強力なアシストの光…もうひとつの故郷へと。 |
今朝方の夢にひき続き…今日も親しい魂と深く交流する1日となりました。
意識は九州を出て、新たなステージに繫がっています。
亡き父が光に上昇していく今、強力なアシスト役が守護してくれているように思えています。
昼前に下の子がどうしても、今日、おばあちゃんとご飯食べたいというので、本人にまかせました。
それで夕方7時くらいに待ち合わせしたようです。亡き父は主人の父、おばあちゃんは私の実母です。
今日は比較的、のんびりとした1日でした。
午後過ぎから、ハートに火がつきました(笑)
周波数がにわかに高まり…
いろいろな事が奥深く繫がっていくようでした。
昨日から、小月が気になっています。ネットで検索してみました…
小月と月氏とか…
いつも母方の親戚のある宇部や小野田に行く際に、小月という地名に出くわします。
(Wikipedia)より
小月(おづき)とは、山口県下関市の小月地区(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所小月支所の所管する区域)を指す地域名称。なお、旧下関市域のうち、JR小月駅を最寄り駅とする地域全体(小月に、清末、王喜、吉田を加えた地域。)を指す言葉として「小月」という語が使用されることがあるが、必ずしも正確ではない。
本項では同地域にかつて所在した豊浦郡小月村(おづきむら)、小月町(おづきまち)についても述べる。
下関中心市街地から北東へ約16km、下関市の東方に位置し、木屋川最下流域の西岸に位置する地域である。
登録人口は7,027人。(2009年2月28日現在、下関市役所ホームページによる。)
地区面積は8.09km²(2007年10月1日現在、下関市役所ホームページによる。)で、旧下関市内では一番面積が小さい。
土地利用は住宅と農地を主とする。ただし、小月駅北側と国道491号(旧国道2号)沿線に若干の商店があり、小月小島町に日清食品などの工場が立地する。
北は菊川地区、西は内日地区、東は王喜地区および吉田地区、南は清末地区と隣接する。
域内には、JR山陽本線、国道2号(小月バイパス)、国道491号(旧国道2号)、中国自動車道が通る。また、JR山陽本線小月駅と中国自動車道小月ICがある。
地名由来と地域のあゆみ
小月の地名は、山の尾(裾野)の最後にあったために「尾付」と称したのが「小月」と転じた説、高尾山まで船が着いたことから「高尾着」と呼ばれていたのが省略されて「尾付」→「小月」となった説などがある。古くから山陽道の宿場町として栄え、明治期に入って国道が整備されると、山口県中部・北部の菊川・豊田・萩へつながる道の分岐点として位置づくことになった。もとは旧豊浦郡に属する村(小月村)であったが、町制施行ののち1939年(昭和14年)に下関市へ編入した。
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小月も豊浦だったんだ〜
そして、昨日のセッションのOさんの故郷、菊川に繫がる分岐点だったのだと知りました。
もとは旧豊浦郡に属する村(小月村)だったのだとわかりました。秋月とかもそうですが、月がつく地名は月氏との関わりが深いのでは?
そこでまた調べてみました…月氏と小月氏について(地名の小月と関係しているかどうかは全く定かではありません)
月氏より
…月氏の主勢力は西方に逃れ,パミール高原を越えてアム・ダリヤ流域に移動し,アフガニスタン北部のバクトリア王国(大夏)を征服した。中国史料は中国辺境に残留したものを小月氏,西方に移動した勢力を大月氏と呼ぶ。漢の武帝の使者張騫(ちようけん)はこの大月氏を訪れ(前139ころ),西方世界の珍しい情報を持ち帰った。…
月氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
月氏(呉音:がちし、漢音:げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。
紀元前3世紀、秦帝国と北方民族。
月氏という名の語源には様々な説がある。
戦国時代にいた和氏、禺氏、牛氏などの転写であるとする説。桑原隲蔵,松田寿男,江上波夫が提唱。[1][2]
イラン系言語からきたとする説。[3]
月氏は玉(ぎょく:ヒスイ)の産地(タリム盆地)を占めていたので、玉氏が訛って月氏になったとする説。[4]
月氏の子孫であるクシャーナ朝の彫像に、月のシンボルが多く見出されることから、月氏が月を崇拝のシンボル(トーテム)としていたために中国側がその意訳として月氏にしたとする説。[5]
釈適之『金壺字考』(宋代)に「月氏…月音肉。支如字。亦作氏。」とあることから、中国の張西曼は「大月氏は大肉氏の誤写であり、タジーク民族の対音である。」と主張し(1947年)、それが中国やアメリカで支持され、「月氏(Yuezhi)」を「肉氏(Rouzhi)」と表記・発音する研究者が生まれた。[6]
言語系統
19世紀以来、テュルク系,イラン系,チベット系,モンゴル系,カッシートと、多くの説が唱えられており定説は無かったが、近年は月氏はイラン系であるという説が有力だった。それは、1957年に発見されたスルフ・コタル碑文や、1993年に発見されたラバータク碑文などによってクシャーナ朝がイラン系言語であるバクトリア語を使用していたことが明らかとなったため、その祖先と思われる大月氏および月氏もイラン系言語を用いていたと考えたためである。ただし、これは月氏の子孫がそのままクシャーナ朝になったとする場合であり、クシャーナ朝の起源には土着民説[7]と大月氏説[8]があるので断定はされていなかった。
最近の研究で、新たに新疆[9]で出土したウイグル語訳の『慈恩伝』の中に、焉耆,亀茲を大月氏の遺留部族と記した箇所が見つかった[10]、敦煌文書の『西天路竟』で焉耆が月氏と記されていたことや、1980年代以降の言語学の研究[11]と併せ、月氏はトカラ語を使用していた可能性が高い。[12]
歴史
月氏
秦の始皇帝(在位:前246年 - 前210年)の時代、中国の北方では東胡と月氏が強盛であった。一方、匈奴は陰山の北からオルドス地方を領する小国にすぎず、大国である東胡や月氏の間接支配を受けていた。ある時、匈奴の単于頭曼は、太子である冒頓を 廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺 そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そ のまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。
その後も依然として敦煌付近にいた月氏であったが、漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)の時代になって匈奴右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。
大月氏
イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党(大月氏)は、もともとそこにいた塞族の王を駆逐してその地に居座った。しかし、老上単于(在位:前174年 - 前161年)の命により、烏孫の昆莫が攻めてきたため、大月氏はまた西へ逃れ、最終的に中央アジアのソグディアナに落ち着いた。そこで大月氏はアム川の南にあるトハリスタン(大夏)を征服し、その地に和墨城の休密翕侯(きゅうびつきゅうこう),雙靡城の雙靡翕侯(そうびきゅうこう),護澡城の貴霜翕侯(きしょうきゅうこう),薄茅城の肸頓翕侯(きつとんきゅうこう),高附城の高附翕侯(こうふきゅうこう)の五翕侯を置いた。
一方、前漢では日々匈奴の侵入に悩まされていたため、遂に西方の月氏と共同で匈奴を撃つべく、武帝(在位:前141年 - 前87年)の時代に張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛,康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。この時の大月氏王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で、女王であった。大月氏女王は張騫の要件を聞いたが、すでに復讐の心は無く、国家は安泰しており、漢が遠い国であるため、同盟を組むことはなかった。
クシャーナ朝
詳細は「クシャーナ朝」を参照
それから100余年、護澡城の貴霜(クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。また、濮達国,罽賓国を滅ぼし、その支配下に置いた。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定される。しかし中国ではそのまま大月氏と呼び続けた。
キダーラ朝 [編集]
『魏書』列伝第九十に「大月氏国、北は蠕蠕(柔然)と接し、(柔然から)たびたび侵入を受けたので、遂に西の薄羅城(バルフ)へ遷都した。その王寄多羅(キダーラ)は勇武で、遂に兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を越え、南の北天竺(インド)を侵し、乾陀羅(ガンダーラ)以北の五国をことごとく役属した。」とあり、この頃の大月氏はクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝(英語版)を指し、中国ではキダーラ朝までを大月氏と呼んだことが分かる。その後キダーラ朝は匈奴(エフタル、フーナ)の侵攻を受けた。
小月氏
月氏から分かれて南山羌(現在の青海省)に留まった小月氏は、その後も生き長らえ、三国時代の記録に「敦煌西域の南山中(チベット高原)、婼羌の西から葱嶺(パミール高原)までの数千里にわたって、月氏の余種である葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおり、それぞれに酋豪がいた。」とある。
また、『魏書』にある小月氏国は上記の小月氏ではなく、クシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝の君主キダーラの子が治める分国で、都は富楼沙城(ペシャーワル)にあった。
昭武九姓
詳細は「昭武九姓」を参照
『北史』,『隋書』,『新唐書』に見える昭武九姓はいずれも月氏の子孫であり、月氏が敦煌,祁連にいた時代、張掖祁連山北の昭武城に拠っていたことから、中央アジアに西遷後、自分たちの故地を忘れぬよう昭武氏を国姓とした。
地理
月氏
『史記』大宛列伝や『漢書』西域伝などで、月氏の故地は敦煌と祁連の間とされている。しかし、和田清,榎一雄,護雅夫らは「月氏の領土はモンゴル高原西部から新疆一帯を占めており、敦煌と祁連の間というはその一部にすぎない」としている。
大月氏
大月氏のいた場所は『史記』,『漢書』の「大月氏国の都は媯水の北に在り、その川の南にある大夏を役属させていた」ということから、媯水すなわちアム川の北(ソグディアナ)に在ったことが分かる。また、その周辺国として北に康居、東に大宛、南に大夏、西に安息(パルティア)があった。
また、大月氏の都は『漢書』では監氏城、『後漢書』では藍氏城、『魏書』では盧監氏城から薄羅城となっている。
五翕侯
大月氏はソグディアナに西遷後、トハリスタンを征服し、そこに5人の翕侯(きゅうこう:諸侯)を置いた。
五翕侯 居城 所在 『後漢書』『魏書』
休密翕侯和墨城西域都護府から2841里、陽関から7802里の地点休密翕侯伽倍国
雙靡翕侯雙靡城西域都護府から3741里、陽関から7782里の地点雙靡翕侯折薛莫孫国
貴霜翕侯護澡城西域都護府から5940里、陽関から7982里の地点貴霜翕侯鉗敦国
肸頓翕侯薄茅城西域都護府から5962里、陽関から8202里の地点肸頓翕侯弗敵沙国
高附翕侯高附城西域都護府から6041里、陽関から9283里の地点都密翕侯閻浮謁国
『漢書』での高附翕侯が『後漢書』では都密翕侯となっている。これについて『後漢書』西域列伝高附国の条に、「『漢書』は(高附を)五翕侯に数えたが、それは事実ではない。(正しくは)安息に属した後、月氏が安息を破るにおよび、高附を得た。」とあり、大月氏のトハリスタン征服直後に高附翕侯を置いたのではなく、クシャン朝時代に丘就卻(クジュラ・カドフィセス)の安息(パルティア)侵攻によって、初めて高附(カーブル)の地を得たというのである。これについての事実は不明だが、『魏書』および『北史』では『漢書』の高附翕侯を踏襲している。
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山陰から〜山陽地方にかけては、何かと中国的なイメージがしますね…何ていったって、中国地方ですからね。
そして徳山や室積、柳井へいっしょに行って下さるのは亀○さんファミリーのご主人、兎王のハイヤーセルフそのものの方です!(尾道出身/尾道も龍国)
これもご縁ですね…思いかえせば、朝倉でもご一緒しましたね〜(朝倉と秋月はすぐ近くです)
康国とは、サマルカンドの事です!
なぜか胸がどきどきどき…
そして夜が来て、母と姉に私と主人も会いに行きました!
鹿児島や宮崎、熊本で出会った事…たくさんの必然的な出来事…夢中で話しました。喜んで聞いてくれていました。
そして、今度行く予定の周南や徳山についてもいろいろと聞きました。
母も徳山にはしばらくの間、住んでいました。子ども時代、東京から戻ってくる時に、一時的に祖父の故郷に身を寄せたそうです。
徳山は、私の母の父の郷里です。旅館を営んでいました。
それで、ふとした事から、思い出しました!実兄が現在、住んでいる秋芳洞近く…秋芳洞って、周芳洞だな〜って。
そういえば、私と兄がまだ幼い頃、はじめて、育ての父に遊びにつれていってもらった場所が秋吉台だったのです♪
兄が尊敬しているのは今でも育ての父…秋芳洞は兄にとって父をおもいださせる場所だったに違いありません。
彼もまた一度名古屋で苦い思いをして、こちらへ移ってきました。
今はそこで再婚して幸せに暮らしています。
今日はそんな兄の嬉しいニュースも飛び込んできました!
来週、発表が認められて、東京にて文化勲章を授与されるとのこと、(詳しい内容はまだつかめていませんが)何だか、同時に光にあがってきている兆し?…
私の方のルート(血脈)も同時に、封印解除されてきているのだというメッセージそのもの…と受け取りました。
兄も一筋縄では行かない人でした。高校生の頃は沖縄の高校で寮生活をしていました。それも忘れてました!
育ての父は沖縄にも関係深かった!何だか不思議ね〜お父さんって何者だったのかしらね…と今日も母と父を思い出していました。
鹿児島から戻り、周南を訪れる前に、母に会えて話が出来た事は本当によかったです。
そして、母や姉に今の意識で伝えられたことも!
す〜っと光が通りました♪
母も今、ベランダでちょっとした野菜を育てたり、自分らしい生活を楽しめているようです。
今度、いっしょにつれていくよ…と言ったら、顔が輝いていました!
若い時はなぜか、あだなが珠(たま)ちゃん…だった母は、玉依り姫かな。
10代の時にはじめてとってもらったリーディングで、
私と母の分霊とは、豊玉姫と玉依姫だと…言われた事を思い出していました…
その人は藤原さんの友のチャネラーの人でしたが…
姉には、昨日の夢でお父さんの弟が出てきて、当然、見た事のない人だったけど…と伝えたら、
あら〜それって◎◎◎おじちゃんの事かね…
消息不明の父の実弟◎◎◎さん…主人が小学生の時、大阪万博があり、大阪に居たそのおじさん家に泊まったのが最後で、それ以来、誰もお会いしていないそう…
私自身、知らない事でした。
何かを伝えたくて、メッセージが入ってきたのでしょう…(九州の地ではなかったな…)
周南や旧長門、古周芳の歴史(中原、松重説)についてあげています。
この地域は、奈良島であり、また旧伊勢宮のあった地でもあるようです。
また仲間と実証すべく、滞在して感じてきますね…
そして調べたところ、香椎宮に繫がっているエネルギーのようです。
そうこうしていると、今日Gさんからメッセージが!
Gさん、来週は四国入りだそうです。
これを聞いてなぜか、すごく嬉しくなった!
私達自身の探求の5月の四国からかなり深くなって…その時に入り続けていたメッセージを繋、繋ぎ、旅してきたから。この意識でまた…Gさんをつうじて、四国に繫がることが出来る…。
また、南九州を旅している同期間に、Gさんは国東半島を訪れていた…
実は夕方、考えていたことは、周南からフェリーで国東半島へ渡り、重藤遺跡を廻ろうかと…
でも、Gさんからのメッセージが入ってきた瞬間に、
そうか〜この間、彼女が行ってくれたからもうそれでいいんだね〜
とわかりました。こんな風に、確実にそれぞれ…仲間たちとの連携を
意識して動くことの大事さを…を感じています。
私のハートの真ん中に、信頼…という言葉が温かく響いています。
今日もまた…光満ちて、大きく繋いだ1日でした…感謝。