南朝の親王軍、南朝方豪族/引用 |
「玉骨はたとい南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん 」
−後醍醐天皇−
1339年「後醍醐天皇」吉野に死去。1348年高ノ師直が「吉野焼き討ち」。
賀名生行宮に撤退。
1368年「後村上天皇(義良親王)」摂津住吉行宮に死去。
長慶天皇 (*〜1394)南朝の天皇。1369年足利義満・細川頼之の勧誘で楠木正儀が北朝に降伏。住吉行宮を捨て吉野に撤退。1383年弟・後亀山天皇に譲位。南山行宮に没す。懐良親王、宗良親王も相次いで没す。
後亀山天皇 (*)南朝の天皇。
北畠顕能 (*)北畠親房の三男。1348年楠木正行に呼応して幕府軍を攻撃。1352年楠木正儀とともに京都突入。細川頼春を討つ。
▽湯川* (*)庄司。北畠顕能の腹臣。1352年男山八幡の籠城に兵糧が欠乏し幕府に降伏する。
千草顕経 (*)忠顕の息。1352年楠木正儀とともに京都突入。細川頼春を討つ。
各地域の南朝軍
<坂東衆>
仁科重貞 (*)信濃の堀川光継の跡職継承。1336年「建武新政」に信濃国司。1336年比叡山籠城1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。。<信濃の小笠原一族か。子孫は武田信玄の息が養子として入る信濃の名門仁科家に繋がるか。>
春日部家綱 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
江戸景氏 (*)1336年比叡山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。
本間重氏 (*〜1337)孫四郎。1336年「湊川の合戦」に軍功。1336年比叡山籠城に相馬とともに軍功。北国落ちに従わず、足利軍に降服するが六条河原にて処刑される。<本間一族は鎌倉幕府方として、中先代に関東で蜂起。>
相馬* (*)四郎左衛門。1336年比叡山籠城に本間とともに軍功。
<東海・中部・北陸地方>
足助重範 (1292〜1332)足助七世。「正中の変」に討死した足助重成の一族。1331年「元弘の変」に後醍醐天皇の笠置山籠城に参陣。総大将となる。1332年落城の際に捕縛され六条河原で討たれた。
⇔○狩野貞長 (*)狩野介・貞綱。建武新政に武者所。1336年関東厩番、武者所三番。1336年比叡山籠城。1340年今川家と対立し宗良親王に従う。1352年新田義宗の挙兵に足利尊氏に従い出陣。駿河安倍城主。
井伊高顕 (*〜*1386)井介。遠江井伊谷の領主。奥山城城主。井伊通政の息。1337年比叡山落ちに際して妙法院宮を奥山に匿う。白羽湊に漂着した宗良親王を天野景隆とともに救援。足利一門、今川範国と抗争する。
天野景隆 (*)遠江の豪族。井伊高顕とともに白羽湊に漂着した宗良親王を救援。
香坂高宗 (*)天竜川上流の信濃の豪族。大河原城主。宗良親王に従う。
⇔北条高行 (*)北条高時の息。南朝方に降る。信濃大徳寺城主。宗良親王に従う。
中院定清 (*〜1335)越中国司。井上(普門)利清の挙兵により戦死。
⇔○井上俊清 (*〜*1348)普門・越中守。越中の豪族。1338年武家方として越後新田軍と抗争。のち吉見頼隆に敗北し没落。桃井直常が越中新守護。
栗沢正景 (*)新田貞員の後見人。1346年貞員に従い「能登乱入」。
富来俊行 (*)能登国人。新田貞員を居城に迎える。木尾岳城城主。
<近畿地方>
長沼高秀 (*)淡路守。長沼家惣領。南朝方として抵抗。家督を長沼秀行に奪われる。
↑名和長生 (*)大井・長和・長重。1338年に高兄弟との「阿倍野の合戦」に破れる。1352年5月後村上天皇の男山八幡脱出に奮戦し武功。
<中国・四国地方>
荻野朝忠 (*)尾張守。丹波守護代。1344年南朝方に通じ幕府軍に攻撃される。<足利方の丹波豪族・荻野尾張守とは別人らしい。宗家と分家が南朝北朝に分かれて争うか?。>
▲益田兼方 (*)石見国国人。益田惣領家。1335・36年足利方。息に兼見。
⇔益田兼見 (*)石見国国人。益田兼方の息。益田惣領家。1335・36年足利方。
福屋兼景 (*)石見国国人。中部の豪族。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。
高津長幸 (*)石見国国人。西部の豪族。吉見家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。
佐波顕清 (*)石見国国人。1335・36年宮方。
工藤* (*)三郎。石見国国人。1339〜1342年新田義氏を旗頭に、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。
津野* (*)石見国国人。東部の豪族。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで三隅氏とともに最後まで抵抗。
▲三隅兼連 (*)石見国国人。中部の豪族。益田 家分家。1335・36年宮方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。新田義氏とともに益田家を攻撃。1342年新田義氏の降服後も、足利尊氏の派遣 した上野頼兼、武田信武軍と抗争。1344年頃まで津野氏とともに最後まで抵抗。息に兼知、兼春。三隅城主。
三隅兼春 (*)四郎・与一・入道。石見国国人。中部の豪族。益田家分家。兼連の息。兄に兼知。1335・36年宮方。黒沢城主。杵束城主。
周布兼宗 (*)石見国国人。中部の豪族。周布惣領家。1335・36年宮方。
⇔周布兼氏 (*)石見国国人。中部の豪族。周布分家。1335・36年足利方。1339年石見に挙兵した新田義氏の与力。
(伊予国)
⇔河野通治 (*)通盛。河野家惣領。河野通有の息。通増の従兄弟。朝廷方の河野一門の土居、忽那に対して、当初鎌倉幕府方として働き失領。幕府滅亡後、土居・得能氏 とともに後醍醐天皇に従う。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王・新田義貞に従い越前に従軍。のち北朝方として働く。1342年土居・忽那氏に湯築 城を攻撃される。息・通朝は北朝に降服し1350年に伊予守護。
河野通増 (*〜1337)土居通増・新左衛門尉。河野通成の息。通治の従兄弟。1331年護良親王に呼応して挙兵。1335年尊氏の関東下向に従う。のち新田義貞に従い「湊川の合戦」。新田義貞に従い越前に従軍。越前にて戦死。
土居通世 (*)河野通世。1337年兄の戦死後家督。南朝方として働く。1337年懐良親王を三年間後援。安芸守護・武田直信、河野通盛の攻撃を撃退。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。
▽土居通景 (*〜1342)河野通景。細川頼春軍の攻勢で伊予世田城の攻防戦に戦死。
得能通綱 (*〜1337)河野通綱。得能通村の息。河野通増と結び1331年護良親王に呼応して挙兵。1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。
得能通時 (*)河野通時。1337年道通の戦死後家督。南朝方として働く。1342年伊予落ちした脇屋義助を援助。
重見* (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。
村上義弘 (*)伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。1337年懐良親王を三年間後援。
祝* (*)大山祇神社神職。伊予豪族。1331年護良親王に呼応して挙兵。
▽↑忽那義範 (*〜*1356)藤原義範・下野 法眼・下野房・下野坊。忽那水軍惣領。伊予国の豪族。元・鎌倉幕府御家人。重義の息(次男)。1336年北朝に転じた惣領(兄)・重清に代わり、南朝方惣 領。伊予落ちした脇屋義助を援助。1337年懐良親王を三年間、自領に匿う。のち「観応の擾乱」に足利直冬を支援。
小林* (*)右京亮。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。「二条河原の合戦」に佐々木山内判官(山内定詮)を撃退。
小林重長 (*)民部丞。山名時氏の家老職。伯耆の豪族。丹波守護代。1355年南朝方が山名時氏と同盟し、幕府軍と合戦。
<九州>
▲菊地武時 (1192〜1333)次郎。菊池家惣領第12世。肥後の豪族。1333年後醍醐天王の船上山の綸旨を受け鎮西探題・北条英時を襲撃。少弐貞載の離反により戦死。のち7人の息子の間で跡職争い勃発。
菊池武敏 (*〜*1341)九郎・掃部助。武時の男(9男)、武重の弟。少弐貞載を討つ。1336年博多表「多々良浜の合戦」に1万騎。足利軍に敗北する。九州の局地戦で阿蘇惟直とともに南朝軍として活躍。兄・武重の帰国後これを助け、死後は武士を後見する。
▽菊池武重 (1307〜1338)次郎。武時の 男(嫡男)。菊池家惣領第13世。1333年父・武時とともに鎮西探題を襲撃するが、少弐・大友の離反で敗北する。1336年新田義貞の足利征伐軍に弟・ 武吉とともに従軍。京都で新田義貞軍として活躍する。「菊池千本槍」を畿内に轟かせる。1336年「湊川の合戦」に敗北。弟・武吉は戦死。1336年比叡 山籠城。1336年比叡山退去に後醍醐入京に従う。九州に帰還し、1337年2月南朝勢力として蜂起。翌年、急死する。
▽菊池武吉 (*〜1336)1336年「湊川の合戦」に楠木正成軍の与力。楠木一門とともに戦死(自害?)。
▽菊池武士 (*〜1401)菊池家惣領第14世。武時の男、兄・武重の死後に家督。武敏・武茂に補佐される。兄・武光に惣領を譲り、出家。
↓▽菊地武光 (*129〜1371)豊田・十郎。菊池家惣領第15世。武重の庶子。実力で菊池家惣領となる。器がなければ兄・武隆が惣領となる条件を課せられる。九州宮方の中心勢力として後村上天皇に忠節。
阿蘇惟時 (*)阿蘇神社大宮司。肥後八代庄内道前郷の豪族。1335年足利尊氏追討軍。「竹ノ下合戦」に敗北。「多々良浜の合戦」にて息の惟直・惟成を失う。懐良親王の九州入りに対して中立。
▽上島惟頼 (*)阿蘇一門。惣領・惟時に従う。1335年足利尊氏追討軍。
▽阿蘇惟定 (*)阿蘇一門。惣領・惟時に従う。1335年足利尊氏追討軍。「竹ノ下合戦」に敗北。1336年「湊川の合戦」に宮方。
▽阿蘇惟直 (*〜1336)惟成の兄。肥後八代の豪族。阿蘇惟時の息。1336年「多々良浜の合戦」に、足利直義隊に突撃を受け負傷する。足利軍に敗北し戦死する。
▽阿蘇惟成 (*〜1336)惟直の弟。阿蘇惟時の息。1336年「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北し戦死する。兄弟の戦死に対して宮方からは何の恩賞もなく、父・惟時は武家方に走る。
秋月種道 (*)1336年「多々良浜の合戦」に足利軍に敗北する。
⇔島津貞久 (*)1333年北条英時に応じて鎌倉幕府軍。のち転じて少弐・大友氏とともに大宰府を襲撃。建武政権に薩摩・大隈・日向守護とされる。薩摩に上陸した懐良親王と抗争。のち南朝方。
懐良親王の軍団 征西大将軍宮。
懐良親王 (*1329〜1383)阿蘇宮・中務卿・征西将軍・九州探題。 後醍醐天皇の息。母は中納言為道の娘。1336年比叡山籠城。1339年父・後醍醐天皇の命で九州に派遣される。五条頼元・中院義定ら12人が補佐。 1340年豊後に侵入。1342年薩摩谷山城を拠点とする。1348年肥後菊池家の宇都津に迎えられる。1351年鎮西探題・足利直冬の下向で、一色党が 宮方に転ずる。1355年一色範氏・直氏を追放し博多を占拠。1359年少弐頼尚を「大保原の合戦」に破る。1361年大宰府を占拠。菊池武光、菊池武政 の後見で北九州を制圧する。1369年甥の後村上天皇皇子・良成親王を河野通直のもとへ派遣。1371年九州探題に今川貞世が着任。1372年大宰府を攻 略される。1375年征西将軍職を後村上天皇皇子・良成親王に移譲する。筑後に隠居し死没。
<貴族衆> 1336年9月四国上陸。伊予国忽那島滞在。 1340年4月九州上陸。
↑五条頼元 (1290〜1367)勘解由次官・ 少納言。清原良枝の息(次男)。1333年「建武新政」の恩賞方、四番局。南海道・西海(九州)道担当。1336年北朝の光厳上皇に従うが、出奔。のち懐 良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。阿蘇氏の南朝勧誘に勤める。
▽五条良氏 (*)五条頼元の息。早世。
▽五条良遠 (*)五条頼元の息(三男)。家督を相続する。1339年懐良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。後村上天皇の皇子・良成親王を守護する。
冷泉持房 (*)北畠・春日。北畠親房の弟。1339年懐良親王の後見人。伊予忽那島滞在3年のち九州に派遣される。息に春日顕国(顕時)。
↑三条泰季 (*)1336年比叡山籠城。1336年恒良親王に従い越前下向。のち九州薩摩に派遣される。懐良親王の谷山御所に出仕。
日野資舜 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。
坊城有氏 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。
洞院親弘 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。
花山院基直 (*〜1359)1359年少弐・大友氏との「大保原の合戦」に戦死。
<薩摩侍衆> 1340年4月九州上陸。 1348年肥後・宇土津入城。
谷山隆信 (*)薩摩の豪族。1340年懐良親王を居城に迎え御所とする。足利方の島津貞久と抗争。1347年四国の水軍村上・忽那・桂、熊野水軍の協力で島津領に打撃を加える。薩摩津、谷山城主。
肝属兼重 (*〜1349)荻原。肝付兼藤の次男。兄・兼尚に代わり家督相続。肝付第8世。1335年から南朝方として働く。1349年北朝方の石井重信との抗争中に病没。息・秋兼が家督継承。
伊集院忠国 (*)島津・長門守。島津一門。当初、島津貞久に従う。1340年懐良親王に出仕。息の伊集院久氏は島津氏久に従い北朝方。<1359年「大保原の合戦」に旗頭となる島津氏は伊集院忠国か。>
島津* (*)忠澄。懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。南朝方として「大保原の合戦」に参加し、大友氏時と合戦。別働隊8000人大将。与力日向軍5500人を率いる。<伊集院島津氏の忠国の一門か?。>
<肥後侍衆> 1348年肥後・宇土津入城。
↑△菊池武光 (*1329〜1371) 豊田・十郎。肥後の豪族。武重の庶子。肥後国益城郡豊田を領する。14世・菊池武士の跡職を相続。実力で菊池家惣領となる。後村上天皇に忠節。1348年 居城に懐良親王を迎える。1353年「針摺原の合戦」に一色範氏を撃破。1359年「大保原(筑後川)の合戦」に少弐頼尚を撃破。1361年大宰府占拠。 1373年今川貞世が奪回するまで、南朝方征西府とする。隅府城主。45歳。
菊地武政 (*〜1371)菊池武光の嫡男。1359年「大保原の合戦」に従軍。1371年今川貞世の九州侵攻に負傷。<1371年今川貞世の九州上陸の前に、父・武光は戦傷がもとで死去していたとも。>
菊池武明 (*)菊池武光の甥。1359年「大保原の合戦」に従軍。先鋒第一陣2000人大将。与力に賀屋昌雄、見参岡高子、庄忠益、国分行喬を率いる。
菊池武信 (*)菊池武光の甥。1359年「大保原の合戦」に従軍。赤星武貫を与力に第二陣1500人大将。
▼菊地武朝 (*)長慶天皇に忠節。
▽赤星武貫 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の副将。
阿蘇惟澄 (*〜1364)阿蘇氏庶流。惟時の娘婿。懐良親王の九州入りに応じた、唯一の阿蘇氏。御船城主。武家方に離反した矢部城の惣領・惟時を討つ。1347年菊池武光との同盟が成立し、懐良親王を肥後に迎える。息に惟武。
▽阿蘇惟村 (*)阿蘇社社務職。阿蘇惟澄の息。父に反して少弐頼尚と結ぶ。
▽阿蘇惟武 (*)阿蘇社社務職。阿蘇惟澄の息。懐良親王の征西府に出仕。菊池武光を烏帽子親に加冠元服。武光から宇土郡浦、下益城郡小河を割譲される。
<豊前侍衆> 1361年大宰府占拠。 1372年に奪取されるまで11年間、九州支配。
宇都宮隆房 (1329〜1359)常陸介・三河守。豊前宇都宮氏。父・頼房は筑後・豊前両国守護。懐良親王に応じて菊池武光とともに、少弐・大友氏に対抗。1359年「大保原の合戦」に少弐直資を討取る軍功。しかし、乱戦となり戦死する。31歳。
結城親明 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の与力として第二陣。討死。
加藤宗高 (*〜1359)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。菊池武信の与力として第二陣。討死。
岩松盛依 (*)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。左翼軍1000人大将。
名和顕興 (*)懐良親王を擁立する、菊池武光に与力。1359年「大保原の合戦」に従軍。右翼軍5500人大将。