったのでしょうか。天正15年に秀吉の口ぞえで改姓しています。
その毛利も短命で。
勝信は秀吉の信任があつく、朝鮮の陣では八道司令官の一人として奮戦し、蔚山(うるさん)籠城の加藤清正救援に活躍したりしています。
秀吉没後、徳川家康と石田三成との関ヶ原の戦いになります。
このとき石田支援に出陣しようとしていた勝信は、中津の黒田如水(くろだじょすい) に不意をつかれて攻められて退散。戦後改易され、子の勝永とともに土佐の山内一豊(やまのうちかずとよ) に預けられ、11年後の慶長16年に病没しています。
小倉領主としての勝信に見るべきものがありますか。
資料がのこっていないのでよくわかっていません。菩堤寺の本就寺(ほんじゅうじ)を建てたこと。富田屋や菊屋ほかの大商人がいて城下町らしいかまえがあったと思われること。キリシタンを保護し、秀吉に追放された高山右近の家来たちがいたことなどなどがわかっているぐらいです。
武人というより経世家だったようで、戦乱の時代には向かなかったのではないでしょうか。
その息子の勝永が、土佐を抜けだして、大坂の陣で勇将として活躍してますね。
真田幸村や後藤又兵衛とともに勇名をとどろかせました。勝永は徳川方で後に小倉城主になる小笠原軍を討ち破り、藩主小笠原秀政、と長男の忠脩(ただなが) 親子を討ち死にさせています。最後は豊臣秀頼の介錯をして自刃しています。
なにか小倉にからむ因縁を感じますね。
”唐風”で評判
細川忠興 花押
Tada uoquiのローマ字印
勝信のあとに小倉城主として入部するのが細川忠興(ほそかわただおき)[(永禄6年(1563)〜正保2年(1645)]ですね。
関ヶ原合戦慶長5年(1600)の論功行賞で丹後宮津11万石から、豊前と、豊後(ぶんご)の国東(くにさき)、速見(はやみ)両郡の内を合わせて、30万石の領主として忠興が入国するのです。実高が約39万9千石あったそうですから、大栄進ですね。
忠興は、はじめ、筑前52万石に栄進した黒田長政が拠(よ)っていた中津に入りました。
小倉へ移ったのは……。
翌、慶長6年に検地をおこなって、家臣に地行地を配分し、弟の興元(おきもと)を小倉にいれています。
ところが、その興元が出奔してしまう。それで、忠興が小倉にはいる決意をしたようです。
九州の玄関口で筑前、豊後、田川への分岐点の要衝である。細川は外様(とざま)大名ですが、徳川の恩顧をえている。海峡をはさんで毛利氏の押さえの役目を 充分に意識したでしょうね。毛利は8カ国112万石から周防、長門の2国36万9千石におとされ、徳川に怨みを抱いている雄藩ですから。
また隣藩黒田藩が国境ぞいに支城を次々つくっているので、その対抗意識もあったでしょうね。明敏な忠興は紫川河口を港として、外国貿易もと考えたでしょうね。
家康は、島津、加藤、毛利の備えに、忠興と長政を。なかなかの名人事ですね。
九州は島津義久、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、細川忠興と、智勇兼備の外様の名将ぞろいで、家康の配意がうかがわれますね。後には立花宗茂も復活させている。
で、いよいよ本格的な小倉城築城ですね。
忠興が縄張り(設計)して、入国して2年目の慶長7年(1602)に工事にかかり、12年まで5年間かけての大工事でした。
西は板櫃川(いたびつがわ)。東は寒竹川(かんたけがわ)を掘削して砂津川をつくり、東西の外濠に。南は濠を掘り、北は海をいかして、水の防御ラインをしきました。
そして城内となる外曲輪(そとぐるわ)、東西2キロメートル、南北1.3キロメートルを石垣と深い濠で囲みました。そして曲輪の中にも幾重にも濠をめぐらせています。
天守閣をみると堀から石垣の高さが18.8メートル、そして4層5階の天守閣の高さが28.7メートル。合わせると47.5メートルの高さです。
当時は平家(ひらや)だけですから、そそりたつ天守の偉容は目を見張らせたでしょうね。石垣は足立山から切り出した野面石(のづらいし)で、その風格は忠興自慢のものでした。
忠興はこの天守にも一工夫しています。4層と5層との間に屋根ひさしがない。そして5層が4層より外に張り出している。1層から4層までが白、5層は黒ぬりで、この工夫は天守閣をさらに大きく、威容ある名城に見せたでしょうね。
唐風(からふう)だと評判になったとか。
唐風というと中国や朝鮮の工夫ということですね。
忠興はバテレンの宣教師も保護していますから、南蛮の工夫もふくめてではないでしょうか。いまでいう超近代的という評価が、〝唐風″なんでしょうね。
同時進行の福岡城も、長政が朝鮮の役で見てきた堅城晋州城(しんしゅうじょう)を参考にしていて、加藤清正に褒められています。それぞれに唐風、近代知識をきそったのでしょうね。
ところが、※黒田は、徳川に遠慮して天守閣をこわしたと思われる資料が近年でてきましてね。ここらへんに両者の徳川との距離が見えるようですね。一所懸命に領地を守るために長政には長政の苦衷があったのですね。
築城コンクールとなった。戦国を生きぬいた名将がお互いに英知をしぼったのですね。
※東京大学出版会の「大日本近世史料−細川家史料」による
濠と門 城下町に工夫
やはり濠ですね。東側は、足立山系から紫川に流れる寒竹川の、中途から海へ掘削していまの砂津川をつくり、外濠としました。
この外濠と紫川の間が竹藪の多い荒地をきりひらいた東曲輪(ひがしくるわ)です。紫川から西が西曲輪です。こうして外濠と、紫川、天守閣下の内濠と3段が まえです。西は板櫃川を外濠にしてその内側、三の丸、二の丸、内濠と5重に、西北の海岸側は溜池を補強する。北側は海と西曲輪に3重の濠。西曲輪の南側は 外濠から三の丸、二の丸、内濠と4重の濠でかこみました。
さらに万全を期して、東曲輪は砂津川の三本松付近に大きな水門を設けました。敵が攻めてきたとき、この水門をとじると寒竹川の水があふれて、動きがとれなくなるように考えていました。
この水門は西曲輪では板櫃川の流域の平松浦の地蔵橋のところにも設けられていました。
万全の備えですね。さらに三の丸に高い石垣。そして藩主と藩中枢の本丸・二の丸にもそれぞれ濠を設け、幾重にも防御しています。
そしてそれぞれに厳重な門が…。本丸南東に表正門の大手門、南西に裏門の搦手門(からめてもん)と。
大手門を入ると玄関で、その前に槻門(けやきもん)があり、大手門と槻門の両扉から入れるのは英彦山(ひこさん)の座主(ざす)。家老と開善寺、宗玄寺、 広寿山、成願寺の住職や求菩提法主(くぼてほっす)と桂女(かつらめ)は槻門の片扉から。家老以外の藩士は搦手門から登城していました。
門は全部で48、門の上や諸方に配置した櫓(やぐら)が148。そして矢や鉄砲のため、櫓や石垣に3271もの狭間をもうけています。
門には勢溜(せいだま)りの広場を設けて、敵がそこへ集中したところへ、狭間から鉄砲や矢をあびせるのです。
外濠の大門は10でみな桝形門(ますがたもん)です。
桝形門は外側に高麗門(こうらいもん)、内側に櫓門(やぐらもん)があり、その間に桝形の広場がある。高麗門から突入した敵兵は、櫓門でさえぎられ、桝形の広場にたまる。そこへ門と櫓の狭間から失と鉄砲をあびせるという訳です。
もっとも、これはどの城の築城様式にも見られます。まあ当時の築城の常識でした。
門司口に徳蓮寺、富野口に真淨寺、中津口に大隆寺を建立していますが、それぞれ砦の役目もはたしたのでしょう
城の中心の本丸が藩主家族の住居ですね。
と同時に藩の政庁が設けられています。家臣群は西曲輪の二の丸、三の丸に。東曲輪は町人と陪臣(家臣の家来)たちの居住区。後には藩士も住むようになりました。
万一の籠城にそなえて、家臣群や領民を吸収するため、外濠に囲まれた総構えは広くとり、本丸、二の丸、三の丸をせまくしていました。
東曲輪がいまの小倉の中心なんですね。
新開地ですから都市計画もフリーで、北から博労町(ばくろうまち)、京町、米町(こめまち)、大坂町、鍛冶町、堺町、円応寺(えんのうじ)筋、小姓町、紺 屋町(こうやまち)、古船場町(ふるせんばまち)とつらねました。南北の筋では紫川ぞいに、宝町、その東の船場町、魚町、鳥町。そして常盤橋下の川口を本 土への渡航口にしています。
忠興は"一所懸命"の名人
戦国乱世を生きぬいてきた自信からでしょうが、忠興はなみの猛将ではなかったのですね。
父親の幽斎藤孝は足利将軍義輝に仕え、信長、秀吉、家康の時代を生きぬいている。『古今和歌集』の秘事を伝え、関ヶ原戦では、西軍に包囲されて居城田辺に籠城しましたが、その死を惜しむ後陽成天皇の勅命で開城しています。
子の忠興もその血を受けついで、勇将ながら能、和歌、連歌に長じ、茶の湯では利休七哲の一人とされる、たいへんな文化人でした。
そう言えば夫人玉が有名なガラシャ夫人ですね。
いま、ここに生まれ住んでいる理由…その3へ!