古代周芳国の図(古周防旧長門)の歴史その1 |
次ぺージに掲げるのは、「般若姫物語」の舞台となった楊井(柳井)水道の地図である。ひとつは「壇ノ浦」の古戦場の図(古代長門水道)で、もうひとつは古代周芳国の図(古周防旧長門)である。
これを現代日本地図で探すと、瀬戸内海の西端に見つかり、九州国東半島(旧豊後国)に近いことがよく分かる。
約三一〇〇年前、エブス人.ヒッタイト人及び股人らが豊ノ国(東表国・都は宇佐八幡宮)をうち建てた。これがわが国第一王朝の始まりである。そして、その金属文化を伴う水田稲作農業文化圏は、王国の拡大とともに急速に日本列島全体へ普及していった。こうして山陽地方にも、弥生文化の亜羅三毛族(苗族主体)のクニが誕生したのだが、全国どの地方文化史も、約一万二〇〇〇年前の「大洪水」以後の縄文時代のことや、約三五〇〇年前からの弥生時代の歴史を知らないまま、本当の史実を無視して編集されている。
〔茶白山古墳の「大鏡」の出所〕多くの有識者の手に成る『柳井市史』古代編も似たような編集だが、四世紀末の築造という前方後円墳「茶臼山古墳」のことは詳しく記録されている。しかし、明治二十五年に発見され、古墳からの出土鏡としては日本一のものとされる直径四十四・八センチの白銅製の大鏡「変形神獣鏡」(東京博物館所蔵)の出所は明らかにされず、単に「我が国で作られた彷製鏡(中国の漢鏡を真似た鏡のこと)であろう」としている。だが、我々の検証によって、この大鏡など一連の出土品は北九州の筑紫にあった旧伊勢国(ユダヤ人ガド族.猿田彦命のクニ)の吉武高木遺跡(前一世紀頃の世界一の青銅器工場)で製造されたものであると判明した。いどいわゆる「倭国大乱」が始まった頃の一六三年、敵対する委奴国の大国主命(ユダヤ人シメオン族)の攻撃を受け、神聖な神殿(平原王墓遺跡)を壊されて旧伊勢国を奪われた猿田彦五世らは、瀬戸内海を東遷する途次、周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーをつくった。一行は、さらに楊井水道の大畠瀬戸へと至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八腿鏡)を遷社「天照神社」及び「石上神社」を建てた。このとき、八腿鏡の姉妹品として持参していた大鏡等の青銅器類が、神官となった猿田彦命の弟に預けられた。続いて二一三年、扶余族の神武とイッサカル族の公孫氏の攻撃によって、大国主命の委奴国が滅亡したとき、一部(土師氏ら六〇〇人)は出雲へ逃れ、別のユダヤ人(シメオン族・レビ族一・ルベン族)および苗族らの遺民二〇〇〇人は博多から乗船して東遷した。その途次、一行のうち五百人は古周芳の徳山湾(ガド族の旧伊勢社跡)に滞留して、秦人たちの「分国」を建てた。そのため、この地に先住していたガド族たちは簡単に追い払われてしまった。このあと、豊ノ国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じて亡命して来た東表国のエブス人(宇佐氏・中臣氏)の約二〇〇〇人と、ヒッタイト人(蘇我氏)の約一〇〇〇人が一団となって渡海。徳山湾の旧伊勢社跡に合流して、遠石八幡宮(宇佐八幡宮分霊を祀る遠つ旧石清水いそのかみ八幡宮)を建てた。引き続き、彼らは協力して古周芳の徳山湾一帯および大畠瀬戸の石上神社の領域(今の柳井広域圏)を占領し、秦王国の分国「周芳国」を建てたのである。このとき、大鏡などの青銅器類はシメオン族秦氏のものとなり、周芳国の宝物として伝承されるようになった。四世紀末、時の周芳国王が亡くなると、茶臼山古墳が築造され、これらの宝物が王の副葬品として埋葬された。
かくして時は流れ、いつしか忘れ去られていたものが、一八九二年(明治二十五年)になって発掘されたという次第である。
〔周芳国王・楊井氏の家系〕
三世紀初頭、委奴国+東表国の亡命集団は、その後も相当な日数をかけて東遷し、やがて、猿田彦命の弟たちが建てていた近畿地方の東てい国を攻め亡ぼして「秦王国」を建てた。その後の秦王国(倭国)およびその分国・周芳国の歴史については、前著『失われた大和のユダヤ王国』で詳しく述べたので割愛するが、この周芳国王(茶臼山古墳の被葬者・シメオン族秦氏)の子孫は、楊井氏を名乗って代々楊井津に居住し、楊井本庄とも呼ばれる平安時代からの荘園主となった。やがて、鎌倉時代には地頭となったが、室町時代、守護大名大内氏と争い、足利将軍家(カッシート族)の干渉によってこの地を離れ、備中方面に移動して数万石(一説には六万石)のたかはしだかだんし領地を支配するようになった。現在、その子孫は岡山県高梁市に居住し、"備中高檀紙4(宮内庁御用の和紙)の総本家柳井氏として健在である。ねかさなお、毛利家文書『萩藩諸家系譜』に見える毛利家の家臣柳井氏は、玖珂郡根笠村(現岩国市美川町)の旧周芳国鉱山差配役・楊井氏(子孫は柳井氏として地元に健在)の亜流である。この流れを誤解して毛利家の家臣となった柳井氏を、旧楊井氏の本流のように語る地方史家がいるようだが、これは従来の皇国史観教育によるものであり、この方たちも"この誤解を解く"努力を一日も早く開始して欲しいものである。ちなみに、当時の武士気質から考えて、かつての周芳国主であった家系の子孫が、痩せても枯れても、誇りを捨てて敵方大内氏の跡を継ぐ周防国主毛利家の家臣になったとは、とても考えられない。また、ついでに述べておくと、戦国時代、主家尼子家の再興を願って、月夜に「吾に報難辛苦を与えたまえ」と天神に祈ったという武将山中鹿之助のことはよく知られているが、彼が岡山県を移動中、備中甲部川阿井の渡で毛利氏に殺されたのち、その子孫は味噌・醤油の行商人となった。一家一族は苦労しながらも灘の酒問屋となり、やがて飛脚・廻船問屋業で大成功を収め、ついに日本一の銀行家「大阪鴻池」となった。その鴻池十一代目の当主が明治維新の折、代々貯めこんだ埋蔵金を勤皇の志士や幕府方の双方に挙出して、文明開化到来の"世直し資金"とした。すなわち、武士は二君に仕えず、農民や商人になって財を蓄えても余分な金は社会に還元した。これが真の「日本武士道」であった、ということか。
〔吾田八幡宮から代田八幡宮へ〕
先述のように、遠つ(古の)石清水八幡宮が建てられたが、このとき、遠石八幡宮から宇佐八幡の神需を楊井水道に勧請して吾田八幡宮を建てた。古老の伝承によれば、「往古、豊前八幡より勧請して吾田八幡宮と号す」というから、遠石八幡宮からこの地へ渡来した当初は、神和(柳井市黒杭)の大歳神社境内に鎮座されていたのであろう。やがて、平安初期の八三三年(天長一〇年)、社殿を今の宮本に遷して代田八幡宮と称えた。みやけ一六四八ー五一年の慶安年間に火災にあって古記録類を焼失したが、神官三宅家は「むかし遠石八幡宮と同年の勧請なり」と氏子に語り、古老伝承が正しいとしている。ちなみに、このとき以来、遠石八幡宮(徳山)の祠官は黒神氏が世襲し、代田八幡宮(柳井)の祠官は三宅氏が世襲している。黒神氏も三宅氏も旧い中臣氏一族であるから、ともに豊前の宇佐氏を本家として崇めていたのである(「郡志」参照)。以上によっておわかりのように、日本一の大鏡が出土した「茶臼山古墳」も、柳井津の郷社「代田八幡宮」の由来も、共に三世紀のいわゆる「神武東征」の際、朝鮮から渡来した扶余族公孫氏の連合軍に追われた委奴国の秦氏らが、瀬戸内海を東遷の途次、楊井水道にうち建てた周芳国の「建国」にまつわる歴史であった。ちなみに、田布施町の後井古墳、国森古墳等に加えて、平生町の白鳥古墳、神華山古墳、阿多田古墳などは、すべて秦王国の分国・周芳国に関連する遺跡である。これまで縷々述べてきたように、東表国→旧伊勢国→委奴国→秦王国・周芳国およびたい国(併せて日本旧国二〇〇〇年)の歴史があったればこそ、上代の「満野長者物語」および「般若姫伝説」が生まれ、中世には、竜神という海武士たちが瀬戸内海を縦横に駆け巡る"玉取り伝説〃として、幾多の文芸・美術・芸能などに登場した。その舞台となった楊井水道楊江(古代人は揚子江のように滑々と流れていた海峡をこう呼んでいた。筆者のペンネームもそこに由来している)は、万治・寛文年間(三七〇年前)の埋立てによって陸地となった。
引用文献 倭人のルーツの謎を追う 松重揚江著 たま出版